S嬢のPC日記

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初めての子と二番目以降の子と一人っ子と、そして独自の環境と

2006年08月13日 | つぶやき

嫌なことを「嫌だ」と言うこと /明けぬ夜の夢
 自分の行動の判断基準が「自分がどう思うか、どうしたいか」はなく「他人にどう思われるか」ということになっていると、自分を責めたり、「嫌だ」と言えなくなってしまうような気がする。

 以下、心理研究でもなんでもなく、わたし個人が勝手に思うことを脈絡なくぶつぶつと。

 嫌なことを嫌だと言うことが難しいタイプの人に、やみくもに「嫌な時は嫌だと言っていい」と言っても、それは何の解決にもならない気がする。そしてこのタイプは自分の親にとって「最初の子」という立場の人が多いような気がする。

 初めての子ども、というものは、単なる子どもではなく特別な存在のものだと思う。期待やら親の親としての評価やら親の余裕の無さやら、そういうものを一手に引き受けてしまう。

 一人っ子は我が儘だという言い方がある。わたしはそれに異論を唱える立場だと自分は思う。いわゆる一人っ子というものは、親の愛情というものを堂々と受け入れ、「愛される子」として育つ。「愛される子」として育つものはしあわせだと思う。

 初めての子、という立場を負う人間は、自分より下の子に、親の緊張感が抜けた状態で親が子どもをかわいがる姿を見てしまう。そうした親の姿を見ながら、どう自分のアイデンティティを構築していくか。これは自分の両親にとって最初の子どもであるという立場を背負わされた子どもの宿命のようなものがあると思う。

 自分より下のきょうだい児に、自分の親が見せる「緊張感が抜けた姿」を認識しつつも、初めての子というのは、その成長の中で、常に親の「初めて」の緊張を背負わなければならない。親にとって最初の子の就学は緊張を伴い、最初の子の進学は緊張感を伴い、最初の子の、と、成長の中でそれはずっと続いてしまう。最初の子はそれをずっと背負わなければならない。自分の下のきょうだい児に対して、親の緊張感が抜けた姿を確認しながら。

 親というものは、最初の子に下される他者からの評価を自分に対しての評価のように受け取るのだと思う。だからこそ、最初の子は、他者からの評価というものに不自由な感覚を持ってしまう人が多いのかも知れないと思う。他者からの親の評価と、親自身の評価と、それを一手に引き受けなければならない状況に陥る可能性は高い。

 最初の子、というものは、「悪い子」になるのは難しい。それは親が最初の子に対して「悪い子」になることを許さない余裕の無さというものが関係していると思う。親は最初の子に対しては、常に初心者で、親としての緊張感は続くのではないかと。それをまんま、最初の子に流してしまう危険は高い。

 いわゆる一人っ子も、その最初の子という立場を背負いはするが、成長の中で、親の緊張が抜けた姿であるきょうだい児の姿を見ることは無い。これはこれでしあわせなことなんではないかとも思う。それだけ最初の子に科せられるものは、大きいのではないかとわたしは思う。

 最初の子、というものにとって、親離れ子離れというものは難しく、しかし常に重要なものではないかとわたしは思う。子が意識して意識下の親殺しをやっていかなくてはなかなか自由になれないものなのではないかとわたしは思う。親は最初の子に対して、本人の価値観の育成を意識することを行うことは、子どもを大人にする上で重要な作業なのではないかとわたしは思う。

 思春期の反抗は、人間の成長の中でとても重要だと思う。複数の子どもをもつ親は、最初の子の思春期の反抗が芽生えるかどうかに対しての意識というものを、最初の子を自由な大人にしていくために重要なことととらえていくことが必要なことなのではないかとわたしは思う。それは最初の子を自分の羽の内から羽ばたかせていくために、とても重要な作業だと思う。
 しかし、親は最初の子に対しての緊張感から、なかなか最初の子の思春期の反抗を許さない。その現実というものを最初の子が独自に渡っていくことは、簡単なことではないと思う。

 と、そんなことを考えていた自分のところには、イレギュラーな構成が生まれて、人生というものは不思議なものだと思う。知的障害児の上の子と、障害というものをもたない下の子と。
 どちらも最初の子のような側面を持ち、どちらも二番目の子のような側面を持つ。運命の展開というものはおもしろいものだと思う。

 そしてわたしは二番目の子どもである息子に対して、障害をもたない最初の子としての緊張感を持ち、その影響を与え、そして障害児のきょうだい児としての環境を負わせる。その環境全てを彼が彼の手で、自身の生育歴を、その人生の有効なカードとしての側面を持つという可能性を持たせるにはどうしたらいいかと思う。

 障害をもつ子どもに対しての「教科書」はたくさんある。しかし、こうした特異な環境をもつ息子に対しての「教科書」などどこにもない。わたしはわたしのために、そして他でもない彼のために、この特異な環境にふさわしい「教科書」を、わたしは独自に模索し続ける。