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追憶の彼方。

思いつくまま、思い出すままに、日々是好日。

戦争責任最終回―2

2021年09月24日 | 政治・経済
戦争責任最終回―2
昭和16年(1941年)11月東条首相が対米開戦方針を昭和天皇に上奏した際、戦争の大義名分は何かと聞かれ、「研究中であります」、としか答えられなかった。
海軍では米国の禁輸措置で止むにやまれずの「自存自衛」であると言う意見が多かったが、これは石油等の資源の自給自足体制を確立する為に、他国(最初は中国に、日中戦争後は東南アジアに)に侵略することであった。一方陸軍は東条を中心に「泥棒する為の侵略(東条の発言)」では戦争の大義名分が立たないとして、アジアを開放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという「大東亜共栄圏」を主張し続けた。太平洋戦争は「アジアの独立・民族開放の為の聖戦…大東亜戦争である」という主張である。しかしこのような主張をするのは東条に近い一部軍人のみで、多くの軍上層部は「資源政策や軍事戦略上の重要性」から、太平洋戦争の引き金となった北・南仏印進駐を語っている。その証拠に当時の軍最高の命令機関であった「大本営」の機密文書、陸軍参謀本部長への勅命「大陸命」には仏印進駐の目的は【①シナ側補給路線の遮断、②占領地の治安を回復し重要国防資源を取得し、且つ軍自活の道を確保する為、占領地に軍政を施行ス】、と明確に述べられている。この勅命は陸軍参謀総長・杉山元の名前で各前線司令官に伝達され、「鉄や石油等の重要国防資源の確保の施策」の徹底が図られる事になった。
この為ベトナム・マレーシア・シンガポール・インドネシアは独立を認められず、日本領に編入されて軍政が行われる事になった。軍は現地での自活を図る為、軍政と同時に予め日本で印刷し準備していた現地通貨表示の大量の「軍票」を現地通貨と等価で流通させ、物資調達を図った為、現地は数百パーセントという凄まじいインフレに見舞われ、現地国民の生活は窮乏を極める事となった。
「白人の帝国主義支配からアジア人の解放」「大東亜共栄圏の確立」等は東条が云った通り「泥棒」を隠蔽する為の方便に過ぎなかった。「大日本帝国を盟主とする」と言った数々の条件付きで形式的に独立を認めたのは、ビルマ・フィリピンのみで、満州国と同じ植民地化であり、「東亜の解放」を名目に、英・米・オランダの支配地域から資源を奪い取る事が主目的であった。

 太平洋戦争は1941年12月8日、宣戦布告をする前にハワイ・真珠湾攻撃とマレー半島英軍への奇襲攻撃で始まった。10日、中国が日本に宣戦布告、11日には独・伊両国がアメリカに宣戦布告し、遂に世界大戦の開始となった。戦争目的は8日の宣戦詔書では「自存自衛」、12日の閣議決定では「大東亜新秩序建設」、戦争名称は「大東亜戦争」と迷走した。
天皇から避戦を託された東条だが陸軍強硬派に恐れをなし、主戦論に凝り固まった参謀総長・杉山元、参謀本部作戦部長・田中新一を解任すべしとの声に耳を傾けず其のまま留任させた為、彼等は米国との外交交渉の期限を10月上旬から末日に変えただけで昭和天皇の避戦の意向の芽は完全に無視していたのである。木戸内大臣の東条起用は完全な誤算でその責任は極めて重大であった。

戦局は闇討ち的な真珠湾攻撃とマレー半島英軍攻撃によって大きな戦果を挙げ、翌1942年1~2月マニラ・シンガポール占領迄は順調に勝利を収めた。政府の戦勝祝賀国民大会、大政翼賛会、愛国婦人会、日本文学報国会、在郷軍人会、マスコミが競って戦勝気分を盛り上げ、開戦後の半年間は国を挙げて戦勝に酔いしれた。 文豪・武者小路実篤ですら「日本を敵に回す恐ろしさを知らないルーズベルト・チャーチルは何んと馬鹿なんだろう。」とまで言わしめている。
しかし僅か半年で舞台は暗転した。42年6月ミッドウエー海戦で、空母4隻全滅、艦載機285機、熟練パイロット100人,将兵3千54人の喪失等、太平洋の制海・制空権を完全に失う事となった。米軍は早い時期に撃沈した日本の潜水艦から暗号書を引揚げ、海軍の暗号解読に成功して居り、日本の大艦隊出撃を察知して、強力な空母艦隊・航空隊で待ち受けていた。甲板に爆装した儘放置された航空機もろとも大規模攻撃を受け赤城等の空母4隻は戦わずして誘爆を起こして沈没した。情報戦の優劣が戦局を大きく左右したことになる。海軍は敗戦の事実、責任の所在を明らかにせず、当時の読売新聞は米空母2隻を撃沈という情報のみを伝えている。「大和」を旗艦とした戦艦7隻を中心とする連合艦隊主力部隊は、敵艦隊は現れないだろうと言う勝手な思い込みで、南雲機動部隊のはるか後方300海里(約5百50キロ)の位置に留まっており、実戦には参加していなかった。旗艦・戦艦大和で作戦の指揮を執っていた山本五十六連合艦隊司令長官の責任は極めて大きい。
5月7日米軍が降伏したフィリピン・コレヒドール島を脱出したD・マッカーサー大将は連合軍司令官としてミッドウエーの勝利を反攻の時期と捉え8月7日ガダルカナル島に猛攻撃を加えた。
日本も陸海軍をつぎ込み反撃したが戦略の不味さから惨敗を重ね、食料・薬品の物資補給も出来ず、マラリアと飢えで戦場はさながら地獄絵と化した。この戦いで航空搭乗員2362人が戦死、上陸した3万人の兵士の内2万人が死亡したが、其の8割弱は餓死と病死だった。12月末大本営は撤退を決定、1943年2月に所期の目的を果たしたと国民を欺き「ガ島」からの転進を発表した。(退却を転進、敗戦を終戦と言い募る往生際の悪さは日本の伝統である)
一方連戦連勝のドイツ軍もモスクワ近郊まで攻め込んだがスターリングラード攻防で戦力を使い果たし、同じ43年2月ソ連軍に降伏した(投降者20万人)。枢軸国側はこの時点から坂を転げ落ちるように劣勢に追い込まれる。
3月、武器弾薬不足で苦戦中のニューギニア部隊救援の日本輸送船団8隻が全滅、3千6百人が海の藻屑と消えた。4月、孤立したラバウル航空隊激励に赴いた山本司令長官が撃墜死した。
5月にはアッツ島の守備隊が全滅した。アラスカ州極寒の地、日本兵2千6百人に対し島の奪還を図る米軍は1万1千人を投入、樋口司令官は増援を送る事が出来ず『玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮せよ』と打電した。守備隊は命令通り傷病者は全て処分し、敵陣に死の突撃をおこない玉砕した。

劣勢局面を何とか打開したいとして、東条が打ち出したのが『大東亜会議』の開催である。会議に先立ちビルマ(現ミャンマー)、フィリピンの独立を承認,チャンドラ・ボース首班の『自由インド仮政府』の承認を行い大東亜省を設置した。
43年11月に開催された会議には上記3国にタイ王国、日本の傀儡政権(満州、中国国民政府)が加わったがタイは参加を拒み首相代理が参加した。共同宣言は『大東亜各国は相提携し大東亜戦争を完遂する』として戦争への協力を促したが、玉砕相次ぐ落日帝国のあがきとしか映らなかった。帝国議会の反軍政治家・斎藤隆夫は『自国の戦争目的は正義、他国のそれは不正義であるから、最後の勝利は我にありと宣伝したところで何人も真面目に受け取る者は無く…』と批判した。
この会議に首席したチャンドラ・ボースが東条に英国支配が続くインドへの派兵の直訴を繰り返した。これが日本軍7万2千人の死傷者を出したインパール作戦の契機となった。インドの要請を知った牟田口廉也第15軍司令官がインド東北部インパール占領作戦構想を作成したが、現地制空権は連合国が握っており、道路・物資補給面と悪疫等問題山積として反対する大本営に対し、功を焦り執拗に作戦実施を迫り、東条に直訴までした結果、東条からこの辺で一つ大きな戦果を挙げてくれと言われたビルマ方面軍司令官・河辺正三が賛同に廻り、1944年1月実施が決定した。
牟田口の作戦は『食料は敵に求めるか又は野草とする、3週間で攻略する』という正気とは考えられぬ無謀なものであった。当然の事ながら雨期の泥濘の中、マラリアと食糧不足、弾薬不足で戦闘能力を無くし、作戦中止は7月まで持ち越された為、多くの兵士が見殺しとなった。師団長が訴えた如く、『軍と牟田口の無能』が多くの兵士の無駄死を招く事となった。
同じ頃、欧州とアジアで決定的な戦闘があった。史上最大の作戦と言われた『ノルマンデイー上陸作戦とサイパン島上陸作戦』である。この2大作戦の成功により連合軍は第二次世界大戦の勝利を確実なものにした。
サイパン島奪還の為急行した日本の連合艦隊は空母3隻、航空機430機を失い、孤立した日本のサイパン守備隊は44年7月7日全員玉砕した。これ以降、テニアン島、グアム島、硫黄島などで日本軍は次々玉砕していくことになる。 日本兵が捕虜にならず、死の突撃を行って玉砕するのは1941年1月に東条陸相が示達した『戦陣訓』の中で『生きて虜囚の辱めを受けず』として捕虜になる事を禁止していたからである。戦陣訓は如何に多くの兵士を無駄死にさせたか、この責任は計り知れないものがある。
44年7月18日、東条はインパール作戦の失敗とサイパン島陥落の責任を取って辞任した。
この時参謀本部は『戦争遂行の為の国力整備の見通し立たず、対米攻勢反復出来る力は無い。敵の侵攻決戦で相手を破砕出来る自信無し、等々』極めて厳しい現状認識を示していた。この時点で最高戦争指導会議が戦争終結の決断をしていたら、少なくとも150万人近い日本人の命が救われていたことになる。(フィリピンで50万、ビルマ・沖縄・硫黄島等で30万、満州で20万、本土空襲と原爆で50万という計算になる。)
残念ながら東条の後を継いだ小磯首相は、何とか米軍に一矢を報い有利に対米講和に持ち込みたいと言う日本伝統の虫の良い『一撃講和』を考え、新たに設置した最高戦争指導会議では杉山陸相等から必勝を信じ,戦争完遂に一路邁進すべきと言った勇ましい発言が次々出された。大本営・陸海軍部は本土決戦を決意し国防の為の地域別捷号(しょうごう)作戦を立てた。一号はフィリピン、2号は沖縄、3号は本土である。しかし早くも44年10月にはフィリピン・レイテ島陸海戦に敗れ45年1月マニラは陥落した。作戦は2号の沖縄戦に移ったが、大本営は沖縄を本土防衛の為の前線としか位置付けておらず、本土決戦の準備に重点を置く必要から沖縄への増援を怠った。沖縄は本土ではなく、単なる時間稼ぎの戦場、謂わば『捨て石』としか見ていなかったことになる。海軍上層部に多かった薩摩人の沖縄に対する伝統的な考えである。
45年2月米軍は、小笠原諸島の硫黄島に上陸、3月17日までに守備隊2万人が玉砕・戦死した。
4月1日、愈々米軍は沖縄攻略作戦を開始した。上陸部隊18万人を含め55万人の太平洋戦争史上最大規模の上陸作戦であった.これに対し沖縄に配備された日本の正規軍は陸軍8万6千人、海軍陸戦部隊1万人に過ぎなかった。
当然のことながら、戦闘は悲惨を極め、6月23日牛島司令官,長参謀長の自決で事実上終結、戦死者は日本兵9万4千人、県民も9万4千人であった。軍の増援が無かった為、17歳以上の男子2万数千人を根こそぎ招集、中学・女学校の生徒達を学徒動員として駆り出し、『ひめゆりの塔』の様な悲劇を生んだ。
兵力不足によってフィリピイン・レイテ開戦で大西中将が始めた『特攻隊攻撃』が戦闘の主流となった。
45年4月5日小磯内閣総辞職、東条が威圧的に陸軍出身の畑俊六をを推したが、重臣や天皇の意向で海軍出身の枢密院議長・鈴木貫太郎(本人は固辞)に組閣大命が下った。陸軍は鈴木を警戒し杉山陸相は①戦争完遂、②本土決戦必勝の為陸軍の施策実行等を組閣条件として強要、鈴木はこれを受け入れた。東条の廻りには何の成算も無いのに戦争完遂を叫ぶ狂的な軍官僚が集まり、クーデター迄検討し始めていた。
その翌日6日、航空特攻が九州や台湾基地から沖縄周辺の米軍艦船目標に出撃、6日だけで222機を喪失、学徒動員による学生を含む340人が戦死した。3月中旬から終戦に至る沖縄方面での航空特攻の死者は3千人強に達した。4月5日連合艦隊は『戦艦大和』等第2艦隊に沖縄への海上特攻を命じた。最早海軍首脳は完全に正常な判断力を喪失していたことになる。7日沖縄に到達する前に米軍機の攻撃を受け3700人の将兵と共に撃沈、海の藻屑と消えた。
沖縄戦に敗退し、鈴木内閣は『一億玉砕』のスローガンの下、『国民義勇隊』の結成を決め、戦闘要員として男子15歳~60歳、女子17歳~40歳を動員する『国民義勇兵役法』を制定した。武器は竹槍、弓、指股、信長が使った様な先込銃等であった。軍上層部は狂気の戦争継続を図る為、国民は消耗品、国民の生命など一顧だにして居なかった事を物語る。
米軍も沖縄戦で1万2千人余りが死亡、6万2千人余りが神経症を含め負傷した。米政府首脳は大きな被害に衝撃を受け日本本土進攻の再検討に入った。6月3日米・ステイムソン委員会が日本への原爆使用を勧告、7月16日原爆実験に成功した。
沖縄での日本軍最後の抵抗日である6月22日、最高戦争指導会議メンバーが天皇に呼ばれ、戦争の終結も含め意見聴取をうけた。この席で東郷外相が考えていたソ連を通じた和平工作案が示され、初めて戦争終結への努力が天皇によって後押しされる事になった。東郷外相は、広田元首相とマリク・ソ連大使との交渉を画策したが進展せず、戦争終結の天皇意向を伝える親書をモロトフ外相に手渡すべく近衛特使が検討されたが、ソ連から特使派遣を拒否された。ソ連は4か月も前にヤルタ会談でドイツ降伏後3か月以内の対日参戦を米英に約束して居たが(実際、8月8日に対日宣戦布告をしている)、日本はこの事実に全く気付いていなかったのである。(しかし日ソ中立条約は46年4月迄有効でありロシアの完全な条約違反である。)
欧州では4月30日総統ヒトラーが地下壕で自殺し、5月7日ドイツが連合軍に無条件降伏していた。連合軍はドイツ・ベルリン近郊のポッダムで7月17日から米・トルーマン、英・チャーチル、露・スターリン3首脳で行われていたが、ポッダム宣言には米・英首脳と中国・蒋介石総統が署名した。元々ソ連は日本と戦争状態になかった事と、米は原爆成功を受けソ連の参戦が不必要となったと考えソ連外しに出たのである。
1945年7月26日ポッダム宣言が発表された。内容はドイツに対するより緩やかであったが,陸軍の反発もあり東郷は少しでも有利になるようソ連からの(来る筈のない)返事が来るまで回答を引き延ばす作戦に出た。しかし鈴木首相が記者会見で『ポッダム宣言は重大な価値は無く黙殺し、戦争完遂に邁進する』と、軽率に口走ってしまった。
この『黙殺』発言が連合国側に宣言拒否と受け取られ、米国による原爆投下とソ連の対日参戦の口実に使われる事になった。東郷等がソ連の回答を首を長くして待っていた8月6日朝、広島に、9日には長崎に原爆が投下された。又スターリンの『軍事的貢献無しに極東での勢力拡大は無い』との判断に基づき、ソ連軍の一斉越境もはじまった。
9日、最高戦争指導会議が天皇臨席の下開催された。受諾条件を『国体護持』一本に絞ると言う東郷案に阿南・梅津・豊田が『武装解除は日本が自発的に行い、戦争犯罪人の処罰も日本が行う。』という虫の良い条件付加を主張したが結局天皇の裁断で受諾が決定した。
15日青年将校グル‐プがクーデターを画策し阿南陸相に決起を求めたが、阿南は陸軍に対する天皇の信頼は完全に消失したとして、これに応じず自決した為、かろうじて不発の儘一件落着した。
同日天皇による『終戦の詔勅』がラジオで放送された。9月2日には東京湾ミズリー戦艦上で降伏文書に調印がなされた。真珠湾攻撃から3年8か月が経過、日中戦争を含め日本の戦没者、軍人軍属2百30万人、一般市民・内地50万人満州等外地で30万人であった。7月26日のポッダム宣言発表後、沖縄、硫黄島、空母からの
B29爆撃による全国への爆撃は熾烈を極め、原爆投下も含め8月15日の終戦詔勅放送の日迄続き、凄惨な光景を晒すことになった。

この様に見てくると日米開戦後の責任を考えた場合、天皇の『避戦』の意向の芽を葬り去った東条、杉山元(参謀総長),永野修身(軍令部総長)、嶋田繁太郎(海相)、田中新一(参謀本部作戦部長)、服部卓四郎(作戦課長)、等の開戦強硬論者達の責任は極めて重い。東条の本質を見破れず推挙した内大臣木戸幸一の責任も重い。
東条体制を支えた(陸軍)杉山、佐藤賢了・軍務局長、(海軍)永野、岡敬純軍務局長達が成算皆無なのを無視して恫喝的に戦争完遂を叫び続けた罪は重い。更に制海・制空権を失い占領地からの石油や物資補給路を断たれ、多くの将兵の戦死もあって戦闘能力を完全に焼失し、敗北は時間の問題であったにも拘わらず、幼稚・夢想的な「一撃講和」論に拘り、戦争終結への真剣な議論を怠たり、勝算なき戦争を長引かせて、多くの死者等国家の損失を膨らませた小磯首相を筆頭に、最高戦争指導会議で戦争完遂等の強硬論を唱えた杉山陸相,梅津参謀総長、及川軍令部長の責任も重大である。

戦争責任最終回ー3 人命・人権軽視の軍隊思想等 へ

戦争責任・最終回―1

2021年08月09日 | 政治・経済
戦争責任・最終回―1
日中戦争は、ドイツの調停などにより和平のチャンスがあったにも拘らず、南京占領等の先勝ムードに酔いしれ、杉山元陸相を中心に中国側の一時停戦の提案を拒否し講和条件を次々釣り挙げた為、蒋介石は和平交渉を打ち切り、対日徹底抗戦に舵を切った。首都南京で繰り広げられた日本軍による残虐行為が中国人民の抗日運動に火をつけ、ゲリラ活動等の抵抗も一段と激しさを増し、日本は泥沼に嵌まり込む事態となった。米・英が中国での自国権益を守る為、中国への軍需物資の供給等バックアップ体制を強化した事も日中戦争の長期化に拍車をかける事になった。
石原莞爾参謀本部作戦部長の「対中戦争不拡大路線」に乗っていた近衛首相も陸軍強硬派(杉山元・陸相、武藤章・参謀本部作戦課長、土肥原賢二・奉天特務機関長、田中新一・陸軍省軍事課長)の強硬路線に腰砕けとなって、拡大路線に舵を切ったが、対中和平も思うように進まず、無責任にも政権を放り投げてしまった。日中戦争の長期化によって、日本は国家を破滅させることになった太平洋戦争にのめり込む事となる。衆望を担って登場した筈の近衛と陸軍強硬派4人の責任は極めて重いと言える。
この日中戦争を太平洋戦争に拡大させたのは、軍事官僚や外務官僚の“何とかなるさ”と言う根拠無き希望的観測による見通しの甘さと戦略の欠如にあるが、それらは日独伊三国同盟の締結とフランス領インドシナ(現ベトナム)への日本軍の進駐という暴挙に繋がった。所謂1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐である。

元々ドイツ・ヒトラーの誘いで日本とドイツの間には「日独防共協定」が締結されていたが、ドイツ側は彼等の目論を達成する為、イタリーを加えた3国で、敵対・対象国としてロシアに英仏を加え、軍事同盟化するよう申し入れして来たのである。これが太平洋戦争の大きな契機となった「三国同盟である」。ヒトラーの目論見はチェコ、オーストリア併合に当たりソ連、英国の干渉を排除する為、日本を利用する事にあった。ヒトラーは「日本人は想像力の欠如した劣等民族である、但し小器用、小利口なので自国の手先として使うには打って付けだ」と嘯いていたと言われている。
陸軍は中国の後ろにいるロシアや米英を牽制する為に同盟は有効と判断し賛成したが、条約締結は米英を敵に回す事になり、得策ではないと待ったをかけたのが「海軍大臣・米内光政、次官・山本五十六、海軍軍務局長・井上成美」の3人である。この「条約反対海軍3羽ガラス」の活躍で日本中に「陸軍悪玉、海軍善玉」の虚像が出来上がったが、この三人の考え方は海軍の中でも特異なものであった。海軍内で隠然たる勢力を誇っていた軍令部長「伏見宮博恭王」もドイツ留学組で、海軍自体もドイツ傾斜を強めつつあったのである。
三国同盟は昭和天皇の反対もあり締結が見送られてきたが1940年フランスがドイツに敗北すると、陸軍を中心として、「バスに乗り遅れるな」の大きな掛け声で、三国同盟締結論が再び盛り上がった。
陸軍は昭和天皇が理想の軍人と評価し、推挙した親英米派で海軍出身の【米内内閣】の倒閣に動き、「陸軍の総意」として陸軍参謀総長の閑院宮載仁親王を通じて畑・陸相を辞職させた為、米内は後任の陸相を求めたが陸軍はこれを拒絶、軍部大臣現役武官制により組閣不能となり、米内内閣は総辞職せざるを得なくなった。これを受けて第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した為、三国同盟締結の基盤が出来上がった。近衛内閣には陸相に東条英機、外相として松岡洋右が入閣したが、松岡は日・独・伊にソ連を加えた4か国協商を主張し、これにより米国に譲歩を迫る事が出来ると独りよがりの考えで対英同盟を、対米三国同盟に変質させてしまったのである。(ソ連を入れることはヒトラーの反対で成功しなかった。)
松岡の判断を狂わせたのは大島浩・駐独大使、白鳥敏夫駐伊大使の国際情勢を見誤った情報に依る処が大きい。この二人の外交官を含め軍部・外務官僚の中枢はドイツ留学組が占め、ドイツを過大評価する傾向が強く、一方米英駐在経験を持つ者が少く、正確な情報に基ずく米国の評価が出来ていなかったことが、間違った方向に歩ませることになった。ヒトラー・ナチスを嫌うルーズベルト大統領を中心とするアメリカ政府の動向を見誤り、ドイツの英本土上陸と3国同盟により米国は孤立し、優位に立てると言う極めて独りよがりの甘い見通しを立てていた。しかしこの筋書きはドイツが英制圧に難渋し、対ソ戦重視への方向転換し始めた事で瓦解し始めていたことを大島や白鳥は全く把握していなかったのである。慎重であった海軍も及川海軍大臣、伏見宮軍令部総長等が陸軍に対する対抗心や世論に迎合して賛成に転じていた。
1940年9月締結の三国同盟はアメリカを牽制するどころか、逆にアメリカは日本を枢軸国の一員として敵視し、欧米の【中国援助ルート …ベトナム→→中国(雲南・重慶)】を遮断する為、日本が北部仏印(ベトナム北部)に進駐したことも契機となって、屑鉄,銅、ニッケルや工作機械の重要物資の対日輸出の全面禁止に走らせることになった。
太平洋戦争の原因の一つとなった三国同盟締結の重大責任者は近衛・松岡・白鳥・大島の4人である。又軍の要職に居た陸軍参謀総長閑院宮載仁親王、及び海軍軍令部総長伏見宮の皇族軍人の責任も極めて大きいと言わねばならない。
1941年4月、日本は日ソ中立条約を締結したが、6月ドイツはソ連侵攻を開始しており、この時点で3国同盟からの脱退、米・英・中国との関係を見直す最後のチャンスであった。しかし日本は逆にもう一つ大きな過ちを犯した。1941年7月、軍令部総長・永野修身を中心に海軍主導によるオランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようする南部仏印(ベトナム南部)進駐である。石油や鉱物資源確保が狙いであったが、これを強行すればアメリカは石油禁輸に踏み切る可能性が大きいと言う野村駐米大使の進言を軽視し、進駐に伴う国策要綱には「対英米戦も辞さず」の文言迄盛り込まれていた。太平洋戦争が始まる直前、陸・海軍事務方により策定された国力判断では輸入が途絶えた場合戦闘能力は精々1年しか維持できないと言うものであった。対米比、鉄鋼生産量は1対24、石炭算出1対12、石油精製1対無限大、航空機生産1対8,等国力差は歴然という報告がなされていた。
日米開戦回避の為、近衛内閣は野村駐米大使、ルーズベルト大統領はハル国務長官を代表に1941年4月から50回に亙る交渉を続けていた。日本の立場は陸軍を中心に「満州国は日本の多くの国費と血で勝ち取った生命線、放棄することはあり得ない」という事であり、アメリカは、日本軍の中国・北部仏印からの全面撤退を絶対条件とし、防共駐兵と満州国については条件をつけて認めようというものであった。満州国は交渉対象にし、アメリカの条件を受け入れれば国家破滅への道は避けることが出来たのである。しかし国際情勢や国力、勝算の真剣な検討も無いまま7月28日南部仏印進駐は強行されたが、アメリカにとってフィリピン、イギリスはマレー半島とシンガポール、オランダはインドネシア等各国の権益に大きな脅威となる為、日米交渉は完全に暗礁に乗り上げた。案の定米国は7月25日の在米日本資産の凍結に続き、8月1日対日石油禁輸を発表した。近衛は松岡を更迭しルーズベルト大統領との直接交渉に乗り出し、内閣の一部には中国からの撤兵を実行して日米交渉を再開すべしという意見もあったが、東条陸相が軍の士気が落ちると猛反対し、ついに近衛内閣は閣内不一致で辞任、天皇側近の木戸幸一内大臣の推挙で10月18日東条英機内閣に替わった。木戸は東条に開戦方針の白紙還元が天皇の意思だと伝え、東条は対米穏健派の東郷外相に、自らも陸相・内相を兼務し開戦決定の見直し作業を始めたが、参謀総長杉山元、次長の塚田攻、作戦部長・田中新一、作戦課長・服部卓四郎、兵站班長・辻正信、陸軍省軍務課長・佐藤賢了等強硬派が同意せず、結局11月5日の御前会議で、11月末までに日米交渉がまとまらない場合は開戦に踏み切ることを決定した。服部・辻コンビは陸軍中央の反対を無視し、2万人近い死傷者を出す甚大な被害を被った【ノモハン事件】を起こした張本人であり、田中は盧溝橋事件を拡大させた人物であるが、これらいわく付きの人物が陸軍の中枢を占め対米強硬路線を主張していたのである。東条なら陸軍を抑えられるとの木戸の読み間違い、大きな誤算であった。 11月26日、アメリカ国務長官ハルは、日米交渉に於いてアメリカ側の提案を示した所謂「ハル・ノート」は、日本にとって厳しい内容であった。【中国・仏印から日本軍の撤退、三国同盟の否認、汪兆銘政府の不支持】を内容とする【ハル=ノート】は、アメリカ側は最終提案とはいわず、交渉の素材としての一提案にすぎないと伝えたが、日本側はこれを最後通告と受け止め、東郷茂徳外相はもはや手の打ちようが無い、日米交渉打ち切りを決定した。12月1日に御前会議が開催され、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決定、翌2日に統帥部はすでに準備を整えていた陸海軍司令官に、12月8日開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の電報を打電した。アメリカなどによる経済封鎖によって鉄、石油などの資源が入ってこなくなり、特に石油備蓄は後最大2年分しかない。それを打開するにはボルネオ、スマトラなどの油田を獲得するしかない。東南アジアへの海軍による武力進出はアメリカ海軍に妨害される恐れがある、それを事前に排除するためにハワイのアメリカ海軍基地を破壊しておく必要がある、というものだった。この戦略は、連合艦隊司令長官山本五十六がすでに1939年9月以来、検討を重ねていた。山本はアメリカとの戦争はできる限り避けなければならないが、開戦となればハワイ奇襲しか勝算はないと考えていた。しかし、よく知られるように山本は戦えるのは2年間であり、それ以上戦うことになれば敗戦となるだろうと予測、玉砕戦法に出たのである。この際の対米通告は現地大使館の不手際で攻撃開始後となり「卑怯な日本人」の汚名を残す事となった。

「テルテル総理ご都合主義の改革路線」 喫緊の課題・政治改革…(9)

2021年04月18日 | 政治・経済
「テルテル総理ご都合主義の改革路線」 喫緊の課題・政治改革…(9)
デジタル化の為の意識改革…等を中心に

** 多くの国民が期待する「デジタル改革関連法案」は6日、衆院本会議で可決し参議院に送られた。 関連法案は63本を束ねた5法案で、「デジタル庁設置法案」と給付金などの支給を受ける口座の任意登録を可能にする「預貯金口座登録法案」は共産党以外の全会派が賛成し、「個人情報保護法改正案」を含む整備法案など3法案は立憲民主党も反対した。参院は別の法案が立て込んでいる為、成立は5月にずれ込む見通しだが、成立すると、デジタル庁が9月1日に発足する。法案は(①政府・独法・民間、別々に制定された個人情報保護の法律を一本化する。②自治体の条例を「リセット」し全国共通ルールに統一して、システム化も共同化する。)が柱になっている。これにより、災害時の救助・医療等で関係機関が円滑に情報をやり取りし、生命の安全を確保し、或いは給付金の円滑な支給や、行政手続きも簡略化される、情報の民間ビジネスの活用等のメリットも含め、社会の大きな変革に繋がる可能性も期待できる。問題は、立憲民主党が提出した「行政機関が持つ個人情報を目的外で利用する際の要件を絞る等の修正案」が否決され、「政府に厳格な運用を求める付帯決議」は付いたものの、法的な縛りは無く、監視社会への歯止めが効いていない点が最大の懸念材料、今後十分な論議が必要である。
** デジタル庁発足に先立ち、民間から競争率約40倍の狭き門をくぐり抜け職員30人が採用され、12日東京都港区の事務所で辞令を受け取った。システム開発などを担うが、官僚の殻を打ち破り柔らかい頭で斬新な発想の展開を期待したい。平井担当大臣は辞令交付の際の訓示の中で、デジタル社会形成の基本原則として10項目を掲げている。その中で①オープン・透明、②公平・倫理、⑤社会課題の解決、の3項目は今の政治・行政改革で解決さるべき重要課題であり、特に注目したい。安倍政権に端を発した『嘘つき放題』、『自由闊達な議論を封ずる強権政治』により政・官はもとより日本全体にモラル低下を生みだした。汚職や脱法行為に恥じることがなくなり、安倍の唱える『美しい国』どころか『醜い国、薄汚れた国』に成り果ててしまった。その結果として生じたモラールの低下が優秀な若手の官僚離れに拍車をかけるなど、社会に漂う閉塞感は只ならぬ物があり、日本の将来に大きな暗雲となっている。この閉塞を打ち破り、社会課題の解決と倫理観のある公平な社会を形成するには、凡ゆる情報を出来る限り公開し、政治・行政等、あらゆる面で透明性を持たせることによって、国民に対し出来るだけ多くの判断基準・判断材料を提供することである。『必要な、在る筈の文書、無くてはならない文書』を無いと主張、或いは短期間で破棄し、やっと提出された文書は『ノリ弁当』其のままに殆ど黒塗りで凡そ、文書とは言えない代物、全く国民を馬鹿にした政治が行われて居り、情報公開により、透明性の高い、倫理感あふれる国を目指し、一刻も早く薄汚れた国とは決別したいものである。
従来、IT政策の所管は総務省、経産省、その他省庁に分かれており、「総経戦」と呼ばれる程の省庁間の縄張り争いがデジタル化を阻んできた経緯があり、既にその兆候も出始めている。「通信・マイナンバーカードの話だから総務省主導で…」「民間のデジタル化の話だから経済産業省主導で…」と主導権争いが懸念される。又、デジタル庁内において、各省出身者同士による水面下での省益争い・縄張り争いが行われることも十分危惧され、こうしたことを避けるべく、内閣人事局による一括採用や、官僚の省庁間の人事異動等、人事制度改革にも踏み込む必要が出てくる可能性が強い。
河野・平井両大臣の手腕の見せ所、縦割り行政の打破が、族議員の影響力低下等古い体質の政治の打破にも繋がる事を期待したい。
** 平井大臣の発言の中でもう一つ注目すべきはデジタル化の目指す方向として『BPR』では無く『DX』をあげている点である。経産省が発表した定義によると『DX』=(Digital Transformation / デジタルトランスフォーメーション)とは【企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立する事】としており、企業を日本国家と呼び変えれば、その方向性が見えてくると期待したい。デジタル化は業務改善や業務改革(BPR)に止どまらず、必要とあれば文化的障壁を除去し、人々の思考の変化を通じて社会の変革を加速させる(DX)となる可能性を秘めている。
企業における『BPR』や『DX』を実施したCIO(最高情報責任者)の多くは、組織文化がその実現を阻む最大の障壁であると述べている。
** 現役最後の私の仕事は海外店を含む全社の行務改革であったが、その際の目玉は明治初頭に会社が設立されて以来、連綿と続いて来た会社経営の基本精神から決別する事であった。この経営哲学の存在が『不必要なポスト、不要な業務を生み、コンピューターコストを膨大なものとし、社員が内向きの業務にエネルギーを費やし過ぎる』と言う様な弊害が余りにも多くなり過ぎたのである。案の定ポストがなくなる不安もあってか反対意見も多く、その説得に一年余り、説明会行脚を繰り返し、最後に経営会議での説明会迄漕ぎつけた。経営会議では、会長の賛同を得たが、社長が社員の働く意欲を削ぐ様なシステムには賛同できないと強硬に主張、却下されることになった。社是・社訓にも取り入れられている経営哲学を破棄することは、社員教育にも影響するとの話も出され、経営会議メンバーの多くも賛同した。社是・社訓に基づき『金太郎飴』の様な同じ顔の社員を作るより、これからの時代、多様な考え方の社員の育成が必要ではないかと説いたが、一蹴された。応援すると言っていた直属の上司の発言も無かった。しかし会社退職4年後新社長がこの行革案を採用、社是・社訓が掲載された社員手帳も廃止された。コスト削減も手伝い会社の業績も好調である。時代が要請したのかなと言う印象が強い。
** デジタル化を成功させるには、抜本的な業務改革(BPR) 及び制度そのものの見直しが必要である。
デジタル化の成果は、【業務改革×IT導入】と表現する人もいる。現在行われている業務を放置してIT化を進めても成果はゼロに近いと言う意味である。e- Japan戦略でも述べられているように、行政の既存業務をそのままオンライン化するのではなく、 業務改革、省庁横断的な類似業務・事業の整理、及び制度・法令の見直し等を実施し、行政の簡素化・効率化、国民・事業者の負担の軽減を実現することが必要である。デジタル化・電子政府の推進は、行政のスリム化・効率化に貢献するだけでなく、従来の政治的意思決定メカニズムを変え、透明性とアカウンタビリティを高 めることにも貢献する。例えば、公共事業の費用と便益分析の結果や環境アセスメントなどの数字を公表することで、経済効果・社会効果の乏しい事業の採択を阻止することに貢献する。もし便益よりも費用がはるかに大きい公共事業、或いは環境破壊に繋がる恐れのある事業が提案されていれば、 パブリック・コメントを通じてその提案が批判にさらされる。また、どのような過程を経て特定の公共事業が採択されるかを知ることができる。官僚や政治家の裁量によって物事が決定される余地は極めて小さくなり、安倍や側近の絡んだ加計学園の様な事件も起こり憎くなる。

業務改革に当たっては①従来の仕事の進め方に固執しない。デジタル化を進めるためには、業務をまるごとシステムに移管する必要がある為、従来型の曖昧な業務プロセスを全廃する必要がある。コストをかけてハンコの印影をシステム上に表示し、紙とまったく同じように稟議書の回覧をしていたという笑えない話では失敗である。 ② 既存の組織やポストを温存しないことも重要である。  業務の進め方と密接に関係しているのが組織である。業務をデジタル化するためには、既存の業務を見直し、曖昧で無駄な部分がないのかを徹底的に検証し、得られた最適な業務プロセスを丸ごとシステムに移管する必要がある。業務のムダを排除すれば、必然的に組織やポストの見直しが必要になる。 
***最後にブログでも取り上げた物も含め、改革すべき点を列挙しておきたい。
① 公文書の年号は西暦に統一する事。
2017年08月22日 「ブログ西暦か和暦か」で触れたが何の法的根拠もない元号が公的文書で半強制的に使用され、
事務手続きを煩雑にし「デジタル化の目的である効率化推進」の大きな障害となっている。誰が旗振り役かも判然としない、明治の残滓・元号使用は公・私何れの文書にも使用を禁止すべきである。元号は、中国・前漢の時代に採用され、中国を「宗主国」と見做し、「朝貢国」と見做された朝鮮、日本が宗主国を真似て採用したものだが、本家の中国,朝貢国の同僚である韓国は近代化の為に廃棄している。明治以前は一人の天皇が複数の改元を行って居り、元号使用に拘るのは明治万歳の偏向右翼によるものと考えられる。
② 叙勲制度の簡略化  
2018年12月06日  「 ブログ (続)秋篠宮様の大嘗祭発言に付いて」で触れたが、これも明治の残滓である。戦後、軍国主義を一掃し、政治・社会の民主化を図る為、1946年文化勲章など一部を除き、生存者への叙位・叙勲は停止されたが、自民党政府は、1964年生存者叙勲制度を名称も戦前そのままに、閣議決定と言う安易な方法で復活させたものである。対象者は春・秋併せて一万人弱、その多くが公僕である公務員であり、業務に対する報酬は税金から給与・ボーナスで支払われている。対象者の選定には地方・中央併せてどれだけ多くの公務員の労力と費用が費やされているか、国家挙げての壮大な無駄遣いである。 叙勲は社会の進歩と発展に具体的、目に見える形で重要な貢献をした人に対し、国として公正な基準にもとづいて選定するよう改めるべきである。
③ 同じブログ」で指摘した「大嘗祭」問題である。政府見解として大嘗祭は皇室の宗教的儀式・私的祭礼であり、国が関わるべきでないと指摘しているにも関わらず、安倍政権は「短絡的な前例踏襲」という安易な考えで、 全国の知事を総動員し22.5億もの巨費を投じて華々しく執り行った。国家神道の廃止、憲法の政教分離規定に反し、宗教儀式に役人を動員し、国家予算をつぎ込むのは明らかに憲法違反である。
これ以外にも安倍は明治150年記念行事を各地で公費を使って行っているが、これらは全て明治礼賛、大日本主義病に取りつかれた日本右傾化の総本山「日本会議」の意向に沿ったものであることは、疑いようがない。
何れにしても明治の残滓としか言いようのない制度等が他にも多数残っている可能性があるが、「貴重な文化遺産」維持と言う間違った美名の下に国費浪費を続ける余裕など日本には残されていないと知るべきだろう。

「テルテル総理ご都合主義の改革路線」

2021年04月10日 | 政治・経済
「テルテル総理ご都合主義の改革路線」
喫緊の課題・政治改革…(8)  族議員に付いて

省庁縦割りが国費の無駄遣いに繋がる例として、「国土交通省の旧公団住宅(現UR)と厚労省の雇用促進住宅が夫々空き室を抱え無駄に放置されている例」や、「農水省の下水道・農道の横に国交省の下水道や国道が施設され、工事が何度も繰り返されると言う事例」がしばしば取り上げられる。
省庁の「縦割り」には「省庁間の縄張り争い」や「組織防衛意識」により「多重行政=重複業務」を生み、「面倒な仕事、責任の押し付け合い,たらい回し」と言った弊害が多いが、必ずしも省庁の体質だけが悪いと言う単純な話ではない。この組織の課題・欠点を上手く利用し、自らの利権に結びつけて来た「族議員」が問題をより大きくし、複雑にして来た側面がある。
各省庁には省益に結び付いた「族議員」がいる。自民党の場合、族議員は各省庁に対応する形で設置された政務調査会の「政策部会」に属しており、「運輸族・航空族、建設族・道路族、農林族、郵政族、文教族、厚生族、国防族、商工族」等々、政調会14部会以上の族が存在し当選回数や力量に応じ政務官、部会長・委員長に就任、大臣にたどり着くと言うように階段を登りながら「ドン・ボス」と呼ばれる様な強い影響力を行使する族議員となっていく。当に政治の世界も縦割りであり、行政の縦割り・政治の縦割りが相互に増幅作用をもたらしている面も強い。官僚出身の族議員は官僚時代に培った専門性の活用と選挙区の利益団体を代表する為、複数の部会に属する族議員になる事も多い。防衛官僚出身の防衛族が出身地の農業団体に推され農林族になる等である。
省庁が法案を作成すると、まず自民党政調会部会に持ち込まれ、部会の審査過程で、族議員が自民党を訪れる様々な業界・利益団体と「利害の調整」をする「与党事前審査」が行われ、種々修正された後に、内閣で「閣議決定」されて、国会に提出される。例えば「租税特別措置法」による税負担の軽減・免除に関係する案件の場合、「与党事前審査」の為に「税制の新設・継続の説明書」として案件ごとに、膨大な数の「税制改革要望資料」が作成され、これをベースに族議員のボス達に陳情の説明が行われる。その際事前に配布されたボスが所有する何ページにも亙る「要望資料」の夫々には関係する団体からの年々の政治献金額等々、許認可の判断基準となるような情報が赤ペンで書きこまれていると言われている。例えば畜産業に関する優遇税制であれば畜産業団体からの献金額や団体幹部の情報等が書き込まれて居りこれを虎の巻にして政調会で説明が行われるのである。
この「租税特別措置法」こそ、日本の租税制度や確定申告を複雑・難解にし、外資等から大きな貿易障壁として非難の対象に成って居り、官僚や族議員の裁量権行使の最良の武器となっているものである。経済政策や産業政策などの政策的な見地に基づいて、法人税、所得税等の基本税法を改定することなく、特別法によってその適用の一部を臨時的、例外的に変更して、特定の産業部門、納税者層の税負担を軽減・免除しようと言う目的の為に制定された法規であるが、この法律は毎年改正され、制度の改正・廃止・新設が頻繁に行われ、しかも各規定が長文である。(例えば農地の相続税納税猶予・免除に関する法令では44項、対応する政令74項、規則は38項もある。)
この措置法は基本的に時限立法で自動継続でない為、延長・継続の必要がある場合は都度、税制継続を申請しなければならなくなる。
定期的に税制継続の申請・陳情を必要とする仕組みを作り、選挙の票田、政治献金、天下り先確保等々、極めて巧妙な利益誘導システムを作っているのである。 よく新聞を賑わす案件にナフサ(粗製ガソリン)に関わる石油石炭税の免税(還付)措置がある。プラスチックの原料となるナフサなどへの石油石炭税の課税は、諸外国では例が無く、これに課税すれば貿易面や農業・漁業等その影響は極めて大きい。しかし政府はこの課税制度を廃止することはせず、2年に一回特別措置として延長する方式をとって居り、1978年以降、数十回に亙る陳情と無駄な業務が延々と繰り返されているのである。
更に、この措置法を利用した壮大な利権構造がガソリンの税金である。本来ガソリン税は1957年(昭和32年)に施行された揮発油税法の第九条で、揮発油一キロⅬに付き24,300円と決められていたが、1974年の石油ショック時に、「舗装道路建設の財源不足を補う目的」で租税特別措置法として「2年間の暫定措置」として増税されたものであるが、2年後もこの増税措置は撤廃されず延々と道路舗装の財源として生き続けている。1974年当時舗装率は40%程度だったものが現在97%迄になっているにも拘らず、政府-自民党と官僚は一旦おいしい味をしめると決して手放さない。ガソリン税の内訳は揮発油税24,300円、地方道路税 4,400円、合計28,700円、それが暫定措置によ合計 53,800円となり、25,100円が上乗せされたままになって居り、ドライバーは1ℓ当たり 53.8円の税金を背負わされていることになる。本当に必要な道路なら一般財源から出すべきだが、この特定財源は国交省所管で、族議員と結託し自分達の裁量で地方に道路建設が可能であり、地方の土建業者からの票田と政治献金、官僚には天下り先の確保と言う大きなメリットがある為、廃止など毛頭考えていないのである。自民党大物政治家の地元では必ずと言っていいほど、大規模な道路建設が行われた。有名なものとして 地元支持者たちが「久間道路―長崎」「額賀道路-茨城」「安倍道路―山口」「青木道路-島根」「二階道路―和歌山」、「福田八ツ場ダム道路―群馬」と呼ぶ狐・狸が我が物顔で闊歩する“ムダな政治道路”である。
国交省はこの財源を使って国有地に地下駐車場をを作り「交通安全施設等整備事業」名目で本来の道路建設から外れた事業を行って居り、その運営に当たる「財団法人駐車場整備推進機構」と言う組織を作り官僚の高給天下り先を確保する話や国交省職員の宿舎やレクリエーション施設等に流用するなどコソ泥紛いの話も出てきて居り、族議員、官僚が結託しやりたい放題である。国交省の中期道路計画では、年間 5兆6000億円の道路特定財源を“使い切る”ことを前提に、今後10年間で2900キロ、総額 68兆円の道路建設を予定しているが、土建国家から脱却する為にもこれを国交省から取り上げ、一般財源化してコロな対策、災害復興費に充当すべきである。

この様に族議員の役割は、案件の審査過程で特定の業界団体や利益団体の為に、政策の調整をし、場合によっては許認可権を持つ省庁に口利きをし、補助金等の配分や公共事業の箇所(=場所)づけに介入する等を行う事になる。省庁が縦割りである為、省庁間の調整も重要になる。この様な政策決定方式が有力族議員の選挙区や関係する業界団体、献金団体との癒着を生み、無駄な財政支出等を膨らませる事に繋がるのである。国家全体の利益より「族議員が自己の稼業・世襲を維持することが優先」され、選挙区や業界団体の利益が重視・優先されると言う行政の歪みに繋がって行くことになる。
この様な政界・官界の繋がりに財界が加って、3業界の強固な癒着構造が出来上がり「鉄のトライアングル」などと呼ばれている。財界の業界団体や圧力団体が自分達に有利になるような政治家・族議員に政治献金や企業ぐるみ・業界ぐるみで選挙の際の票の取り纏めや選挙応援を通じて支援し、更に面倒を見てくれた官僚には天下り先を提供する。 一方官僚は所轄業界を纏め、その利益代表として、許認可権限・公共事業・補助金等の振り分け等官僚の裁量権を最大限活用して政治家・財界に影響力を誇示し、政界進出、天下り先を確保する。政治家は官僚・財界の通したい予算・法案成否について党の政調会等を通じ影響力を行使し、財界から政治献金を集め、官僚の天下り・政界進出の手助けをする。これがトライアングルの構図である。結局政・官・財のこのような行動により、国益・国民益より省益・企業益が優先されることになって行く。
曽て民主党・鳩山内閣は政務調査会による政策・法案の事前審査システムは「族議員を生む政官業癒着の温床」と徹底批判しマニフェストで公約した「政府一元化」を実行したが、「族議員の旨味」を失った多くの無役の民主党議員が猛反発し、野田政権になって全面復活した。愚かな野田・民主党議員よる「党の看板公約」破りによって、一挙に国民の信頼を失い政権を失う事となった経緯がある。
この様な「鉄のトライアングル」を生む温床の多くは「裁量行政」にある。過去のブログでも度々触れたが日本の民主主義をも揺るがし兼ねないのが官僚に与えられた「過大な裁量権」であると言っても過言ではない。勿論官僚の専門的な知識と経験の集積を有効活用し行政を円滑に遂行する為に、官僚に裁量権を与える事は必要であり、更には明確に規定することが困難な事例もある。例えば風俗営業免許取り消しに該当する違法行為として「善良の風俗を害し,若しくは少年の健全な育成に障害を及ぼすおそれがあると認めるとき」の様に抽象的な表現に止め,公安委員会等の公正・公平な判断により,営業停止,免許取消しを行う様な裁量権の行使は止むをえないのは当然である。しかし現実には裁量権が「鉄のトラアングルの利益誘導」の為に,公正・公平に行使されず、無駄な財政支出や行政の無駄な業務を生み出している例が極めて多いのである。
国税の無駄遣い、無駄な業務を削減する為にも族議員を排除し、政策決定の政府一元化を推進すべきである。

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デジタル化の為の意識改革…等を中心に

「テルテル総理ご都合主義の改革路線」

2021年04月04日 | 政治・経済
「テルテル総理ご都合主義の改革路線」
喫緊の課題・政治改革…(7)

政治家に与えられた大きな特権こそ諸悪の根源であり、政治改革の目玉として【(A)既得権打破】を取り上げたが、今回は議員定数削減等について触れたい。
(B)国会改革
森元首相のジェンダーフリーの動きに逆行する発言で、改めて自民党oldboysclubeの面々のボケ疑惑を彷彿とさせるような、常識外の発言に耳目が集まるようになった。永田町で「失言大魔王」の異名をとる麻生の朝鮮半島有時の際の難民射殺発言や、二階の自分自身が関与する河井元法相夫妻の参院選買収事件に関し【他山の石】発言等々、自民党の古老が次々発する「世迷い言」を聞いていると、とてもじゃ無いが正常な人間の発言とは思えない。二階は厚労省23人の深夜送別会に渋々反省を求めているが、自分の会食を棚に上げ、最早ブラックジョークの領域だ。この様な非常識な人間に限って既得権保持に汲々とし、権力を笠に着て声高に老害を振りまく。挙句改革の大きな抵抗勢力になる可能性が極めて高い事は歴史が物語っている。今や政界の倉庫に眠る不良品滞貨の感があるoldboysclub達を議会から一掃する為に、先に述べた既得権を剥奪し、居心地の良い環境を除去すると同時に【65歳定年制】を設ける事が急務である。
2012年、民主党野田首相と安倍自民党総裁が議員定数大幅削減を条件に国会解散に合意したが、首相になった安倍は民主党は負けたのだからと主張、約束を反故にして全くやる気配がない。元々安倍の様な不誠実な人間を信用し政権を明け渡した野田はバカとしか言いようがないが、日本の衰退の流れを食い止める為にはイタリアが実行したように思い切った定数削減により議会の刷新が必要である。定年制実施による滞貨一掃後の議員数を定数と固定し、更に参議院を廃止する。参議院の元になった「貴族院」は非公選の皇族や学識経験者で構成され、衆議院に対して拘束される事は無かった。戦後参議院になってからも政党に属さない最大会派「緑風会」が中心となり政府や衆議院に対して是々非々で臨み「良識の府」としての機能を果たしたが、緑風会の衰退と共に有識者の議員が少なくなり、殆どが政党に属することになってしまった。その結果党議拘束を受ける事態となって参議院も完全に「政党化・衆議院化」して仕舞い、「衆議院のカーボンコピー」状況となっている。北欧を中心として、国連加盟国の過半数は一院制を採用し、国会運営に何等支障がないことから判断し、参議院を廃止し議員数を削減すべきである。参議院の存続理由として、衆参ダブルチェックにより、衆議院の暴走を抑えることに有ると言われているが参議院の政党化により全く期待できなくなっているのが実情である。 チェック機能を強化する為には与党の質問を廃止する。自民党政調会長・下村博文は代表質問で貴重な時間を使って、(菅総理は毎朝故郷のお母様に電話されるようですが…、)全く耳を疑う、歯の浮くような「オベンチャラ」発言をしてひんしゅくを買ったが、自民党にはこんな発言をする連中が多く、国会軽視も甚だしい。質問権は野党に限定し十分時間をかけてやればよい。閣僚は多くの質問に耐えられるような体力のあるプロを任命すればよいだけである。

次は菅政権が重点施策として掲げる縦割り行政打破である。この問題は50数年前からたびたび政界で問題になっており、そのたびに時の政治家やエリート官僚は一見知恵を出し解決策を模索して来たように見えるが、既得権維持が強すぎ「喉元過ぎれば」で、いつの間にか雨散霧消してしまう事が、延々と繰り返されてきたのだ。
縦割り行政の身近な例として「幼保一元化問題」がある。幼稚園と保育所の場合、幼稚園は学校教育法に基づき文部科学省が、保育所は児童福祉法に基づき厚生労働省が管轄するが、幼稚園・保育所が近接することも多く一体管理した方が行政サービスが行き届く。しかも、幼稚園教諭の免許で保育所に保育士として勤務できず、同様に保育士の資格では幼稚園に幼稚園教諭として勤務出来ない様に、免許制度も異なっている。この様な省庁の垣根が子供行政の障害となり、少子化対策の遅れになってきたのである。 この問題は与党から「児童庁」設置の動きが出ており文科省・厚労省から切り離され改善される可能性が出てきて一歩前進だが、 この問題が示すように、こんな簡単なことが何故出来ないのか、総理が縦割り打破に積極的に動くかどうかに掛かっている。  縦割り行政で本領を発揮できないでいたのがマイナンバーである。
マイナンバーは縦割り行政を打破する1つの武器として期待されていたが、結局は縦割り行政によって上手く活用が進んでいない現状である。マイナンバーほど、縦割り行政の割を食う制度は珍しく、個人の番号と様々なものを紐付けて行くので、紐付けする物によって省庁の管轄が異なる。「戸籍関連 (法務省)」「住民票(総務省)」「パスポート(外務省)」「税金関連(国税庁、財務省)」「銀行口座(金融庁,財務省)」等である。
特別定額給付金の支給トラブルで社会問題化したが、小生はマイナンバーカードで即座に受給出来た。政府が早くから各省庁に命じ上記の様な情報をマイナンバーカードで処理するシステムを構築し、国民にカードが浸透していたら、遥かに迅速且つ低コストで給付出来たことになる。縦割り行政がデジタル化の障害となり、無駄なコスト増を生む典型である。
しかし「横割り組織」とは極言すれば「何でも屋の組織」であり効率性、専門性の観点から極めて非効率である。市役所で一人の職員に住民票の交付、保育園や介護施設、生活保護の相談、隣・近所とのトラブル、全部引き受けて貰えば手間が省けるが、職員全員にそんなスーパーマンを期待することは出来ないし混乱のもとになる。町医者は横割りだが総合病院は専門別に縦割りなっており専門性の高い高度医療受けるのに便利な組織になっている。しかも先端的な総合病院では一人の患者に対し例えば「内科、外科、リハビリ科」と言った専門の医師がチームを編成し治療に当たる様な対応がとられている。要は縦割り組織の弊害である「縄張り争い」「組織防衛」によって生じる「多重行政=重複業務」、「仕事、責任の押し付け合い,たらい回し」を回避することが重要であり、其の為官僚トップの評価基準をこれらに置くことを明確にすることである。今の様な好き嫌いで評価するのではなく公平な評価基準を貫徹させることである。「児童庁」設置の様に政治が縦割り行政に如何に適切・タイムリーな横串を入れることが出来るか、首相の手腕に掛かっているだけの話なのである、

「テルテル総理ご都合主義の改革路線」
喫緊の課題・政治改革…(8)へ
族議員、デジタル化の為の意識改革…等を中心に