S嬢のPC日記

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「僕の歩く道」最終回

2006年12月22日 | 「障害」に関わること
 書こうかどうしようかな~、と迷ってたけど、とりあえず自分のために忘れないうちに感想を書き留めておこうかな、と思う。

 「僕の歩く道」最終回、始まってすぐに(ああ…)と思った。なんというか、もう流れが読めちゃった、って感じで。

 主人公が動物園の中で鳥を見る、飛ばない鳥飛べる鳥、なんぞのことをちらっと言う。高く飛べる鳥として鳶のことが出てくる。要するにコレ、障害者自身の自己決定を語るための伏線だな、と。で、ロードレース中に見かけた鳶の姿を自分の目で確認に行くためにコースをはずれる主人公。鳶を見つける、飛ぶ鳶を眺める。そしてコースに戻ってゴールし、ゴール後に「グループホームに行く」と自分の口で告げる主人公。高く飛ぶ鳶がキーってことで。

 コースをはずれた主人公に対して「待ちましょう」という決断をした母親は、「グループホームに行く」という主人公に、「はい」と一言で応える。自己決定の重要性をわかっていながら…、って気持ちの母親とその決意というものをよく表した「はい」だと思った。これを一発で表現って感じの「はい」には、さすが長山藍子と思った。

 グループホームに関しては、最近数がどんどん増えていると思う。少なくともわたしの身近には増えている。入居したい人の数に見合うかどうかはわからないけれど。長野オリンピックのときに、パラリンピックに知的障害者が出場した。そのインタビューなんぞで「グループホームに住んでいる」という20代の若者ってのもいた、あの時点でね。ただ一般的にはまだまだ認知度は低いのではないかと思う。抵抗をもつ親も多いとも思う。わたし自身は、障害の程度に関しての支援度というものが関係してくることは前提の上で、障害があっても「親から離れたいと思う」という心の成長をもつことが「大人になる」ということであり、自分自身のこととしては、「親から離れたい」気持ちを元にする自己決定の芽をもつことが、いわゆる娘を育てる目標になっているところはあるなあとも思う。そのときが来たら淋しくてたまらないとは思うだろうけれど。

 で、最終回ですが。まあ、つまり、落ち着くとこに落ち着かせるために、って線が早くに見えてしまった感じがした。ってことで、どこかお話のまとめです的流れがどうしても見えてしまった。11回全ての中で、わたしは一番コレというのは、やはり第10回の特にきょうだい児の心理が中心になるシーンだと思う。それはそこに至るまでにこつこつと積み重ねたきょうだい児の心理のシーンがなくてはもちろん語れない。

 主人公の兄の妻。夫の弟が障害者であるという事実からどこか目を避けるような他人事を決め込みたいような、まあ、ドラマ前半中盤部では悪役的存在。な~るほど、と思うこと。つまりそういう彼女だからこそ、この兄は好きになったのかも、とドラマを観ながらふと思った。

 兄だから否定できる立場に無い、兄だから手を貸さなきゃいけない、兄だから我慢しなきゃいけない。そういう、どこか見えない「べき」に縛られたような気持ちをたくさん経験した背景を感じさせた第10回放映分の兄と母親との会話。

 その兄は、「配偶者の弟だからって言ったって、そんなに簡単に認められるもんじゃないわ」って気持ちを堂々と持つっていう、そういう女性だからこそ惹かれたんじゃないかと思うこと。自分の中に巣くう「べき」に対しての反乱のようなものも無意識下にちらっとあった、いやあるという設定で構成されたのではないかと思うこと。

 障害者を主人公にもってくるドラマ。その主人公の状態や持っているハンディと社会との軋轢なんてものは、現実に存在するものからみれば、やっぱりどうしても希釈したものになるし、そうしなければ表現自体が難しくなるものもあると思う。

 ただ、きょうだい児の心理に関しては、どういう設定であったとしてもリアルに描こうとすれば描けるものだ。また、障害の受容に困難を抱えた親の気持ちってのものもそうだと思う。今回の主人公の職場に存在させた「もう一人の自閉症児の父親」の存在は大きかった。この、障害児をとりまく周囲の人間の要素とドラマというものが、今回のドラマではよく出ていたとも思う。