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自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

中沢の馬道にある馬頭観音

2025年02月14日 10時53分00秒 | 霊場
馬頭観音
旧集落の道筋を歩いていると、自然石に刻まれた石仏に出会うことがよくあります。如来、観音菩薩、金剛像などさまざまな種類がありますが、特に目につくのが「馬頭観音」です。この石仏が多く見られるのには、深い理由があります。  

石仏と信仰の特徴
一般的に、石仏や石塔は民間信仰の表れであり、地域の人々の信仰心を示すものです。しかし、西目地域ではこれらの石仏が他の地域に比べて少ないと感じられます。その背景には、西目独特の「御柱信仰」の影響があるのではないかと考えられます。御柱信仰は、木を神の依代として祀る風習であり、石仏や石塔の建立とは異なる信仰形態を持っているためです。  

やっと見つけた馬頭観音の石仏
そんな西目地域でも、わずかに馬頭観音の石仏が残されています。今回、中沢地区で2つを見つけることができました。この石仏には「馬頭観世音」と刻まれており、かつては道沿いに祀られていたものと思われます。現在は台座が失われ、本体だけが残されていましたが、かつての信仰の名残を感じさせます。  2柱ありますが、一つは江戸時代のもので嘉永5年と書かれています。もうひとつは牛頭天王で昭和25年のものと並んでいます。






現在は使われていない馬道にあるので簡単に見つける事はできません。かしわ温泉から由利原に登れる道ですが、通行止めの看板があります。


よそではなぜ馬頭観音が多いのか?
馬頭観音(ばとうかんのん)は、六観音の一つで、正式には「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」と呼ばれます。特徴的なのは、頭上に馬の頭をいただいていることです。この姿は、六道の一つ「畜生道」に苦しむ者を救済する存在であることを示しています。そのため、昔から馬の守護神として広く信仰されてきました。  
馬頭観音は、観世音菩薩の三十三の化身の中で唯一、忿怒(ふんぬ)の相を持っています。普通は三つの顔(三面)を持ち、腕は二本または八本(二臂・八臂)あるとされます。その怒りの表情は、人々を救う力の強さを表しており、「怒りが強ければ強いほど、救済の力も大きい」と考えられています。また、馬は大食であるため、人々の悩みや苦しみを食べ尽くしてくれる存在ともされています。  
昔の人々にとって馬は、農耕や運搬に欠かせない大切な存在でした。そのため、農家では農耕馬の無病息災を願い、馬の産地では仔馬の健やかな成長を祈り、馬を生業とする人々は道中の安全を願いました。また、亡くなった馬の冥福を祈るためにも馬頭観音が祀られました。こうした信仰が広まり、各地に多くの馬頭観音の石仏が建立されたのです。  由利の立居地にも馬頭観音がきちんと祀られています。
馬頭観音の石仏を探してみよう

西目地域では、他の地域と比べると石仏の数が少ないものの、馬頭観音は今も静かにたたずみ、かつての人々の思いを伝えています。井岡地区の宮比神社と海士剥の月山神社にもありますにもあって道端や寺院の片隅にひっそりと残されていることもあります。もし散策する機会があれば、ぜひ馬頭観音を探してみてください。そこには、馬とともに生きた人々の祈りが刻まれていることでしょう。
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月読命

2025年01月20日 08時37分00秒 | 霊場
月読命とは?月の神の役割と信仰の魅力
私は月山神社の氏子です。西目の村社です。祀られているのは月読命です。ここでは月読命についてまとめましょう。 




月読命(つくよみのみこと)は、日本神話に登場する月の神で、太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)や海神・須佐之男命(すさのおのみこと)とともに**伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供として生まれたとされています。その名前には「月を読む」または「月を眺める」という意味が込められており、月を司るだけでなく、時間や暦を調整する重要な役割を担っていました。  

月読命の神話と役割

『古事記』や『日本書紀』によると、月読命は、黄泉の国から戻った伊弉諾尊が禊(みそぎ)を行う際、右目を洗った際に生まれた神とされています。同時に左目からは天照大神、鼻からは須佐之男命が生まれたため、この三柱は「三貴子(さんきし)」として尊ばれています。  

神話の中で月読命は比較的登場する場面が少ないのですが、代表的なエピソードとして**保食神(うけもちのかみ)に関する話があります。天照大神の命令で、保食神のもとを訪れた月読命は、保食神が自らの体を使って食べ物を創造する様子に怒り、その命を絶ってしまいました。この出来事が原因で、月読命と天照大神は別々に暮らすことになり、昼と夜が分かれるようになったと言われています。  
月読命の信仰とご利益
月読命は、主に時間や暦の神、さらには夜の静寂や平穏をもたらす神として信仰されています。月の満ち欠けは古代から農耕や漁業、祭りの時期を定める基準として重要視されており、月読命はその象徴的な存在でした。  
主なご利益
1. 安眠や心の平穏
   月の穏やかな光のように、心を静め、安らかな眠りをもたらしてくれると信じられています。  

2. 時間の調和と運勢の安定
   時間や暦を司る神として、人生の節目において良いタイミングを引き寄せる力があるとされています。  

3. 豊穣と収穫
   農作物の成長や収穫を見守る存在として、月読命は昔から農耕儀礼で祀られてきました。  

*月読命を祀る神社*

全国には月読命を主祭神とする神社が数多く存在します。中でも有名な神社をいくつかご紹介します。  

 1. 月読神社(京都府京都市)
京都市右京区にある月読神社は、月読命を中心とする信仰の拠点です。ここでは、時間の調和や家内安全を祈願する参拝者が多く訪れます。  




 2. 伊勢神宮 内宮別宮 月讀宮(三重県伊勢市)
伊勢神宮の別宮である月讀宮(つきよみのみや)は、天照大神の弟神としての月読命が祀られています。静かな佇まいと厳かな空気が特徴で、神聖な気持ちで参拝できます。  




3. 壱岐の月読神社(長崎県壱岐市)
長崎県壱岐市にある月読神社は、古代から月読命を祀る神社として知られ、地元では「月神さん」として親しまれています。  




現代における月読命信仰の魅力 

月読命の信仰は、現代社会の中で特に「心の安らぎ」や「時間の大切さ」を再認識するために注目されています。スマートフォンやデジタル時計に囲まれる日々の中で、月の満ち欠けや自然のリズムを意識することは、忙しい現代人にとって新たな癒しの形となっています。  

また、月は多くの文化で神秘的な象徴として描かれており、日本だけでなく世界中の人々にとっても特別な存在です。月読命を通じて、自然との繋がりを感じながら日常生活を見直すきっかけになるかもしれません。  
 月読命は、月と時間を司る神として、日本人の生活や文化に深く根付いてきました。その穏やかな存在感は、現代の私たちにとっても心の支えとなる存在です。次回、夜空に浮かぶ月を眺めるときは、ぜひ月読命のことを思い出し、その静寂と調和に感謝の気持ちを捧げてみてはいかがでしょうか?  

あなたもぜひ、月読命を祀る神社に訪れて、その魅力を直に感じてみてください!西目の月山神社はそこそこでかいです♪
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伊勢神宮と出雲大社

2025年01月19日 05時31分00秒 | 霊場
伊勢神宮と出雲大社の違い
昨日町内の役員会で、総代代表を次世代に譲りたいという話があって困窮した会になった。そもそも神社の存在の本質が分かっていない。うちの神社は月山神社なのでのにお札は天照大御神である。




月山神社の主祭神は月読命(つくよみのみこと)です。月読命は、日本神話に登場する月の神であり、天照大神(太陽の神)、須佐之男命(海や嵐の神)と共に、イザナギ命の子供として生まれました。月読命は、夜の世界を照らす存在として、時の流れや自然の調和を司る神とされています。その名の通り、月を読む、つまり暦や季節を人々に伝える神としても重要な役割を担ってきました。農耕社会において、月の満ち欠けは農作業のタイミングを計る重要な基準でした。そのため、月読命は人々の生活と密接に結びついた神といえます。このことから伊勢神宮の流れといえます。




日本を代表する二大神社、伊勢神宮と出雲大社。この二つの神社は、日本神道の中核をなす存在として多くの参拝者を集めています。しかし、それぞれの神社には歴史や信仰の対象、儀礼、建築様式などにおいて大きな違いがあります。本記事では、伊勢神宮と出雲大社の違いをまとめました。
 1. 信仰の対象
-伊勢神宮
伊勢神宮の主祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)で、日本神話における太陽の神であり、皇室の祖神とされています。内宮(ないくう)では天照大神が祀られ、外宮(げくう)では豊受大神(とようけのおおみかみ)が祀られています。豊受大神は、天照大神に食物を供える神として重要な役割を担っています。  
そのため、伊勢神宮は「皇祖神を祀る神社」として、日本全体の精神的中心地とされています。




- 出雲大社
一方、出雲大社の主祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。大国主大神は、国土開発や農業、縁結びの神として知られています。また、出雲大社は「縁結びの神社」としても有名で、恋愛や人間関係、ビジネスなど、広い意味でのご縁を祈願する場として親しまれています。




2. 歴史的背景
- 伊勢神宮
伊勢神宮は、紀元前7世紀頃に創建されたとされています。その後、天武天皇の時代に制度的に整備され、古代から現在に至るまで皇室と深く結びついています。また、20年ごとに建物を新しく建て替える「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が行われ、建築技術や信仰の継承が保たれています。

- 出雲大社
出雲大社の起源はさらに古く、紀元前3世紀頃とされています。日本神話における「国譲り」の物語で重要な役割を果たす大国主大神を祀り、古代の祭祀の中心地として栄えました。特に10月には全国の神々が出雲に集まるとされる「神在祭(かみありさい)」が有名で、神話の伝統が現代にも色濃く残っています。
 3. 建築様式
- 伊勢神宮 
伊勢神宮の建築様式は「神明造(しんめいづくり)」と呼ばれる簡素で厳粛な形式です。屋根は茅葺きで、棟には「千木(ちぎ)」や「鰹木(かつおぎ)」が施されています。その特徴は、質素でありながらも神聖さを感じさせる点にあります。

- 出雲大社
出雲大社は「大社造(たいしゃづくり)」という日本最古の神社建築様式を採用しています。その特徴は、屋根が急勾配で大きく反り、建物全体が荘厳で重厚な雰囲気を持っている点です。また、かつては48メートルもの高さを誇る壮大な社殿が存在したとされています。

4. 参拝の意義
- 伊勢神宮 
伊勢神宮は「日本人の心のふるさと」として、自己浄化や感謝の祈りの場とされています。特に内宮への参拝は、「生きているうちに一度は訪れたい」と言われるほど、特別な意味を持ちます。

- 出雲大社
出雲大社は「ご縁を結ぶ場」として親しまれています。家族や友人、恋人、仕事など、さまざまな縁を求める人々が訪れます。また、神在祭の時期は特に多くの参拝者で賑わいます。

5. アクセスと地域性
- 伊勢神宮
伊勢神宮は三重県伊勢市に位置し、周辺にはおかげ横丁や伊勢志摩の豊かな自然が広がっています。観光と信仰を兼ねて訪れる人が多いです。

- 出雲大社
出雲大社は島根県出雲市に位置し、日本海に近い雄大な自然の中にあります。出雲そばや出雲銘菓「どじょう掬いまんじゅう」など、地域の特産品も楽しめます。


伊勢神宮と出雲大社は、どちらも日本文化の象徴でありながら、信仰対象や歴史、建築様式において異なる個性を持っています。伊勢神宮は日本全体を守る「天皇家の神社」としての役割を担い、出雲大社は「縁を結ぶ神社」として人々の生活に密着しています。
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羽後町 三輪神社が凄い

2025年01月14日 03時40分00秒 | 霊場
孫3号号のバレーの練習試合の送迎のためはるばる羽後町の旧三輪中学校に行きました。時間があったので三輪神社を参拝しました。




秋田県羽後町杉宮に鎮座するこの三輪神社は、奈良時代の養老年間(717~724年)に大和国の大神神社を勧請して創建されたと伝えられています。その歴史の深さから、境内には国指定重要文化財に指定された本殿や須賀神社本殿があり、歴代の藩主や武将たちの篤い信仰を集めてきました。

現在の本殿は、室町時代後期(1467~1572年)の建立と考えられています。特に、太い柱や大面を取った角柱、向拝斗栱の構造など、室町時代の特徴を色濃く残しています。また、この本殿は滋賀県内の室町時代の遺構に多く見られる形式で、関東・東北地方では唯一の例とされています。そのため、この形式の採用や伝播経路には謎が多いとされています。 




境内には、江戸時代前期の1647年に建立された須賀神社本殿もあり、桃山建築の特徴をよく残しています。この建物も国の重要文化財に指定されています。 

三輪神社の例祭は毎年5月3日に行われ、歴代の藩主や武将たちが寄進した御神輿などが使用されます。特に、佐竹氏二代藩主・義隆の夫人である光聚院が京都から取り寄せて奉納した御神輿が現存しており、祭典時に使用されています。 




境内は広く、他の神社と比べてやや簡素な印象を受けるかもしれませんが、それがかえって歴史の深さと神聖さを感じさせます。周囲の木々はそれほど大きくなく、境内の広さが際立っています。また、道路の曲がり角に位置しているため、初めて訪れる方には場所がわかりづらいかもしれません。
ただ雪寄せがされていなくて駐車スペースがなくて路駐だったのでゆっくり参拝できませんでした。
三輪神社は、秋田県内でも貴重な歴史的建造物を有する神社として知られています。その独特な雰囲気と歴史的背景を感じながら、訪れてみてはいかがでしょうか。 
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月読命(ツクヨミ)~夜を司る神秘的な神様~

2025年01月03日 05時05分00秒 | 霊場

明けましておめでとうございますが。巳年となりました。

さて、巳年の特徴を正月にまずは確認です。

巳年生まれの人は、冷静沈着で知的でありながら、内に秘めた情熱を持っているのが特徴です。

  • 冷静沈着で分析力が高い: 何事にも冷静に対処し、状況を客観的に分析する能力に長けています。
  • 粘り強く目標達成を目指す: 一度目標を決めると、粘り強く努力を続け、必ず達成しようとします。
  • 神秘的で魅力的な雰囲気: 独特な雰囲気を持ち、周囲を惹きつける魅力があります。
  • プライドが高く独立心が強い: 自尊心が高く、自分の意見を貫こうとする傾向があります。
  • 裏の顔を持つことも: 冷静な一面の裏に、激しい感情を隠していることも。

具体的なエピソード

例えば、ある巳年生まれのビジネスマンは、新しい

巳年の歴史と文化•世界中で愛される巳年の象徴

巳年は、古くから様々な文化圏で特別な意味を持つ年とされてきました。

  • 中国: 中国では、巳は十二支の6番目であり、陰陽五行説では火に対応します。巳年は、変革や成長を象徴する年とされています。
  • 日本: 日本でも、巳年は十二支の一つとして古くから親しまれてきました。蛇は再生や不老不死の象徴とされ、巳年生まれの人には神秘的な力があると信じられてきました。
  • 西洋: 西洋では、蛇は知恵や誘惑の象徴とされる一方で、再生や復活の象徴としても捉えられています。

世界各国の巳年に関する文化、風習

  • 中国: 巳年の年には、蛇に関連した祭りや行事が行われることがあります。また、蛇をモチーフにしたお守りやアクセサリーも人気です。
  • インド: インド神話では、蛇神ナーガが重要な役割を果たしています。ナーガは水の神であり、豊穣をもたらす神として崇拝されています。
  • エジプト: エジプト神話では、蛇は再生や復活の象徴であるコブラの姿で描かれることが多く、ファラオの王冠にもコブラの飾りが付けられています。

巳年の運勢恋愛

巳年の運勢は、その年の干支との組み合わせによって大きく左右されます。

  • 恋愛: 巳年は、恋愛において情熱的で官能的な一面が現れる年です。しかし、束縛や嫉妬心からトラブルに発展することも。
  • 仕事: 巳年は、仕事において大きなチャンスが訪れる年です。自分の能力を最大限に発揮し、成功を掴むことができるでしょう。
  • 健康: 巳年は、健康面では注意が必要な年です。特に、消化器官や神経系のトラブルに気をつけましょう。

具体的なアドバイス

  • 恋愛: 相手の気持ちを尊重し、焦らずゆっくりと関係を築くことが大切です。
  • 仕事: 新しいことに挑戦する良い機会です。積極的に行動し、自分の可能性を広げましょう。
  • 健康: バランスの取れた食事と十分な睡眠を心がけ、ストレスを溜めないようにしましょう。

巳年のパワースポット

巳年とゆかりのある神社仏閣は、全国各地に存在します。

  • 白蛇神社 (静岡県): 白蛇を神様として祀る神社で、縁結びや金運アップにご利益があると言われています。
  • 出雲大社 (島根県): 日本神話に登場する大国主大神を祀る神社で、縁結びや厄除けにご利益があると言われています。
  • 金蛇水神社(宮城県):宮城県岩沼市にある神社で、金運上昇や商売繁盛のご利益があるとされています。

これらの神社仏閣を訪れることで、巳年のパワーを感じ、運気をアップさせることができるかもしれません。

とは言いながら、海士剥の月山神社の氏子でもあるので毎年紅白歌合戦が終わると除夜の太鼓を聴きながら年越しをしています。

そうお月山神社の主神は月読命です。

日本神話に彩られた月の神

日本神話に登場する月読命(ツクヨミ)。太陽神のアマテラス、そして海の神スサノオと並び、イザナギとイザナミによって生み出された三貴神の一柱として知られています。夜空に輝く月を司る神として、人々から崇められてきました。

月読命が司るもの

月読命は、単に月を司るだけでなく、夜そのものを支配する神としても考えられてきました。月の満ち欠けは、古来より人々の生活に深く関わっており、農耕や漁業など、様々な活動の指標となっていました。そのため、月読命は自然の摂理を司る神として、人々の暮らしを見守る存在でもあったのです。

月読命と暦の関係

かつて、人々は月の満ち欠けを基にした太陰暦を用いていました。月読命は、この太陰暦を司る神として、時間の流れを司る役割も担っていたと考えられています。月の満ち欠けは、単なる時間の概念を超えて、人々の心の状態や運勢にも影響を与えると信じられてきました。

月読命と「ツキ」の関係

月読命の名前には、「ツキ」という言葉が含まれています。この「ツキ」は、単に月を指すだけでなく、「運」や「縁」といった意味も持ち合わせています。そのため、月読命は、人々に良い「ツキ」をもたらす神としても信仰されてきました。

月読命を祀る神社

月読命を祀る神社は、全国各地に点在しています。しかし圧倒的に数は多くありません!

まとめ

月読命は、夜空に輝く月を司る神秘的な神様であり、同時に人々の生活に深く根ざした存在でもあります。月の満ち欠けは、古来より人々の心を魅了し、様々な神話や伝説を生み出してきました。月読命を信仰することは、自然の摂理に対する畏敬の念を深め、自分自身を見つめ直すきっかけとなるかもしれませんね。

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金浦の日枝神社の狛猿

2024年11月10日 16時32分00秒 | 霊場

金浦湊内 日枝神社の山王鳥居と二猿像:北前船が繋ぐ歴史と信仰の物語


昨日西目シーガルで鶴岡市,にかほ市,本市合同企画で行っている北前船展の付帯事業で講演会と芸能発表がありまして、スタッフとして仕事をしていました。その時、文化財保護協会連合会の事務局担当と話をしていて金浦の日枝神社の場所を知る事できました。やっと本日狛猿に会う事ができました。





金浦という港町と日枝神社

秋田県にかほ市金浦。かつては北前船の寄港地として栄えたこの港町には、歴史と信仰が深く結びついた場所があります。それが、日枝神社です。





江戸時代に建てられた山王鳥居

日枝神社のシンボルともいえる山王鳥居は、金浦で最も古い廻船問屋であった中津七左衛門によって江戸時代に寄進されました。この鳥居は、金浦の商いの発展と人々の暮らしを見守り続けてきた歴史ある建造物です。







北前船の船頭が奉納した二猿像

山王鳥居の後ろには、二体の猿像が並んでいます。この猿像は、北前船の船頭を務め、後に士分に取り立てられた井口清四郎によって奉納されたものです。北前船は、江戸時代から明治時代にかけて日本海を航海し、物資や文化を運んだ船です。井口清四郎は、北前船を通じて得た富と地位を、地元の神社に還元したのでしょう。

対となる猿像:信仰心の表れ

神社の手前にも、二体の猿像が対になって立っています。これらの猿像は、地元の人々の信仰心の深さを物語っています。猿は、古くから神様の使いとして崇められてきた動物です。特に、日枝神社は猿の神様を祀る神社として知られており、猿像は多くの人々に親しまれてきました。





金浦の歴史と文化を語る

日枝神社の山王鳥居と二猿像は、単なる建造物や彫刻ではありません。これらは、金浦の歴史と文化を語る上で欠かせない存在です。北前船という時代背景、廻船問屋や船頭という人々の営み、そして信仰心といった要素が複雑に絡み合い、現在の姿となっているのです。





まとめ

にかほ市金浦にある日枝神社は、北前船の時代から人々に親しまれてきた神社です。山王鳥居や二猿像は、その歴史と信仰の深さを物語る貴重な文化財です。皆さんもこれらの文化財を通して、金浦の豊かな歴史と文化に触れてみてください。


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承元の法難

2024年07月08日 09時16分00秒 | 霊場

昨日は海士剥の専念寺の役員会でした。

鎌倉時代に承元の法難という事がありました

これは、法然上人の弟子たちが念仏集会に参加したことがきっかけです。

奈良の興福寺が朝廷に念仏禁止を訴えていた頃、法然上人の弟子である住蓮と安楽が念仏集会を開催しました。その集会に後鳥羽上皇の女官数名が参加し、念仏こそ救いの教えであると確信して髪をおろしてしまったのです。

怒った後鳥羽上皇は念仏宗を弾圧

このことを知った後鳥羽上皇は激怒し、興福寺の訴えを受け入れてしまいます。そして、承元元年(1207年)に風紀を乱すものとして念仏宗を弾圧し、住蓮と安楽を含む4名を死罪、法然上人ら7名を流罪にしました。

親鸞聖人、越後へ流罪となる

親鸞聖人も流罪となり、越後国(現在の新潟県)へ配流されました。これが「承元の法難」と呼ばれる事件です。当時、法然上人は75歳、親鸞聖人は35歳でした。

師弟の別れと再会を誓う歌

師弟の別れに際し、親鸞聖人は

会者定離(えしゃじょうり) ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを

と詠みました。

一方、法然上人は

別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ

と詠んでいます。

二人は今生の別れを悲しみながらも、次はお浄土で再会することを誓ったのです。

承元の法難の影響

承元の法難は念仏宗にとって大きな打撃となりましたが、その後の浄土真宗の広まりに大きな影響を与えたと言われています。弾圧によって念仏宗への弾圧が強まる中で、親鸞聖人は念仏の教えをより多くの人に伝えるために尽力しました。

京の京都からすれば上越が流罪の地という事です。それ以降なんども弾圧を受けていてその度に北方教化がなされています。

日本海沿岸に一向宗が散らばったということです。

自分の家の総本家は加賀屋姓なので,石川から流れてきたと言えます。

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善寶寺参り

2024年07月03日 08時53分00秒 | 霊場
昨日は本荘郷土資料館サポーター研修視察でした。
最後の視察地は善寶寺です。
事前に説明のお願いをしていたので,若い坊主さんが概略を教えてくれました。






龍澤山善宝寺は山形県鶴岡市下川関根に境内を構えている曹洞宗の寺院です。
善宝寺の創建は平安時代の天慶年間(938~957年)に黄金村の妙達上人が堂宇を建立したのが始まりとされます。




当初は龍華寺と称し天台宗の寺院でしたがその後荒廃し、延慶年間(1308~1311年)に總持寺
の2世峨山紹磧がその境内を利用して曹洞宗の布教を行いました。
總持寺は鶴見にある東日本最大級のお寺です。説明をしてくれた坊主も總持寺で研鑽して善寶寺に拝任されたそうです。
永享年間(1425~1441年)には太年浄椿が堂宇を再建し、曹洞宗の寺院として改宗開山し寺号を龍澤山善宝寺に改めました。




伝承によると浄椿(峨山紹磧とも)が境内で修行をしていると竜宮竜道大竜王と戒道大竜女が出現し寺号を授けると自ら善宝寺の守護神になるとして貝喰池に御隠れになったと伝えられています。

以来、竜宮竜道大竜王と戒道大竜女が竜神信仰の対象となり、特に航海安全、大漁祈願などに御利益があるとされ、漁師や船乗りなど海や水を生業とする人達からの篤く帰依されました。

その後も信仰者から多大な庇護を受けて寺運が隆盛し天保4年(1833)には龍王殿、安政2年(1855)には五百羅漢堂、文久2年(1862)には山門(二重門)、明治16年(1883)には五重塔が造営され現在の境内には20以上の建物がひしめき合い信仰の厚さを感じる事が出来ます。




五百羅漢堂は入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行5間、梁間4間、真壁造り板張り、江戸時代後期の御堂建築の遺構として貴重で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成27年(2015)に国登録有形文化財に登録されています。

特に五重塔は日本唯一の「魚鱗一切の供養塔」として漁業関係者の浄財により鶴岡出身の名工高橋兼吉が棟梁として手掛けた名建築とされます。
寺宝である菱田春草筆の「絹本著色王昭君図」は大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。




北国八十八ヶ所霊場第41番札所です。(札所本尊:薬師如来)。
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プチ旅 名取熊野那智神社

2023年11月13日 05時49分00秒 | 霊場
名取市へプチ旅してきました。
目的は閖上港でのハゼ釣りでしたが、風が強く釣りになりません。





それでは神社へという事で熊野那智神社へ向かいました。

朝焼けが眩しく絶景です。






名取熊野三社の一つの熊野那智神社は、江戸時代の記録によれば、養老3年(719年)に、閖上の漁師が海中から引き揚げた御神体が光を放ち、光が指した場所にあった羽黒権現に、名取老女が紀州の熊野那智大社の神を合せて祀ったものとされています。


明治時代に拝殿の床下から見つかった、平安・鎌倉時代の懸仏・銅鏡は、国・県の指定文化財になっています。




また、境内には、小規模ですが那智の滝、奥州三十三観音の一番札所である観音堂のほか、ウラジロガシ・ヤマコウバシなどの植物や、ご神木の古代杉や、高野槙、老銀杏があります。






神社は高館山の頂上付近に位置していて名取市街や太平洋を一望できる絶景の場所です。




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栗山館へー伊勢居地全体がパワースポット

2023年10月09日 11時38分00秒 | 霊場
仁賀保に栗山館という館跡がある。
鳥海弥三郎の居住跡で、市の史跡指定になっている。






鳥海弥三郎は、由利仲八郎政春を自害に追いやり、天鷺城の日向入道雲海を追いやり由利一円を制覇した人物である。
ただ弥三郎の子の代で、臣下の裏切りで滅亡している。




栗山館というくらいなので栗の木がたくさんある。という事は熊といつ遭遇してもおかしくない。
ヘルメットと火薬銃は必須である。




栗山館の入り口の伊勢居地には地蔵院がある。このお堂は江戸時代のものだが、伊勢居地全体に武家のパワーがみなぎる。




このお堂は力士が屋根を支えている事でちょい有名である。





話は戻るが、栗山館は規模がとてもお大きく、館を取り巻く伊勢居地やひめ野、馬場、畑、更には水沢に至るとても由緒ある地域である。






帰農して豪農になったと思われる、家もお多く、地域のつながりは半端なく強い。
西国三十三所へお参りして奉納された、お地蔵さんがランダムに置かれていてとてもいい感じだ。


また、伊勢居地の番学など門外不出のものであるが、それ故に継承できるか心配でもある。
いずれ中世から続く集落の礎を強く感じるところである。




先般、大阪在住で、由利曲沢出身の元高野連の副会長だった高橋氏が、栗山城址まで上がったとおっしゃっていましたが、よほど地理感がないと行けない場所なので、ぜひぜひ標柱など更新してもらいたいものだ。
ちなみに相棒のクロスカブの本日の走行距離は43kmだった^_^



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