徒然草第九十七段は「こだわりが身を亡ぼす危険性」を論じている。
「その物に付きて、その物を費(つい)やし損なふもの、数をしらずあり。身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり、小人に財(たから)あり、君子に仁義あり、僧に法あり」
「あるものにくっついて、本体をだめにしてしまうものは数知れない。体に付着する虱、家に住み着く鼠、国の利権にたかる国賊、つまらぬ人間が固執する財産、立派な人間がこだわる仁義、僧侶が執着する仏法も身を亡ぼす」
直訳すると兼好法師の意見は世間で立派な人間を思われている人に手厳しい。
俗っぽい人間(小人)が財産にしがみついて身を亡ぼすことと立派な人間(君子)が道徳の筋道(仁義)に固執して身を亡ぼすことを同じように批判している。また僧侶が仏法に執着するのも身を亡ぼすもとと喝破する。
徒然草の原文を直訳しても兼好法師の真意を伝えることは難しい。私は次のように解釈している。
「仁義(道徳の道筋)も仏法も人間らしく生きるための方法論である。方法論に固執し、それを目的としてしまうと人間らしい生き方を損ねてしまうことがある」
もっともこれは私の解釈であり、これが世間に流布している解釈かどうかは私の興味の範囲にない。
健康ブームが過熱化した時「健康のためなら死んでもかまわない」というブラックユーモアがささやかれたことがあった。本来健康とは良い人生を長く送るための手段なのだが、目的化するとこんな話になってしまう。
コロナウイルス問題にも同じような側面がありそうだ。個人レベルではコロナウイルス感染リスクに怯えて自宅籠りを続けてフレイルに陥り、社会レベルでは人々が過度に委縮して経済活動が低下し、経済的苦境がストレスを高め、生命と健康の脅威となるという事象も「過度の執心・過度の正義感が命の脅威になる」一例かもしれない。
この複雑で単純な正解がない世の中で真実を見出すのは難しい。時に信念は妄執につながり、妄執は冷静な判断力を曇らせる。本当の価値とは何かということを念頭に置きながら多面的にものを見続けることしかないのだろう。