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鮎川フットパス④ 日枝神社(南福田)

2018年12月06日 09時32分36秒 | 

鳴沢館入り口の標柱から下って鮎川小学校に向かう途中右側に日枝神社があります。200mほどです。

前郷日枝神社は,本地区では最大の神社ですが、由緒としては、ここの神社が古いです。御祭神は、大山咋神 (おおやまくいのかみ)
誉田別命(ほむたわけのみこと)宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。大山咋神 は、日吉大社と松尾神社の御祭神です。古事記には『この神は近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり』と書いてありますが、その通り、比叡山の山麓の大津市・日吉大社と、京都の松尾大社に御鎮座しています。そこから全国の日吉神社・日枝神社・山王神社、松尾神社に勧請されています。

 日枝神社(南福田)は、由理仲八郎の末孫である由利政春が、正和元年(1312年)山形飽海から由理5万8千石の籏頭となり、西目浜館に居城が許されたが、その後仁賀保の栗山館の城主鳥海弥三郎と不和になり、その攻勢に耐えられず、やむなく居城を浜館から鳴瀬台に移した時、この地の地相を見て山王権現まつったことが始まりと言われます。(山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した延暦寺の鎮守神である。また、日吉大社の祭神を指すこともある。山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさんとも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また、「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる)よって、祭神は、大山咋神なのだです。 つまり、この神様は山の所有者という訳です。

 政春は、埋田谷地を開田するなどして食糧の確保に努めたそうです。その後さらに弥三郎の襲撃を受けたが、鳴瀬台は三方見張りがよくきくが、西風強く守るに矢風を受けるので、やむなく正和4年奉行免根代館に居を替えたそうです。さらに執拗にも正中元年3月23日更に急襲を受け、根代館は落城して、翌24日政春は多くの家臣と共に自害してしまいました。
 切腹にあたって政春は、重臣村上帯刀を呼び、由理家代々の宝刀(藤原秀衝からの拝領という)を授けて、若君2人(丁刃丸、吉雄丸)の養育と由理家再興を頼み果てました。重臣村上帯刀は、その添役として伊藤四郎久宗らを加え、一行16名は闇にまぎれて根代館を脱出した。この重大使命を受けた一行は逃げる途中に鳴瀬台に足をとどめ、かつての由理家の氏神であった、山王権現にぬかづき、男女16名はおのおのが「タブサ」を切って由理家の武運長久を祈願したとされています。

 現在もその「タブサ」は錦の袋に入れられて、今でも日枝神社の社宝として神殿ふかく安置されているそうです。この山王権現を祀ったところを「山王堂野」と呼んだが、領主なきあとは山王堂野から現地に移し崇敬社としたのが日枝神社由来です。

日枝神社には、茶の木が植えられています。由利仲八郎政春が鳴沢台に館をかまえていたころ、日常の生活に必要なものはすべてそろえたと言われています。茶の木もその一つです。現在、日枝神社の境内にある茶の木は、鳴沢館にあった茶の木を移したものだということです。


ここから、南福田遺跡、鮎川小をへて鮎川神社に向かいます(1km弱歩きます)←クリック

 

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