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自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

秋田帝都構想と明治初期の地政学的視点~鍋島直正の北進論を中心に

2025年06月25日 03時57分00秒 | 郷土史

第一章:鍋島直正と北進論の背景

 鍋島直正(1815–1871)は幕末の名君として名高く、佐賀藩主として西洋砲術や蒸気機関、海軍技術などの導入を積極的に進め、日本の近代化に寄与した先駆者の一人である。彼の思想的特徴の一つに、北方防衛を重視する「北進論」がある。特にロシア帝国の南下政策に強い危機感を抱き、対ロシア戦略の一環として秋田の首都化構想を提案したとされる。秋田の首都化構想は北進論から南進論へとベクトルが変わるとともに無くなる。そして、そのような主張があったことすら歴史の影に隠されている。本稿では、鍋島の主張を掘り下げてみる。

1 ロシア帝国の脅威と北方防衛 ― 秋田帝都構想の地政学的背景

 19世紀中葉、ユーラシア大陸東端に位置する極東アジアは、大国間の勢力争いの舞台となっていた。中でもロシア帝国の南下政策は、清国と日本にとって重大な安全保障上の脅威であった。ロシアは1858年のアイグン条約、1860年の北京条約によって黒竜江(アムール川)流域の領土を清国から獲得し、さらにウスリー川東岸を自国領とすることで、現在のウラジオストクを含む広大な極東領土を支配下に置いた¹⁾。

 ウラジオストクの建設(1860年)は単なる植民地拠点にとどまらず、極東におけるロシアの軍事的・経済的拠点であり、日本にとって対馬海峡と日本海の安全保障を根本から脅かす存在であった。こうした背景から、日本国内でも北方における防衛の重要性が叫ばれるようになった。当時、対外情報に敏感であったのが佐賀藩である。その藩主・鍋島直正(1815–1871)は、幕末において最も先進的な藩政改革者として知られ、西洋砲術の導入や近代軍制の整備、製鉄や蒸気機関の導入を進めた人物である。彼はまた、長崎を通じて早くから欧米列強の動向を察知し、日本の将来に対する戦略的構想を抱いていた²⁾。

 鍋島は、ロシア帝国の南下が日本列島における北方防衛線の再定義を必要とすることを理解していた。彼の関心は単に西日本の藩政にとどまらず、東北・北海道を含む北日本の戦略的位置にまで及んでいた。特に注目すべきは、彼が秋田や津軽といった奥羽地方に注目していた点である。彼の構想の一端は、現存する『鍋島家文書』に見て取れる。例えば、慶応年間の書簡の中で彼は「北辺防備ヲ要トス」と明記し、北海道・東北地方の防衛体制強化を主張している³⁾。

 さらに、これらの地域における兵站拠点の整備や、北国を中心とした中央集権構造への再編成を提案していた形跡もあり、単なる防衛論にとどまらない国家改造構想の一環であったと考えられる。このような構想において秋田が重要視されたのは、地政学的な合理性に基づいていた。秋田は日本海に面し、外洋に直接アクセスできる土崎港を持つ一方、内陸性を有し自然の防衛線に囲まれた地理的特性を持っている。また、秋田を拠点にすれば、日本海側に展開する港湾都市 -新潟、酒田、敦賀などとの連携が可能となり、対ロシア防衛網の形成において中核となり得る拠点と見なされる。

 加えて、秋田を中心とした奥羽地方には、豊富な森林資源や鉱山、さらには水資源が集中しており、国家建設における自立性を確保できる地域でもあった。近代化を目指す新政府にとって、内政・軍事・経済の三位一体の拠点形成は理想的であり、鍋島はその観点から秋田に白羽の矢を立てたと考えられる。結局のところ、この構想は政治的現実や地域間対立、既存の権力構造によって実現には至らなかったが、その先見性は高く評価されるべきである。現代の地政学的視点から再評価することで、鍋島の構想が単なる奇想天外なアイデアではなく、戦略的合理性に基づく国家構想であったことが明らかになる。




脚注:

1)松村史紀『幕末外交とロシアの南下政策』講談社選書メチエ、2012年、pp. 78–82。

2)堀雅昭『鍋島直正の先見性と近代化構想』岩波書店、2004年、pp. 102–106。

3)『鍋島家文書』佐賀県立図書館所蔵、文久2年(1862)「北辺防備策ニ関スル書簡」。

4)渡辺京二『日本の地政学』中公新書、1997年、pp. 143–149。


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西目潟干拓3

2025年05月31日 07時01分00秒 | 郷土史

知恵と協力で挑んだ大工事

干拓の工事は、まさに人々の知恵と努力の結晶でした。

西目川の掘削:水の道を作る

まず、最も重要な作業は、西目川の水路を「海士剥(あまはぎ)」という場所まで掘り進めることでした。

「よいしょ! もっと深く、もっと広く掘るんだ!」 「ここから水がスムーズに流れるようにすれば、もう洪水に怯えなくて済むんだ!」

多くの人々が協力し、手作業で長い水路を掘り進めました。この水路が完成したことで、潟に溜まった余分な水が安全に海へ流れるようになり、洪水のリスクは大幅に減りました。この工事は、海士剥や中高屋、上高野などで塩を作っていた人々にとっても、新しい仕事の場となり、収入をもたらしました。

冬になると潟の水は凍ってしまいます。冬の間に氷の上に土を盛ります。

「こんなんで本当に川ができるのか?」

「春になって氷が融ければ今、盛っている土が土手に大変身するんだ。だから頑張ろ!」

堤防は海士剥川に繋がり今の西目川になったったのです。

植栽(しょくさい):砂漠を緑に変える

水路の掘削と並行して行われたのが、植栽です。かつて西目小学校から海岸までは、砂漠のような場所だったと言われています。

「この砂地をなんとかしなければ、せっかくの土地も風で飛んでいってしまうぞ!」 「松や柳の苗を植えて、根を張らせて土地を守るんだ!」

強風による砂の飛散や浸食(しんしょく)を防ぐため、根を強く張る植物が大量に植えられました。松やネムノキ、柳の苗が植えられ、荒れた砂地は少しずつ緑に変わっていきました。植栽は、新しい土地を安定させるだけでなく、地域の豊かな自然環境を取り戻すことにもつながったのです。




完成の喜び、そして新たな課題

そして、実に20年もの歳月をかけて、西目潟の干拓事業はついに完成しました!

「やったぞ! ついに新しい田んぼができた!」 「これで、もう水害に悩まされずに済むんだね!」

広大な西目田んぼが誕生し、人々は心から喜び合いました。新しい土地は、農業を営む人々にとって大きな財産となり、子吉(こよし)の方からも多くの小作人がこの地に入植し、新たな生活を始めました。

しかし、この大きな喜びの陰で、新たな課題も生まれました。それが、「小作人の横暴」という問題です。新しい農地ができたことで、土地の利用権を巡るトラブルが起こり始めたのです。一部の小作人が自分の利益を優先し、過剰な要求をするケースが出てきました。

「この土地は俺たちのものだ! 好きなように使わせてもらうぞ!」 「そんな勝手な…これでは公平じゃない!」

この問題は、地域の人々の間に不公平感を生み、せっかくの干拓の成果を十分に享受できない状況を作り出しました。

「せっかくみんなで力を合わせてできた土地なのに…このままではいけない!」

リーダーたちは、この問題解決にも尽力しました。土地の利用に関するルールを整備し、誰もが公平に土地を利用できるよう、話し合いを重ねました。自然の厳しさに立ち向かうだけでなく、人間関係の中で生まれる困難にも、人々は協力して乗り越えようとしたのです。




語り継がれる挑戦の物語

西目潟の干拓事業は、人々の知恵と勇気、そして何よりも協力の精神がもたらした壮大な物語です。冬の「とび砂」や梅雨の「水害」という厳しい自然の試練を乗り越え、佐藤重左エ門、淵名孫三郎、鈴木七郎右衛門という三人の英雄が力を合わせ、未来を切り開きました。

膨大な経費をかけて実現したこの事業は、完成後の「小作人の横暴」という新たな課題にも直面しましたが、人々は諦めませんでした。そして、困難を乗り越え、より強い絆で結ばれた地域へと成長していったのです。

今、私たちが目にする西目小学校の前に広がる広大な西目田んぼは、江戸時代に生きた人々の計り知れない努力と、未来を信じる強い心が実らせた宝物です。この物語は、私たちに、自然と共生する知恵、そしてどんな困難にも力を合わせて立ち向かうことの大切さを教えてくれています。

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西目潟干拓物語2

2025年05月31日 07時00分00秒 | 郷土史

未来を切り開いた三人の英雄

そんな時、この困難に立ち向かうために、三人の男たちが立ち上がりました。

佐藤重左エ門(さとう じゅうざえもん):地域を愛する豪農

一人目は、この地域の豪農である佐藤重左エ門さんです。彼は西目潟周辺の地形や自然を誰よりもよく知っていました。

「この潟は、ただの問題のある土地じゃない。必ず豊かな恵みを生む場所になるはずだ!」

重左エ門さんは、潟を干拓(かんたく)して新しい田んぼを作ることを提案しました。水害の問題を解決し、土地を豊かにする。彼の熱い思いと具体的な計画は、地域の人々に大きな希望を与えました。1828年、本荘藩の許可が下りて、ついに干拓がスタートします。最初は潟保近辺の西目潟に注ぐ川に堤防を作っていきました。重左エ門さんが干拓に費やした費用は、当時のお金で約280両で今だと3000万円以上の大金です。

淵名孫三郎(ふちな まごさぶろう):知識と技術の武士

二人目は、六郷藩の作事方(さくじかた)という役人、淵名孫三郎さんです。彼は、新田開発に関する深い知識と技術を持っていました。

「干拓には、水の流れを制御する知識が不可欠だ。私が水路の設計をしよう。」

孫三郎さんは、潟の水を海へ安全に流すための水路の設計や、地形調査など、技術的な面で大きな貢献をしました。そして、重左エ門さんの計画を藩に認めさせ、いよいよ本格的な工事が始まります。でも、大きな問題が持ち上がります。

「孫三郎殿、どうしよう。これだけの大きな工事、お金が足りないぞ…」 「うむ…なんとか協力者を探すしかないな。」

鈴木七郎右衛門(すずき しちろうえもん):献身的な豪商

三人目は、本荘町で廻船問屋(かいせんどいや)を営む豪商、鈴木七郎右衛門さんです。彼こそが、不足していた資金を惜しみなく提供してくれた人物でした。

「皆の苦労を無駄にはできない。この事業が成功すれば、地域の未来は大きく開けるはずだ!」

七郎右衛門さんは、干拓に必要な莫大(ばくだい)な費用を、自身の財産のすべてをかけて支えました。

「あなた!もう干拓から手を引いてください。もう金庫は空っぽなのよ」

「バカなことを言うな!廻船問屋の株を手放せばその金で干拓を終えることができる。そうすれば、広い田んぼが手に入るんだ。」

七郎右衛門さんの干拓にかけたその額は、現代の金額で約3億5000万円にもなると言われています。彼の献身的な支援がなければ、この壮大な事業は実現できなかったでしょう。






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西目潟物語1

2025年05月31日 06時57分00秒 | 郷土史

西目潟(にしめがた)物語:未来を耕した挑戦者たち

昨日西目小学校5年生50人に西目潟干拓について講義しました。以下が自分で小学生向けに書いた西目潟物語です。

むかしむかし、今の秋田県西目地域には、キラキラ輝く大きな潟(かた)が広がっていました。西目潟です。この潟は、まるでこの地域のへそのように、たくさんの命を育む場所でした。水辺には草木が生い茂り、魚や貝も豊富。人々は潟から恵みを受け、周りの田畑を耕して暮らしていました。

「見て! 今日の夕焼けも潟に映ってきれいだなあ。」 「ああ、本当に。この潟があるからこそ、私たちはこうして生きていけるんだ。」

春には新緑が水面に映り、夏には子どもたちが水辺で涼み、秋には渡り鳥が羽を休める。そして冬には静かに凍りつき、一面の雪景色の中で特別な美しさを放っていました。西目潟は、人々の暮らしに欠かせない、大切な場所だったのです。

厳しい自然からの試練

でも、この潟は、いつも優しいだけではありませんでした。冬になると日本海から吹き荒れる強い風が、ある困った問題を引き起こしました。

「うわあ、また砂が飛んでるよ!」 「ああ、『とび砂』だ。河口がふさがっちまう…」

強風で舞い上がった砂が、潟と海をつなぐ河口に積もり、水の出口をふさいでしまうのです。すると潟の水がせき止められてしまい、洪水のリスクが高まります。

「困ったなあ、このままだと田んぼが水浸しになっちまうぞ。」 「魚も住みにくくなるし、水も悪くなる一方だ…」

そして、梅雨の時期になると、さらに深刻な水害が人々を襲いました。

「お父さん、また家の中まで水が入ってきたよ!」 「ああ、今年もか…」

潟のある場所はもともと低い土地だったので、大雨が降るとすぐに水があふれ出しました。冬の「とび砂」で河口がふさがったままだと、潟に溜まった水が逃げ場を失い、田んぼや家々が水没してしまうのです。毎年繰り返される水害に、人々は途方に暮れていました。

「どうすればいいんだ…このままじゃ、安心して暮らせないよ。」 「なんとか、この潟を、この土地を変えることはできないものか…」

人々は、この厳しい自然の力にどう立ち向かうべきか、真剣に考え始めました。この潟をどう守り、どう利用していくか。それは、地域全体の未来を左右する、大きな課題だったのです。





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赤穗津の歴史

2025年04月21日 06時14分00秒 | 郷土史
赤穂津の家譜
とある古書を現代文に書き換えました。

本村は、松ヶ崎村、神ノ沢村、芦川村、親川村を合併し「松ヶ崎村」と名乗るようになりました。古代のことについては詳細不明ですが、松ヶ崎村は大野村の改称です。延暦10年、田村将軍がこの地に下向した際、由利郡の長である由利維名を郡司に任命しました。大野亀井山で軍神を祀る「大野三仙」を郷司に任じたことが、大野という地名の由来となりました。大野は城下町の名前であり、城は大野築舘にありました。一方、松ヶ崎は港の名前で、昔から漁業者が多く住んでいました。芦川村は、天鷺日向の家臣である芦川太郎が住んでいたことから名付けられたと言われていますが、村名が先だったのか、姓が先だったのかは不明です。

これら4つの村(松ヶ崎村、神ノ沢村、芦川村、親川村)は全て「赤穂津」(「赤尾津」または「赤宇曽」とも呼ばれる)の荘に属していました。文治元年、由利八郎維友が家督を継ぎ、郡政を改革し、8つの場所に陣代を置き、そのうち4つの場所には浦の陣代を置きました。これが、塩城館、平沢舘、大野館、羽川館です。
百人を率いて間道から敵の横側を突き、大いに敵を苦しめたが、築舘の陣は破れ、諸軍は天鷺城に撤退した。天鷺城の守備にあたった物頭芦川太郎は、赤平に抑えられていた兵を動員し、逃げる敵を追撃して討ち取った数は百余人にのぼった。嘉暦元年の5月上旬に戦が勃発し、朝から夕方まで激戦が続いたが、小川は戦死した。




二手に分かれ、軽石は亀井山に、小川は築舘に向かった。穂津維九郎は手勢60人を率いて旗を掲げながら進軍し、寄せ手は松ヶ崎山に陣を構えた。大野志摩介維正は手勢180人で築舘城に立て籠もり、豊岡淡路入道は手勢89人を率いた。また、新沢館主の赤穂津周防守維俊は手勢300人を引き連れ、川大内須山館主の川大内時衡は手勢500人を従えた。そして、天鷺城には日向入道雪海とその嫡男である長範丸が手勢500人を引き連れた。

軽石寿太郎と小川主水は先陣を切り、手勢1000人を引き連れて敵に向かった。不順の者たちは、鳥海彌三郎の勝利に乗じて降伏しない者を討つべく、安部掃部介善信を討手として命じた。利君丸(後に信濃介維貴)も討ち取られ、信州の城主である小笠原信濃守に頼って逃亡した。
正中元年の3月、郡司由利維勝は鳥海彌三郎との戦いで根代館で討ち死にした。その子である由利君丸が後を継いだが、世間では12人の地頭を下したというが、これは誤りである。大野館は由利志摩介維正が陣代を務めた。応仁元年には12人の地頭が置かれる慣例ができたが、それ以前にも12頭と呼ばれる者たちがいた。

建久三年12月、郡司維友が死去し、嫡男の維平が家督を継ぎ、郡内12ヶ所に陣代を置いた。
赤穂津氏はその名を姓として名乗り、松ヶ崎港に上陸し、天鷺城に拠点を置きました。伯耆守光貞は築館城に居住し、一方で出羽国の大山城に進んで、由利郡の情勢を視察しました。同年8月には海路を通って守光貞が同国の谷地田の城主、小笠原甲斐守朝保とともに行動し、彼らの勢力は総勢3000人を誇りました。

また、大井の在地領主であった大井小太郎の次男である三郎光泰、同国池田荘の領主である池田伯耆守光泰もその一部として活動しました。暦応2年には、足利尊氏に訴え出て、帰国が許され、小笠原家の一門として信州に戻ることとなりました。

後に、混乱を避けるため、由利君丸は信州筑摩郡深志に十年間居住していました。一方、野築館城主の赤穂津伯耆守頼貞もその一員として活動し、彼らは旧領を安堵され、地頭の地位を保ちました。

鎌倉からの命により、信州から小笠原重誉が代官として派遣され、平和を取り戻すべく各地の領主たちは相談し合いました。応仁元年には、鎌倉府に対して、主治が不在であることを訴えたものの、時が経つにつれて、各地の城は勢力を競い合い、弱肉強食の争奪が続きました。

康暦元年には百姓一揆が起こり、逆賊である近藤と渡部の両者が殺害されました。これにより、郡内は少しの間平穏を取り戻しましたが、鳥海家の家臣である近藤長門守と渡部隼人の両者は、互いに権力を争い、絶え間ない攻防が続きました。

天鷺長範丸は乳母の柏木に導かれて、海士剥村に逃れ、そこで匿名で暮らしていました。その後、赤穂津維九郎、豊岡、道川の三将が討死し、天鷺城は破れ、諸将は川大内に撤退しました。この戦いで双方合わせて200余人の死傷者が出て、夜明けから戦いが始まり、味方は大敗を喫しました。
守護すべき旨が達せられた後、後年になって赤穂津左衛門尉光重(後に治部少輔に改名)の弟である九郎が羽川小太郎を欺いて攻め落とし、羽川領を奪いました。そして、九郎は羽川に居住し、「羽川九郎」と名乗るようになりました。

慶長7年、光重の子孫である次郎光隆は、領地を常陸国の矢田部に移されました。慶長8年には、最上出羽守の家臣である楯岡豊前守が湯沢城から築館城に移住し、「赤穂津豊前守」と名乗りました。由利郡の総石高は54,858石5斗5升5合で、そのうち4万石を領していました。慶長15年、本城が手狭であったため、由利郡子吉郷の本荘に新城を築き、移転しました。大野の商工業者もそれに伴い移り住みました。本荘町には「赤穂津町」と呼ばれる町があり、これは当時移住した場所です。また、亀井山八幡神社、別当天福寺、禅宗蔵堅寺なども移転しました。

元和8年、最上氏が領地を失うと、豊前守もまた退去しました。その後、本多上野介が由利郡を領し、元和9年には本多氏の領地が没収されました。同年9月、岩城修理太夫吉隆が信州川中島から移封され、2万石を領しました。岩城氏は赤穂津荘の天鷺村に新たに館を築いて居住地を移し、村の名前を亀田と改めました。岩城氏が移封した後、行政の利便性を図るため、管内を4つの区に分けました。それが内越郷、下浜郷、大正寺郷、川大内郷で、これを「四扱」と呼びました。本村は内越郷に属しており、大野村の商工業者は本荘町に移住し、戸数が少なくなりました。彼らはすべて松ヶ崎港に移り、村の名前を松ヶ崎村と改めました。神沢村はもともと「真沢村」と呼ばれていましたが、明徳4年に神託を受けて「神沢村」に改名されました。

また、芦川村の一部には「折林」と呼ばれる部落があり、親川村は今泉、栗山村、三川村、浜深沢村に分かれています。浜深沢村は元々内越深沢村の一部でしたが、山を越えて移動したためにこの名がつけられました。
守護すべきとの旨が伝えられた後、年月を経て赤穂津左衛門尉光重(後に治部少輔と改名)の弟である九郎が羽川小太郎を欺いて攻め落とし、羽川領を奪いました。そして九郎は羽川に居を構え、「羽川九郎」と名乗るようになりました。

慶長7年、光重の子孫である次郎光隆が領地を常陸国の矢田部に移されました。慶長8年には、最上出羽守の家臣である楯岡豊前守が湯沢城から築館城に移住し、「赤穂津豊前守」と名乗りました。由利郡の総石高は54,858石5斗5升5合で、そのうち4万石を領していました。慶長15年、本城が狭くなったため、由利郡の子吉郷内に新しい城を築き、本荘へ移住しました。大野の商工業者もそれに伴い移り住みました。本荘町には「赤穂津町」と呼ばれる町があり、これは当時移住した場所です。また、亀井山八幡神社や別当天福寺、禅宗の蔵堅寺も移転しました。

元和8年、最上氏が領地を失ったことで、豊前守も退去しました。その後、本多上野介が由利郡を治め、元和9年には本多氏の領地が没収されました。同年9月、岩城修理太夫吉隆が信州川中島から移封され、2万石を領しました。岩城氏は赤穂津荘の天鷺村に新たに館を築いて居住し、村の名前を亀田と改めました。岩城氏が移封した後、行政の便宜を図るため、管内を四つの区に分けました。それが内越郷、下浜郷、大正寺郷、川大内郷で、これを「四扱」と呼びました。本村は内越郷に属し、大野村の商工業者は本荘町に移住して戸数が減少し、すべて松ヶ崎港に移り、村名を松ヶ崎村と改めました。神沢村はもともと「真沢村」と呼ばれていましたが、明徳4年に神託を受けて「神沢村」と改められました。

また、芦川村には「折林」と呼ばれる集落があり、親川村は今泉、栗山村、三川村、浜深沢村と名付けられています。浜深沢村は元々内越深沢村の一部でしたが、山を越えて移動したため、この名がつけられました。
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国分氏と横手の関係

2025年04月02日 04時18分00秒 | 郷土史
仙台市泉区に広大な鶴ヶ丘公園があります。ここには中世から松森城別名鶴ヶ丘城があった所です。国分氏が造営された城で,仙台の歓楽街である国分町の名前の由来とも言われています。ここでは国分氏について調べた事をレポートします。

はじめに
国分氏は、戦国時代の日本において、東北地方の重要な武士団の一つであり、その歴史は松森城の築城と深く関わっています。松森城は、国分氏の拠点として長らく存在し、周辺の歴史的背景と密接に関わりながら、戦国時代の動乱に影響を与えました。以下では、国分氏の歴史とその戦いの背景について概説します。

1. 国分氏の起源と支配領域
国分氏の詳細な起源についてははっきりしていませんが、おそらく松森城を築城したのも国分氏によるものとされています。松森城が築かれた時期や目的についての記録は不明ですが、国分氏がこの地域を支配したことは確かです。国分氏の勢力は、現在の宮城県を中心に広がっていたと考えられます。

2. 松森城と国分氏の内紛
国分氏の歴史の中で特に注目すべき出来事の一つは、国分家内で発生した内紛です。1506年(永正3年)には、国分家の有力親族である松森盛次が反乱を起こし、国分胤実の討伐を受けました。これは、国分氏と留守氏との間で起きた「小鶴沼合戦」の結果と関連していると考えられています。国分氏の内部分裂とその後の戦闘は、国分家がその支配権を維持する上で大きな障害となったことを示しています。

さらに、1537年(天文6年)には伊達稙宗からの書状において、松森城の名前が登場し、国分氏と留守景宗との戦いが言及されています。この時期、松森城は国分氏の防衛の要所として重要な役割を果たしていたことがわかります。

3. 国分騒動とその影響
1577年(天正5年)、伊達家から伊達晴宗の子・盛重が国分氏に養子として迎え入れられます。盛重は、松森城を本拠地とし、その統治を開始しましたが、家臣との対立が生じ、1587年(天正15年)には盛重と反対勢力との間で内紛が勃発しました。この内紛は、盛重が堀江長門に攻められ、伊達政宗の介入によって収束しました。最終的に、盛重は国分領を手放し、松森城を含む領地は伊達政宗の直轄領となりました。
この国分騒動は、伊達政宗が東北地方の支配を強化するきっかけとなり、松森城はその後、伊達政宗の軍事的な要所として重要な位置を占めるようになりました。

4. 松森城と伊達政宗の支配
国分氏の支配が終わると、松森城は伊達政宗の支配下に入ります。政宗は、大崎領への侵攻において、松森城を後方基地として活用しました。松森城はその地理的な位置から、大崎領の侵攻を支える重要な拠点となり、伊達軍の戦力が集結し、松森城からの支援が行われたことが記録に残っています。
また、松森城の軍事的な役割が強化され、城内には兵力が駐屯し、重要な軍事拠点として機能しました。この時期が、松森城が最も活気に満ちた時期であったと考えられています。

5. 松森城の最期とその後
1596年(文禄5年)、伊達政宗は再び国分盛重を討つ決定を下し、松森城を攻撃しました。この攻撃により、国分盛重は義兄である佐竹義重のもとへ逃れました。この戦いによって、松森城は実質的に国分氏の手を離れ、伊達政宗の支配が確立されました。その後、松森城は一時的に重要な軍事的な拠点として機能することはなくなりますが、江戸時代には仙台藩の「在所」として使われ、行政的な中心としての役割を果たしました。

6. 結論
国分氏は、松森城を中心に東北地方で重要な武士団として存在しましたが、内紛や外的な圧力により、その支配を維持することは困難でした。伊達政宗の介入によって、松森城は最終的に伊達家の支配下に入り、軍事的な拠点としての役割を果たしました。国分氏の歴史は、松森城の戦略的な重要性を背景に、戦国時代の動乱の中で刻まれており、その後の伊達家の支配にも大きな影響を与えました。
参考文献
・仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館』
・古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』(現代書館、2014年)
次に重盛についてレポートします。

伊達重盛の生涯
伊達重盛(または国分盛重)は、戦国時代の日本の武将であり、伊達氏の一族として様々な激動の時代を生き抜いた人物です。彼は天文22年(1553年)、伊達晴宗の五男として生まれ、幼名を彦九郎、元服後は政重と名乗った。政重は、伊達氏の家族間の変動と権力闘争の中で様々な役割を果たし、後に伊達家から離れ、佐竹家に仕官することとなります。

国分氏の後継者としての役割

天正5年(1577年)、政重は兄・伊達輝宗の命により、陸奥国宮城郡の小大名である国分氏の当主として送り込まれました。国分氏は伊達家に従属しており、この時の政重の任命には家中の反発がありました。国分氏の後継者として政重が登場した背景には、国分氏の先代の盛氏が後継ぎを残さずに死去したことがあるようです。しかし、国分家の家臣たちは政重を嫌い、輝宗は鬼庭良直を派遣して調停を試みるも、家中の不満は収まりませんでした。結果として、政重は国分の代官として任務を遂行することとなりましが、国分家の家中での地位は安定せず、政重の支配には様々な困難が伴ったのです。

伊達氏の家臣としての活躍

政重は伊達氏の家臣として、戦闘や外交にも従事した。特に、天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達政宗の軍の一部として活躍し、佐竹・蘆名連合軍との戦いに加わっりまた。しかし、政重の治世における政治的不満が広がり、家中の反発が高まると、天正15年(1587年)には反乱の兆しを見せました。政宗は最終的に政重を討伐しようとしましたが、政重は謝罪して許され、国分氏の家臣たちは伊達政宗の直轄下に置かれることとなったのです。この事件により、政重の政治手腕に疑問を抱かれるようになりました。

豊臣政権下の伊達家臣としての安定

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により伊達政宗は豊臣家に従うことを決め、政宗の領土が再編される中で国分氏は改易を免れました。これにより、政重は伊達氏に戻り、伊達盛重としての名を再び名乗ったのです。この時期、政重は葛西大崎一揆の鎮圧に関与したり、蒲生氏郷との調整役として活躍するなど、伊達家の内外で重要な役割を果たしました。

佐竹家への仕官と晩年

その後、政重は伊達家を出奔し、慶長元年(1596年)に佐竹義宣の下に仕官することとなります。佐竹家に仕官した後、彼は秋田に転封され、横手城を与えられ、秋田伊達氏の祖となりました。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では奮戦したが、翌年の夏の陣には病気のために参加しませんでした。元和元年(1615年)7月15日、重盛は63歳で死去し、その後は養子にあたる伊達宣宗が後を継いだ。

まとめ

伊達重盛は、伊達氏とその家臣として数多くの戦闘や政争に関わりながらも、その生涯には多くの波乱があった。家中の反発を乗り越えて一時的に国分氏を治めたものの、その後の伊達家の中での処遇や家族間の争いを経て、最終的に佐竹家に仕官することとなりました。政重(後の盛重)の名は、彼の政治的、軍事的な経歴と密接に関連しており、その晩年には新たな土地で再び名を馳せることとなったのです
伊達重盛の生涯と横手城

伊達重盛(または国分盛重)は、伊達氏の一族として数多くの歴史的出来事に関与した武将である。その生涯は波乱に満ちており、最終的には伊達家を離れて佐竹家に仕官し、秋田に移ることとなった。ここでは、特に彼の晩年に関わる横手城についても詳しく触れる。

横手城の建設とその重要性

横手城は、現在の秋田県横手市に位置する城で、重盛が佐竹義宣の家臣として秋田に転封された後、与えられた拠点であった。横手城の設立には、慶長5年(1600年)の佐竹氏の転封が関わっている。

佐竹義宣が秋田に転封される際、重盛も同行し、横手城がその拠点として整備された。横手城は、秋田地方の防衛拠点として、また佐竹氏の支配を確立するための戦略的な重要拠点とされていた。横手城は、山の上に築かれた城であり、周囲の地形を活かした防御に優れた城としても知られている。

重盛は、この横手城に移り住み、佐竹家の家臣として新たな地でその地位を築いていった。横手城は、当時の秋田藩にとって重要な行政・軍事の拠点であり、重盛の存在はその安定に寄与したと考えられる。

横手城と重盛の役割

重盛が横手城に拠点を構えた背景には、慶長5年(1600年)の佐竹義宣の転封が大きな影響を与えている。佐竹家が秋田に移される際、重盛もその一員として、秋田の地に足を踏み入れることとなった。横手城はその後、重盛の住まいとなり、彼の軍事的な拠点ともなった。

重盛が横手城に住んでいた時期には、佐竹家は新しい領地での支配を確立するために努力しており、重盛もその一翼を担った。横手城からは周囲の地域を監視し、佐竹家の支配を強固なものにする役割を果たしたと考えられる。また、重盛は横手城を拠点にして、周辺の治安維持や領民の統治にも関与していたことが想像される。

大坂の陣と横手城

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、重盛は従軍し、今福の戦いで奮戦したとされている。この戦いは、豊臣家と徳川家の間で繰り広げられた戦闘であり、重盛もその戦いに参加したことで、佐竹家の忠義を示した。翌年の夏の陣には病気のため参加しなかったが、横手城を留守にする家臣の一人として、城の守りを任されていた可能性がある。

横手城は、その後も佐竹家の支配下にあり、重盛が没した後もその重要性は続き、横手城周辺は秋田藩の中心的な地域となった。

晩年と横手城の遺産

元和元年(1615年)、重盛は死去し、享年63であった。彼の死後、横手城は佐竹家の支配下で存続し、後にその土地は伊達家の支配を受けたこともある。重盛が秋田において果たした役割と、横手城を中心に築いた基盤は、彼の遺産の一部として地域の歴史に刻まれた。

横手城はその後、時代とともに変遷を迎え、現在はその一部が遺跡として残るに至った。しかし、重盛の時代における横手城の存在は、彼が佐竹家のために果たした重要な役割を象徴するものであり、彼の軍事的・政治的な地位の証しでもあった。
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1万石の大名の年収?

2025年03月19日 03時49分00秒 | 郷土史
1万石大名の年収:現代の価値に換算してみた

「殿、ご立派でございます!」時代劇でお馴染みのセリフですね。江戸時代、大名の格式を示す指標として使われた「石高(こくだか)」。中でも「1万石」は、大名として認められる最低ラインであり、一つの領地を治める堂々たる存在でした。しかし、「1万石」とは、現代の貨幣価値に換算すると一体どれくらいの年収に相当するのでしょうか?興味深いこの問いについて、様々な角度から考察してみたいと思います。



米価から見る1万石

まず、石高とは、その土地で収穫される米の量を基準としたものです。1石は約150キログラム、これは成人が1年間に消費する米の量(1日3合として計算)に相当します。

現代の米価を参考に単純計算してみましょう。2020年代の米価を1石あたり約75,000円と仮定すると、1万石は大体7億5,000万円となります。一見すると、かなりの高収入に思えますね。
ところがこれを2025年現在の米の値段に換算すると約2倍に膨らむのです。という事は15億円になります。よって単純に米価で換算はできません。




現代の賃金水準から見る1万石

しかし、別の視点からも考えてみましょう。当時の米は単なる食料ではなく、貨幣としての側面も持っていました。そこで、現代の賃金水準に照らし合わせてみます。

大工などの職人の手当てなどで試算によれば、1石を現代の価値に換算すると約270,000円に相当するという考え方もあります。この場合、1万石は大体27億円という、さらに大きな金額になります。

このように、算出方法によって1万石の現代的な価値には大きな開きがあることがわかります。

東成瀬村の財政収入と比較してみる
では、この金額は現代社会においてどの程度の規模なのでしょうか?秋田で最も人口の少ない市であるn市の2024年代の財政収入は約47億円です。1万石大名の年収をどちらの金額で捉えたとしても、自治体の税収と比較すると、必ずしも巨大な規模とは言えないかもしれません。

石高の半分は生産者の取り分
しかもここで重要なのは、石高の全額が大名の収入になったわけではないということです。一般的に、収穫された米の半分近くは年貢として生産者である農民たちの取り分でした。
つまり、1万石の大名の手元に入るのは、その半分程度。そこから家臣の給料を支払い、治水工事や道路整備といった領地の維持管理を行い、さらに江戸幕府から課せられた様々な義務を遂行する必要があったのです。

大名も財政難だった?
驚くべきことに、江戸時代の大名の多くは「大名貸」と呼ばれる金融業者からの借金に苦しんでいました。豪華な暮らしをしているイメージがあるかもしれませんが、実際には、1万石大名に限らず、多くの大名家が慢性的な財政難に陥っていたと考えられています。

まとめ

1万石大名の年収を現代の貨幣価値に換算すると、米価基準で約15億円、賃金水準基準で約27億円という幅が出ました。どちらの金額で捉えるにしても、現代の自治体の税収と比較すると、その規模感が見えてきます。
しかし、石高の半分近くは農民の取り分であり、残りの収入から家臣の給与や領地の維持費、幕府からの負担などを考えると、大名の財政状況は決して楽ではなかったようです。




私たちが時代劇で見る華やかな大名も、現代の会社経営者と同じように、常に財政難に頭を悩ませていたのかもしれませんね。

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秋葉大権現

2025年02月13日 13時23分00秒 | 郷土史

中沢の大山つみ神社の階段のみぎわきに秋葉大権現が祀られています。





秋葉信仰 (あきばしんこう)

秋葉信仰は火難・水難よけ,とくに火難よけ(火伏せ)の信仰として全国的に分布しているが,とくに関東・中部地方に濃厚である。この信仰の中心は遠州秋葉山で,各地の秋葉山はここから分祀したものといえる。また関東・中部地方では秋葉講中あるいは代参・月参講中が結成され,秋葉山への参詣が盛んである。秋葉山では秋葉神社・秋葉寺(三尺坊権現)ともに12月15,16日に火祭を行っている。秋葉神社では火之迦具土神をまつり,16日の大祭には弓・剣・火の舞が行われる。一方秋葉寺でも護摩がたかれ火渡りを行うほか,種々の天狗に対する七十五膳献供式がなされる。秋葉三尺坊と通称される存在は天狗とみなされ,秋葉信仰の火防神としての性格と密接に結びついている。秋葉信仰の各地への普及には,秋葉修験の布教も無視することができないものの,江戸時代中ごろ,火災に悩まされる江戸市中に急速に広まっているように,流行神(はやりがみ)的性格を持って広まったものと考えられ,1685年(貞享2)には幕府からも村々において秋葉権現を次々に送り渡すことが禁止されている。そんな秋葉権現があるのです。





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八幡神社がやたらどこにでもある

2024年12月26日 07時10分17秒 | 郷土史

本荘郷土資料館では、来年13日まで北前船展が行われています。

この度の展示の目玉の一つに松ヶ崎八幡神社の狛犬があります。この狛犬は笏谷石という、富山産の緑色凝灰岩でできているもので、明治には堀りきられ現在はありません。松ヶ崎の八幡神社は国指定文化財になっています。そこの奉納されたこの狛犬は秋田県指定文化財でもあります。さすがにお正月は自分の神社に戻らなければならないので、明日神社にお返しすることになっています。この狛犬を資料館で見ることができるのは今日までです。

さて八幡神社の事ですが、どこに行ってもあると思いませんか?

八幡神社の秘密に迫る!

日本全国に点在する八幡神社(はちまんじんじゃ)は、実に4万社以上とも言われる膨大な数を誇ります。その起源、歴史、そしてユニークな文化的背景を探ってみましょう。


八幡神社って何?

八幡神社は、日本古来の神道において最も重要な神社群の一つです。その主祭神である八幡神(やはたのかみ)は、戦の神、弓矢の神として崇められています。また、農業や漁業の神としても信仰されており、多くの人々に親しまれてきました。

有名な八幡神社の一つとしては、大分県宇佐市にある「宇佐神宮」が挙げられます。この神社は八幡神の総本宮であり、その格式の高さから「八幡信仰」の中心地となっています。知らなかったでしょ!


歴史の一コマ:八幡信仰の起源

八幡神の起源は、日本の古代社会に根ざしています。その成立については様々な説がありますが、以下に主要なポイントを挙げます。

  1. 古代の地域信仰としての始まり 八幡神の信仰は、弓矢の守護神や農業・漁業の豊穣を祈る地域の神として発展したと考えられています。特に、九州地方では農耕文化が根付く中で自然神として崇められる存在となりました。

  2. 宇佐神宮の重要性: 八幡神が国家的な地位を確立したのは、大分県宇佐市にある宇佐神宮が中心的な役割を果たしたからです。奈良時代の天平勝宝4年(752年)、東大寺の大仏開眼供養に際して宇佐神宮からの神託が寄せられました。この神託は、八幡神が仏教と密接に結びつく契機となり、仏教的要素を含む信仰形態を形成しました。

  3. 朝廷から武士への信仰の移行: 平安時代には、八幡神は国家鎮護の神として崇拝されるようになります。特に石清水八幡宮(京都府八幡市)が朝廷の庇護を受け、貴族や武士の信仰を集めました。その後、鎌倉時代には武士階級が台頭し、源氏の守護神としての八幡信仰が強まりました。源頼義や源義家が戦勝祈願を行った記録が残っており、源頼朝による鶴岡八幡宮の建立はその象徴と言えるでしょう。

  4. 全国への広がり: 鎌倉時代以降、八幡神社は武士階級の影響力を背景に全国に広まりました。この過程で、八幡神は地域ごとに様々な特色を持つ信仰対象として受け入れられるようになり、多くの村や町で鎮守の神として祀られました。

  5. 仏教との共存: 八幡神は「八幡大菩薩」とも呼ばれ、仏教的な要素を取り入れることで仏神習合の代表的な存在となりました。多くの八幡神社には、神宮寺が併設され、神仏習合の象徴的な形態を見せています。明治時代の神仏分離令によって多くの神宮寺が解体されましたが、その名残は現在も見られます。


面白エピソード:八幡神社のユニークな習慣

多くの八幡神社では、地域ごとにユニークな祭りや儀式が行われています。たとえば、京都府の石清水八幡宮では、毎年1月15日に行われる「男山山焼き」が見どころです。山を焼き尽くす炎の勢いは圧巻で、その年の豊作や無病息災を祈る重要な行事となっています。

一方、大分県の宇佐神宮では、春の「初午祭(はつうまさい)」が盛大に行われます。色鮮やかな衣装を身にまとった参加者が境内を練り歩く様子は、まさに圧巻。地元の人々だけでなく、観光客にも人気のイベントです。


豆知識:全国各地の八幡神社

日本各地にある八幡神社には、それぞれに独特の特徴があります。

  • 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)

    • 鎌倉幕府の中心地として、源氏の守護神とされました。

  • 石清水八幡宮(京都府八幡市)

    • 平安時代には国家鎮護の神社として重要視されました。

  • 筥崎宮(福岡県福岡市)

    • 「敵国降伏」の祈願で知られる、九州地方の有名な八幡神社。

  • 本荘八幡神

 慶長12年(1607年)、本城満茂が本荘城を築城し、城下町を建設する際、赤宇津大野原から鬼門にあたる現在地へ遷宮された本荘八幡神社。元和9年(1623年)に入部した六郷氏は氏神として崇敬し、以降、本荘藩の庇護のもと、地域の総鎮守として発展してきました。藩主たちは社殿の造営や修繕に尽力し、数多くの奉納品を残しており、その崇敬の深さがうかがえます。

江戸時代の城下絵図には、神社周辺が木々に囲まれ、参道や二基の鳥居、社殿などが整然と配置されている様子が描かれています。境内には、神仏習合の時代に建てられたとされる「八幡寺」や「護摩堂」などの建物も存在し、地域の信仰の中心的な役割を果たしていました。

神社前の東西に走る通りは「八幡町」と呼ばれ、祭礼時には多くの町民が参拝に訪れました。現在も毎年9月に行われる祭典は、旧城下の氏子町内が参加し、山車や大名行列などが巡行する地域最大の祭りとして賑わいます。

境内には、16世紀に越前国から運ばれてきた笏谷石製の狛犬をはじめ、明治の大洪水を伝える石標など、貴重な文化財が数多く残されています。これらの文化財は、神社の歴史と地域の変遷を物語る貴重な証であり、後世に引き継ぐべき文化遺産として大切に保護されています。


八幡神社巡りのすすめ

八幡神社はその数が多いだけでなく、地域ごとに異なる雰囲気や歴史があります。そのため、神社巡りが好きな方にとっては絶好のスポットです。

例えば、京都の石清水八幡宮は山上に位置しており、ケーブルカーに乗って訪れる楽しさがあります。また、鎌倉の鶴岡八幡宮は歴史散策の拠点としても人気です。

訪れる際は、地元の方々の信仰や文化を尊重しつつ、八幡神社の奥深い世界を体感してみてください。


八幡神社についての魅力は尽きません。その歴史、文化、そして地域に根ざした伝統は、日本の心を感じさせてくれるものです。次回の神社巡りの際は、ぜひ八幡神社を訪れてみてはいかがでしょうか?

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鮎川氏とはl

2024年11月21日 12時38分00秒 | 郷土史
由利12頭の中でもマイナーなのが、鮎川子平太です。矢島大井氏ととても近い親族であるという。山崎館を居城としていた。
仁賀保vs矢島の戦いでもあまりでてきません。
山崎集落はとても古い集落で,鮎川の中心であったのです。




ちなみに、万個将軍の墓がある瑞光寺も鮎川氏の勧請されたものと言われています。
由里仲八郎政春が,鳥海弥三郎との戦いに敗れ自害した際に村上帯刀らと逃げた嫡男の丁刃丸が乳母のお沢とともにお沢の実家に逃げた場所が山崎だという事になっています。



お沢のお父さんの権七が丁刃丸を鳥海弥三郎に渡そうとした為逃げましたが、平沢で捕まって13歳の若さで自害しまったのが平沢小学校のそばです。
現在お墓が残っています。
権七のお宅は今も山崎にあるのかも知れませんね!
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