今日(5月9日)に日経新聞朝刊(ネット版)に「りそな銀行が今年10月から再雇用の上限年齢を70歳に引き上げる」という記事がでていた。
再雇用年齢引き上げで先行する地銀に追随する大手行としては初めての動きだ。
記事は銀行業界ではバブル崩壊後の採用抑制の影響で人材が手薄になっている銀行側の事情や働く側の「寿命が伸びたことによる老後資金の増加・年金支給年齢の引き上げ」など経済的な理由をあげている。
経済紙だから経済的側面から雇用延長を論じるのは当然だが、国家、企業、働く人それぞれが経済的側面を超えて「働き続ける意味」を考える時期に来ているのではないか?と私は考えている。
働く意味についてローマ教皇フランシスコは次のようなことを述べている。
アルゼンチンで生まれ育ったフランシスコ(本名はベルゴリオ)は、働きながら専門学校(食品化学)に通っていた。教皇は当時の経験を振り返り「努力をいとわなぬ職業倫理が自分の人格形成に大きな役割を果たした」と強調し、「打ち込める仕事がないと人間の尊厳は損なわれかねないとし、働く者こそ社会の中心であるべきだ」と述べている。
働く意味は人間の尊厳を維持することにある、という趣旨だ。
この「人間の尊厳を維持する」ということをブレークダウンして考えてみよう。
私は大きく分けて3つの要素があると思う。
第一は「経済的自立」だ。人に扶養されている訳ではないので自分の意思で行動する自由がある。
なお企業年金や退職金で暮らしている人は「経済的に自立している」ので全く卑下する必要はない。なぜならそれらは給料の後払いであり、自分の稼ぎで暮らしていることに変わりはないからだ。
第二はマズローがいうところの「承認の欲求」や「自己実現の欲求」が満たされるからだ。もっとも仕事を通じて自己実現を果たすような遣り甲斐のある仕事に出会うことは多くないかもしれない。これは60歳未満の人でも程度の差こそあれ、同様な問題を抱えている。だから人は趣味やボランティア活動などで仕事だけでは満たされない自己実現を補完するのである。
従って「定年後は自分には自己実現のためやりたいことがある。だからもう働かない」という確固たる目標を持っている人は仕事を続ける理由はない。
第三は「仕事には継続的な学習が必要で、学習が人間の地平線を広げる」という点だ。
昔からやっていた同じような仕事でも、IT技術の進展などによりプロセスは変化している。法律やルールも変わっていく。仕事を続けるには継続的な学習が必要で、学習が知見と技術の地平線を広げていく。若い時ほど吸収力はないのでその進歩は遅々としたものかもしれないが。
だがその遅々とした進歩が回りの人にある種の尊敬の念を覚えさせるのではないだろうか?
もちろん継続的な学習は仕事をしなくても続けることはできる。だが仕事がある方が一般的には学習を続けるだろう。
夢のある社会とは自分の目標を実現できる社会だ。目標は人それぞれに多様だ。多様な目標を実現しやすい社会という意味では「再雇用年齢の引き上げ」は歓迎すべき動きだ。なお実現には幾つかハードルはあるが本当は「定年年齢がない」社会を目指すべきだと私は考えている。
働く意欲と能力のある人が働きたいと思う間は働くことができる社会、それは同時にやめたい時に仕事をやめ自分の別の目標に向かって歩いていく人を称賛する社会でもあるはずだ。
幾つかハードルはある、と書いたが少子化で労働人口が減少している現在、そのハードルは昔考えていたより低いかもしれない。