OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

村の指導者 (忘れられた日本人(宮本 常一))

2006-04-11 00:26:49 | 本と雑誌

 以前の「村」といえば、交通の便も悪く「あまり外との交流がなかっただろう」と勝手に思い込んでいました。
 が、宮本氏によると、どうもそうとばかりは言えないようです。

 村々には「世間師」と言われる魅力的な型破りの行動派が何人もいたのです。

(p214より引用:世間師(一)) 日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。・・・村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。

 また、村の中には何人か「文字の分かる」人がいました。この人々はやはり村の中心人物となっていました。高木さんもそのひとりです。
 高木さんは自然とともに暮らす純粋な農民としての澄んだ感性をもっていました。

(p284より引用:文字をもつ伝承者(二)) 高木さんは田圃をつくったり、野菜や花をつくったりすることがとてもたのしいのである。・・・夏のはれた暑い日の稲を見ると、ゴクリゴクリと田の水をのんで、稲の葉が天をさしてのびていくのがわかるような気がするという。秋になって田に入れた水をおとしてやると、その水がサラサラとさも自分たちの役目を果したようにさっぱりして流れていくのがわかるという。
「はァ、みんなの声がきこえるような気がしますね」

 という傍ら、同じ高木氏がこう言います。

(p286より引用:文字をもつ伝承者(二)) 古い農民生活は古い時代にあっては、それが一番合理的であり、その時にはそのように生きる以外に方法がなかったのである。それだけにその生き方を丹念に見ていくことは大切であるが、時代があたらしくなれば新しい生き方にきりかえてもいかねばならぬ。しかしそれは十分計画もたて試してみねばならぬ。それは村の中の目のさめた者の任務である。

 こんどは冷静な現実者としての村の指導者のことばです。
 昔の農村には、高木さんのような人がいて、自らの力で村を豊かにし導いていったのです。

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村のくらし (忘れられた日本人(宮本 常一))

2006-04-09 12:21:44 | 本と雑誌

 宮本氏は、本書の中で、お年寄りの語りを丹念に採集することによって、ふつうの村のくらしをそのままに描き出してゆきます。
 村の素朴な正直さです。

(p96より引用:名倉談義) 村の中が仲ようするというても、そりゃけんかもあればわる口のいいあいもあります。貧乏人同士がいがみあうて見ても金持ちにはなりませんで。それよりはみな工夫がだいじであります。

 こどもがいなくなったと聞くと村の人々はみんな、頼まれなくても心当たりのところに探しに行きます。
 村の優しさです。

(p104より引用:子供をさがす) かれはのんべえで、子供たちをいつもどなりつけていたが、子どもに人気があった。かれは子どもがいなくなったときいて、子どもの一ばん仲のよい友だちのいる山寺までさがしにいったのである。そこは一番さびしく不便な山の中であった。

 こういった極々ふつうの村のくらしぶりについては、あまり知られてはいませんでした。村の人間関係は、古い因習に縛られて旧態依然としているとか、閉鎖的でウェットであるとか言われがちですが、現実は必ずしもそうではなかったようです。

(p209より引用:私の祖父) 世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりももう一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。・・・こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、・・・いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や非痛感がでていないと承知しなかったものである。

 ある側面だけを切り出しての類型化・一般化は、ついつい陥りがちな誘惑であり落とし穴でもあります。

 その落とし穴にはまらないためには、素直な眼でいろいろな視座から現実を捉えること、そうして得られた事実をまずはそのまま受け入れることが肝要です。

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忘れられた日本人 (宮本 常一)

2006-04-08 13:25:55 | 本と雑誌

 民俗学といえば柳田國男氏ぐらいしか頭に浮かびません。かといって柳田氏の著作は(恥ずかしながら)まだ読んだことすらありません。

 民俗とは民間伝承のことです。民俗学は、衣食住をふくむ生活知識・技術・社会慣習・信仰など世代から世代へと受け継がれた伝承文化を採集していきます。そして、そうした人々の日常生活の変遷の跡をたどることにより、歴史的に再構成したり構造的にとらえなおしたりして、所属する国や民族の文化を明らかにしようとする学問とのことです。その研究においては、文献記録のみならず、口伝えの民間伝承が資料として極めて重要視されるのです。

 宮本常一氏は、山口県周防大島に生まれた民俗学者です。
 そしてその精力的な活動の中で、柳田國男氏や渋沢敬三氏(渋沢栄一の孫、日本銀行総裁・大蔵大臣をつとめた)と出会うことになります。

 宮本氏は、生涯にわたって自分の足で調査を続け、希有なフィールドワーカーとしても高く評価されました。その実体験に裏打ちされた該博な知識は、林業・農業・塩業・漁業・民具・交通・民衆史・考古学など多岐に及びます。
 先の渋沢氏は、「日本列島の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクでたらすと、列島は真っ赤になる」と大いに驚いたと伝えられています。

 この本で語られていることは、半世紀前の日本にあった現実の生活の姿です。
 その風習や心情は、現代に脈々と受け継がれているものもあれば、遠いかなたの昔話になってしまっていることもあります。しかしながら、いずれにしても今の生活は、その営みの道の延長線上にあることには変わりありません。

 民俗学というジャンルの本はほとんど手にとったことはないのですが、この著作は、実証研究の王道たる丹念なフィールドワークの見事な結晶だと思います。ともかく、宮本氏自身の足で、自身の目で、自身の耳で直に集め確かめた人々の生きた事実の厚さ・重さを感じさせてくれます。

 その事実の集積は、おそらく宮本氏の、取材した方々すべてに対する宮本氏の愛情が、語るお年寄りの口を饒舌にした賜物のだと思います。宮本氏を前にすると、お年寄りたちも、そういえばこういうこともあった、ああいうこともあったと心地よく思い出を紡ぎ出していでいったのでしょう。

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「武士道」解題 (李 登輝)

2006-04-06 23:53:22 | 本と雑誌

 以前、新渡戸稲造氏の「武士道」を読んで、(必ずしも「武士道」そのものの思想に全面賛同というわけではないのですが、)新渡戸氏の高潔な気概とその趣旨の明朗性にはいたく感銘を受けました。

 その「新渡戸武士道」を、かの李登輝氏がいったいどのように理解・咀嚼し、そしてどう世の中に発信しているのか興味を持って手にしたのが、この本です。

 著者の李登輝氏は、ご存知のとおり前の台湾の総統です。
 氏は、台湾生まれですが、日本植民地下の台北高等学校卒業後、京都帝国大学農学部で学んだ経歴をもっています。その点では、はじめての台湾出身の総統ではありますが、その思想的ベースには戦前の日本教育も大きな影響を与えています。

 さて、本書を読んでみての感想です。
 正直、当たり前ですが、「新渡戸武士道」は、李登輝氏の頭と口を通して理解するべきではなく、やはり、新渡戸氏の著作を直接読まなくてはならないというのが「いの一番の印象」です。(「武士道」の原書は英文ですが、せめて岩波文庫の日本語版を。(もちろん私が読んだのも日本語(岩波文庫)です))

 いろいろな言いようがあろうと思いますが、(よく言えば)李登輝氏が現代の鉄人政治家のひとりとも言われるほどの人物であるが故に、新渡戸氏の思想がさらに大きな(一部別の?)皮膜に包まれてしまったような気がします。私の感じた「武士道」での新渡戸氏のメッセージは、もっとサクっとしたこ気味の良いものでした。

 こういった著名な方が書いた解説本(解題)は、対象となった書物(この本の場合は新渡戸氏による「武士道」)を通して、結局、著者自身(今回は李登輝氏)を読むということになるのです。それはそれで、面白いのですが・・・

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わが子に教える作文教室 (清水 義範)

2006-04-04 00:40:00 | 本と雑誌

 この本はタイトルどおりにとると「小学生を対象にした作文教室」、すなわち、親が小学生のこどもに作文の上達方法を教えるHow To本です。
 事実、そのとおりの本です。が、それだけではない楽しい内容です。

 まずは、学校における作文指導に対してです。

(p146より引用) 子供に作文を書かせるってことの、いちばんの狙いは何だろうか。
・・・最も素直に考えるならば、子供に作文を書かせるのは、その子の文章による表現力を高めるためであろう。
・・・そこでの目標は、ちゃんと伝えられるようになろう、である。
 それなのに、作文の指導をしていると、ついつい脇道にそれた指導をしてしまいがちなのだ。作文を利用して、道徳教育を始めてしまうケースが目立つのだ。

 弟・妹について書いた作文に対して、「兄弟は仲良くしましょう。」といった批評を書くケースです。確かにこれはよくありがちです。

 さらに、このケースの発展形としては、こどもがその傾向を先取りして、自分の書いた作文を、(無理やり)親の目・先生の目を意識した優等生的な終わり方にもっていく場合を紹介しています。
 お父さんは休みの日家でごろごろしてばかりいるとか全然遊んでくれないとか散々書いておいて、「・・・。でも、やっぱりお父さんを大事にしようと思います。」とかの決まり文句でしめるパターンです。こどももある種「予想以上にオトナ」なのです。(決していいことではないと思いますが・・・)

 また、清水氏自身がなさっている作文教室のことにも触れています。
 作文指導を通した氏のこどもへの接し方には、こどもの視線に合わせた優しさが感じられます。「こどもの自由な発想を決して否定しない」「まずは褒めて、『書くこと』を好きにさせる」等々、こどもの伸びやかさを大事にしようという気持ちが素直に伝わってきます。

 そういう環境で生まれてくるこどもの作文は、読んでいてものすごく楽しいものです。
 この本の最大の魅力は、やはり何といっても紹介されている「小学生の作文」そのものです。こどもの感性には脱帽です。

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コペル君の名前 (君たちはどう生きるか(吉野 源三郎))

2006-04-02 15:18:05 | 本と雑誌

 「君たちはどう生きるか」の主人公「コペル君」の名前の由来は、やはり「コペルニクス」でした。

 これから戦時下に入ろうとする直前、緊迫した危機感を抱いていた吉野氏が当時の中学生に伝えたかったことは、「旧弊にとらわれない自由な思考の大事さ」でした。その象徴が「コペルニクスの視座の転換」です。

(p26-27より引用) しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。そして、日常のことには、それで一向さしつかえない。しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。それと同じようなことが、世の中のことについてもあるのだ。

 こういった「精神の自由さ」を「コペル君」という主人公の名前に託したのでした。

 「精神の自由さ」は、当たり前と思われていることに対面しても立ち止まりません。

(p81より引用) だからねぇ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言ってられないようなことにぶつかるんだね。こいつは、物理学に限ったことじゃあないけど・・・

 みんなが言っていることだからと何でもかんでも鵜呑みにしないで欲しい、「当り前」だと言われていることに疑問を持って欲しい、そして、その疑問を自分の頭で考えてどこまでも突き詰めて欲しい、という願いです。
 「物言えば唇寒し」という時代を前にして、「自由な精神の大切さ」を何とかして伝えておきたいという真剣な想いだったのでしょう。

(p183より引用)して見れば、僕たちは、ナポレオンの偉大な活動力に感歎しながらも、なお、こう質問して見ることが出来るわけだ――
 ナポレオンは、そのすばらしい活動力で、いったい何をなしとげたのか。
 コペル君、なにもナポレオンについてだけでない、こういう風に質問して見ることは、どんな偉人や英雄についても必要なことなのだよ。偉人とか英雄とかいわれる人々は、みんな非凡な人たちだ。・・・僕たちは、一応はその人々に頭を下げた上で、彼らがその非凡な能力を使って、いったい何をなしとげたのか、また、彼らのやった非凡なこととは、いったい何の役に立っているのかと、大胆に質問して見なければいけない。非凡な能力で非凡な悪事をなしとげるということも、あり得ないことではないんだ。

 この本は、今月から中学3年生になる娘に、「読んでみたら」と初めて勧めた本になりました。(彼女が読むかどうかは???ですが・・・)

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君たちはどう生きるか (吉野 源三郎)

2006-04-01 15:15:46 | 本と雑誌

 この作品は第二次世界大戦に突入する直前の時期に、むしろその時期だからこそ書かれたものです。

 著者の吉野源三郎氏は、昭和期の編集者・ジャーナリストです。
 大正・昭和期の劇作家・小説家で戦後参議院議員もつとめた山本有三氏と親交をもち、山本氏が企画した新潮社の「日本少国民文庫」の編集にも携わりました。そして山本氏に代わって、同文庫の第5巻として本書を執筆したのでした。

 この本は、当時の偏狭な軍国主義・国粋主義に対し自由で豊かな文化があることを、なんとかして少年少女に伝えておきたいとの山本氏らの想いがこめられたものでした。

 さて、この本、当時の旧制中学生を対象にしたものなので、非常に平易な文章です。
 が、密度はものすごく濃いです。具体的な読み手を強く意識し、伝えたいことを明確に示しています。そして、その書きぶりは、伝えたい読み手への思いやりに溢れています。

 本書の巻末には、丸山真男氏が一文を寄せています。吉野氏への追悼をこめた本書の回想文です。その中で、丸山氏をしてこう語らせています。

(p307より引用) 私がこの作品に震撼される思いをしたのは、少国民どころか、この本でいえば、コペル君のためにノートを書く「おじさん」に当たる年ごろです。・・・しかも自分ではいっぱしオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したからではなくて、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。・・・

 その後、吉野氏は、岩波書店に入社して「岩波新書」の創刊に関わり編集部長をつとめました。第2次世界大戦後は、戦争を防げなかったことへの反省をこめて雑誌「世界」が創刊されると、その初代編集長となり、同誌を通じて進歩的ヒューマニズムの論調を打ち出しました。

 また、そういった戦後民主主義を基盤とするジャーナリズムの育成への尽力とともに、児童文学に対する貢献にも特筆すべきものがありました。

 そのいずれにおいても、根底には、「2度と戦争を起こさせまいとする平和への意志」を次の世代に引き継ごうという吉野氏の強い想いがありました。

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