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秋田県は1582年にはまとまっていた

2024年02月24日 02時38分00秒 | 郷土史
1568年、庄内の尾浦城の主、大宝寺義増は、越後村上の本庄繁長や甲斐の武田信玄と同盟を結び、越後の強者である上杉謙信と対立しました。しかし、謙信の力は新潟市北部(現在の場所)から海路を通じて庄内にまで広がりました。




義増は本庄繁長らとの同盟を解消し、一人で謙信と和平を結ぶことを決めました。謙信は大宝寺家に「五箇条の条件」を提示し、土佐林禅棟を証人にするよう命じました。土佐林氏は大宝寺氏と同じく、庄内で羽黒山の別当職を務める有力な国人でした。
この騒ぎをきっかけに、義増は家督を息子の義氏に譲りました。後見人として、禅棟が任命されました。


その頃、霊峰鳥海山を挟んだ北の地「由利」では、仁賀保氏と大井氏の間で争いが続き、事態は混乱していました。この争いは永禄初期から始まり、原因は農民の土地問題でした。禅棟は仁賀保氏を支援し、信頼のおける竹井時友や観音寺城主の来次氏を仁賀保に派遣しました。
大宝寺氏と土佐林氏は同じ庄内の国人という立場で、親密な関係を保っていたようです。
しかし、1570年、土佐林氏とつながりのある越後の国人、大川氏が尾浦城近くに侵入し、乱暴な行為を行ったことから、両者の対立は激化しました。
岩屋の残党は、大宝寺勢力の攻撃に対抗することができず、折渡峠の「洞窟(現在は千人隠れ)」に隠れました。しかし、米のとぎ汁が下流の芋川に流れ出し、大宝寺勢に彼らの居場所が発覚してしまいました。大宝寺勢と岩屋の残党は激しい戦闘を繰り広げましたが、生き残った者たちは赤尾津氏の軍勢と合流しました。
赤尾津家当主の赤尾津治部は、小助川図書の主家でもあり、由利十二頭の中でも下由利に位置していたため、安東氏との関係を深めていました。
この時期、大宝寺勢は折渡峠と荒沢館の中間地である筵掛権現堂に陣を張っていました。筵掛権現堂は岩屋、赤尾津、荒沢の要塞を見渡すことができる戦略的な位置にありました。しかし、防衛が困難になったため、赤尾津治部や小助川図書からの援軍要請を受けた愛季は、下由利に一部式部を総大将とする軍勢を派遣しました。
安東愛季は当時、一族をまとめ、比内の浅利勝頼や阿仁の嘉成重盛などを組み込んでおり、陸奥の南部晴政と戦いながら鹿角郡を支配していました。
北の勢力を制圧した愛季の目標は由利でした。前に述べたように、小助川図書や赤尾津諸氏を中心に由利に進出しようとしていたのです。愛季は援軍を派遣し、義氏を追い出すことで由利十二頭の心を掴もうと考えたのでしょう。

愛季の援軍派遣により、形勢は一気に逆転しました。1582年の7月には、大宝寺勢は撤退しました。由利十二頭はこの後、安東氏との関係を深めていくことになります。
以上のような経緯で、由利と庄内の抗争が続いていました。両者の関係は最初は親密であったが、次第に対立し、最終的には安東氏の介入によって形勢が逆転しました。
つまりこの段階で、秋田圏域が一つになっています。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (佐藤和真)
2024-02-25 17:12:34
こんにちは。

秋田の豊かな歴史に光を当てた素晴らしい記事をありがとうございます。
特に、大宝寺義増や上杉謙信といった歴史上の人物の戦略や、庄内と由利の間の抗争の詳細な記述が印象的でした。

これからも記事を楽しみにしています。
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Unknown (sasakatukatuya)
2024-02-25 17:21:51
ありがとうございます。
返信する

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