金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

【書評】孤舟(渡辺 淳一)、少し身につまされて・・・・

2010年10月07日 | 本と雑誌

ネット上の書籍紹介で渡辺純一の「孤舟」(集英社)のさわりを読んで興味がわいたので昨日読んでみた。

主人公・威一郎は大手広告会社を60歳の定年で辞めて自適の生活を始めようとした男。威一郎は広告会社で常務執行役員まで出世したが、定年後に会社が用意した大阪の関係会社社長というポストが不満で潔く会社を去る。

ところが仕事を辞めて毎日家にいると、奥さんのストレスがたまってきた。一種の「主人在宅ストレス症候群」である。ストレスが臨界点に達した時奥さんは最近一人暮らしを始めた長女のマンションに行ってしまい、威一郎は一人暮らしになる。

暇をもてあました威一郎はしばらくして、デートクラブで若い女性を紹介してもらいデートを重ねる・・・・

渡辺純一的にはこの後、威一郎と若い女性は深い仲に・・・とちょっと想像するがそういうことにはならず~このデートクラブというのは、身元のしっかりした男性にあくまで食事をしてお話するちゃんとした若い女性を紹介するクラブ~まあ、平凡といえば平凡、無難といえば無難な結末を迎える。

娘のところに行っていた奥さんも家に戻り、デートの痕跡は発見されるけれど大事にはならず、また元の日々が戻ってくる。

ただし威一郎の内部では変化が起きた。それは「会社を辞めて地位も役職もすべて失い、ただの威一郎になった」自分を静かに受け止める姿勢ができたということだ。

「たしかにこれまで、男は家事などより、もっと知的な社会的なことをやるものだと思っていた。しかしそれにこだわるのは、生き方を狭めるだけである。それより日常の炊事や家事をやれなければ意味がない。それこそ、人間の生きていく原点のような気がする」という心境に威一郎は達する。

ここで私はふと道元禅師が修行のため中国に渡った時、ある老典座と交わした問答のことを思い出した。典座とは食事係の僧侶である。若かった道元は老典座に「食事の世話などより禅僧として修行することがあるでしょう」という主旨の質問をする。これに対して老典座は「お若いの、日本から来られた人」と笑うのみだった。

道元は後に禅の修業における食事の重要性を悟る。だがそれはかなり後の話だった。

正法眼蔵の中で道元禅師は「修証一如」と説かれた。修は修行のこと、証は悟りのことだが、私は人生の目的と解釈しても良いと考えている。つまり修行~日々の行い~こそが悟りであり目的であり、日常生活を正しく生きることを外れて悟りはないと道元禅師は教えられたのである。

小説「孤舟」は「どれだけやれるかわからないが、とにかくいまから一歩踏み出してみよう。すぐ駄目になるかもしれないが、まず変わるのだと、威一郎は自分にいいきかせる」と結んでいる。

ところで孤舟は一隻だけの孤独な船。辞書に出ている単語なのだが、パソコンで「こしゅう」を変換させようとしたが、「孤舟」は出ず「固執」という単語に変換された。今までに固執すれば孤舟になる・・・・というのが私のオチである。

コメント (1)
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