宮本氏は、本書の中で、お年寄りの語りを丹念に採集することによって、ふつうの村のくらしをそのままに描き出してゆきます。
村の素朴な正直さです。
(p96より引用:名倉談義) 村の中が仲ようするというても、そりゃけんかもあればわる口のいいあいもあります。貧乏人同士がいがみあうて見ても金持ちにはなりませんで。それよりはみな工夫がだいじであります。
こどもがいなくなったと聞くと村の人々はみんな、頼まれなくても心当たりのところに探しに行きます。
村の優しさです。
(p104より引用:子供をさがす) かれはのんべえで、子供たちをいつもどなりつけていたが、子どもに人気があった。かれは子どもがいなくなったときいて、子どもの一ばん仲のよい友だちのいる山寺までさがしにいったのである。そこは一番さびしく不便な山の中であった。
こういった極々ふつうの村のくらしぶりについては、あまり知られてはいませんでした。村の人間関係は、古い因習に縛られて旧態依然としているとか、閉鎖的でウェットであるとか言われがちですが、現実は必ずしもそうではなかったようです。
(p209より引用:私の祖父) 世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりももう一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。・・・こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、・・・いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や非痛感がでていないと承知しなかったものである。
ある側面だけを切り出しての類型化・一般化は、ついつい陥りがちな誘惑であり落とし穴でもあります。
その落とし穴にはまらないためには、素直な眼でいろいろな視座から現実を捉えること、そうして得られた事実をまずはそのまま受け入れることが肝要です。
m-funです。これまで民俗学の本を読んだことはありませんでした。20代の頃に柳田國男の「遠野物語」に何度かトライしてみたのですが、途中で眠くなることが多く最後まで読んだことはありません。この「忘れられた日本人」は書店でよく見ていたのですが、今回柳田國男全集(筑摩文庫)のうちの1冊とともに買って読んでみました。読んでみて思ったのは、民俗学が“今を意識し、現在につながるもの”との認識の下に研究されてきたのではということです。ただ、私の場合、民俗学については全くのど素人でもあり、思案中さんも書いておられるように、まず素直な眼でありのままの史実を知るという姿勢で、これからも時折民俗学の本に触れてみたいと思います。
いつもコメントありがとうございます。
時代や土地(時間や空間)が変わると今の自分たちと違った世界がある(あった)という当り前の事実は結構大事だと思います。
ある事象の意味づけを考えるにあたっても、比較する軸を多くもっているほど視野の広い発想が出てきます。
m-funさんのコメントにあるように、民俗学には「今」の意味づけを考えるという基本姿勢があり、その意味で学問としての意義があるように思います。
もちろん、自分の知らない時代や土地のことに気づかされるだけでも楽しいのですが。