Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

■フィリアについて<1>■『教育学的愛』より

2.2 フィリア 精神的・人格的な愛

問題:「人間が愛するということには、フィリアに包まれたエロスとエロスに満たされたフィリアが含まれている。ゆえに、フィリアとエロスは互いに必要とし合っているのであって、決して互いに妨げ合わうことはない。フィリアがなければ、エロスは人間の底に沈んでいき、エロスがなければフィリアは人間の上空へと消えていく」

愛の第二の次元を示すためには、一般に「友情(Freundschaft)」と訳されるフィリア(Philia)の概念が必要となろう。エロスのあらゆる展開はプラトンの思考に負っているのだが、ルネッサンス期やロマン主義のヒューマニズム(人文主義)において最盛期を迎え、同時にそのさしあたっての終着点となった「友愛(Freundesliebe)」の哲学的・文献的研究の出発点は、アリストテレスに、とりわけ彼の『ニコマコス倫理学』にある。前者では、フィリアは、たしかに一つの役割を果たしているが、どちらかと言えば、一般に「愛の『讃えるべき』姿をもっていない。エロスやアガペーと比べても、愛することの固有な様式として扱われてもいなければ、主題化されてもいない。ユルゲン・エッカルト・プライネスにとって、愛するということは、個体化(Individualisierung)の精神であり、その精神によって自己実現と自身の幸福を欲求することであり、そこにはもはや真の友情の余白はないのである。プライネスによれば、友情は、その根源的な意味とは対比的に、今日では「魅力ある欄外の注解(Randglosse)」となってしまっている。

友情概念の中身を適切に理解するためにも、一般に通用するフィリアの標準的な翻訳を友情という語で言い表わし、その友情と同一なのだ、ということを示さねばならない。これは確かに間違いではないが、同時に、ギリシャの的確な表現力が弱まってしまう。アリストテレスにとって、フィリアは、母の子に対する愛も含みいれることのできる人々の下での愛の特別な次元を意味していた。友情は、アリストテレスにとっては、一連の様々な人間関係の全体を表す上位概念なのであった。

つづく

エロス論はこちら! 

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