僕は、元ヴィジュアル系。
(その面影はもはや1%もないが…)
ヴィジュアル系の基本は、「哀しみ」「悲しみ」だと思う。
「孤独」「痛み」「苦しみ」「絶望」「退廃」「志」…。
そうした負の感情に向き合うのが、V系精神だと思っている。
「快楽」「華麗」「幻影」「覚醒」「刹那」「再生」…。
暗く哀しい世界観とそれをどこまでも肯定するポジティブ感覚。
僕の研究人生はすべてそこから出てきているように思う。
…
今日、あまりにも哀しく絶望的な小さなニュースが流れた。
民家の押し入れから赤ちゃん2人の白骨遺体
2018年10月21日 1時27分 日テレNEWS24
埼玉県滑川町の民家の押し入れから白骨化した赤ちゃん2人の遺体が見つかった。
警察によると19日、埼玉県滑川町の民家に住む女性から「引っ越しをしようと片付けをしていたら赤ん坊の遺体が出てきた」と通報があった。
警察官が駆けつけたところ、2階の押し入れから、タオルにくるまれ白骨化した赤ちゃん1人の遺体が見つかり、その後、もう1人、白骨化した赤ちゃんの遺体が見つかったという。赤ちゃんはいずれも生後数か月ほどとみられている。
遺体が見つかった部屋には、15年ほど前まで女性の長女が住んでいたが、今年6月に亡くなっていた。
警察は、この長女が関与した可能性があるとみて、死体遺棄事件として捜査している。
この事件の記事を読んで、途方もない哀しさに襲われた。
「遺体が見つかった部屋には、15年ほど前まで女性の長女が住んでいたが、今年6月に亡くなっていた」
という一文に、どうにもならなかった哀しみと絶望を感じる。
発見した女性(母親の母親)の絶望、亡くなった女性(母親)の絶望と死、
そして、死んで発見された二人の赤ちゃんの死。
なぜ、母親は亡くなったのか。自殺か、病気か。
15年前にもし25歳だとすると、今年で40歳、か。
15年前に20歳だとして、35歳か。
おそらく35歳~45歳くらいの母親だったのだろう。
つまり、僕ら世代ということになる。
発見した女性(母親の母親)は、おそらく70歳くらいか。
70歳での引っ越しとなると、もしかしたら老人ホームへの引っ越しかもしれない。
全部、「かもしれない」の話だけど、ここに「途方もない哀しさ」を感じる。
母親は既に亡くなっているので、「逮捕」されることはない。
でも、その母親は、救われることなく、この世を去っていった(想像でしかないけど)。
このような事件もあるのか、と僕は溜め息をついた。
と同時に、やはりこの研究はしっかり続けなければ、とも思った。
元V系の研究者としての使命感みたいなものも感じた。
この世の最大の哀しみは、子を失うことだと思う。
<生命>の哀しみと言ってもいい。
死に「優劣」はないけれど、哀しみには「段階(レベル)」があると思う。
親の死、パートナーの死、親友の死、…
死には様々な関係性が付随するけれど、その中で「我が子」の死ほどの哀しみはない。
今回のこの事件は、娘の死と娘の二人の幼い子の死が重なっている。
発見した女性(母親の母親)の哀しみはどれほどだろうか。
(もしかしたら、その哀しみに気付けないくらいに哀しい人かもしれないけれど)
…
先日、D'ERLANGERの新曲「哀」がリリースされた。
D'ERLANGERなしに、今のV系シーンはなかったと僕は確信している。
彼らが放った新作は「哀」だった。
この言葉に、V系の伝統を感じると共に、今なお生きた概念であることが分かる。
バンドマンも研究者も、個々の人の「哀しみ」を直接癒すことも助けることもできないけれど、
そこに向き合い続けることはできる。語り続けることはできる。
V系の「音」を聴いて、自らの哀しみを慰め、癒し、そして立ち上がる人はいる。
僕はバンドマンみたいに音で人々に語り掛けることはできないけれど、
「言葉」で、世の中にそういう人の存在を「提示」することはできる。
今年6月に亡くなったこの女性の存在を意識し、その存在を認め、
そして、その女性の死から、何かを感じ、そして語り続ける。
それくらいしか僕にはできないけど、やらなければその存在に光さえ当たらないだろう。
ゲーテやペスタロッチが嘆いたように、僕も「緊急下の女性」の悲劇を嘆く。
ゲーテやペスタロッチが求めたように、僕も彼女たちの支援を求める。
そして、菊田昇さんや蓮田先生が動いたように、僕もいずれ動きたい。
今回のこの報道は、あまりにも哀しすぎるものだった。