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事物を疑って取捨を断ずる事・・・(学問のすゝめ(福沢 諭吉))

2006-06-22 00:40:15 | 本と雑誌

 福沢氏は一般の民衆への啓蒙に取り組むとともに、当時の学者に対しても自らが文明の進展、独立の維持に向けた姿勢を示すべきと強く訴えていました。

(p133より引用) 信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。

 新たな発見・進歩を生む基本的な発想は「疑う」ということです。

(p134より引用) 文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、その働きの趣きを詮索して真実を発明するに在り西洋諸国の人民が今日の文明に達したるその源を尋ぬれば、疑の一点より出でざるものなし。ガリレヲが天文の旧説を疑って地動を発明し、ガルハニが蟆の脚の搐搦するを疑って動物のエレキを発明し、ニウトンが林檎の落つるを見て重力の理に疑いを起し、ワットが鉄瓶の湯気を弄んで蒸気の働きに疑いを生じたるが如く、何れも皆疑いの路に由って真理の奥に達したるものと言うべし。格物窮理の域を去って、顧みて人事進歩の有様を見るもまたかくの如し。

 とはいえ、何でもかんでものべつ幕なし「疑ってかかる」のかといえば、そうではありません。

(p135より引用) 然りと雖ども、事物の軽々信ずべからざること果して是ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。蓋し学問の要は、この明智を明らかにするに在るものならん。

 福沢氏が学者に求めているのは、「真(信)」と「偽(疑)」を判断するにあたっての基本的基準(メルクマール)を明らかにすることだと思います。

(p142より引用) されば今の日本に行わるるところの事物は、果して今の如くにしてその当を得たるものか、商売会社の法今の如くにして可ならんか、政府の体裁今の如くにして可ならんか、教育の制今の如くにして可ならんか、著書の風今の如くにして可ならんか、加之現に余輩学問の法も今日の路に従って可ならんか、これを思えば百疑並び生じて殆ど暗中に物を探るが如し。この雑沓混乱の最中に居て、よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨その宜しきを得んとするはまた難きに非ずや。然り而して今この責に任ずる者は、他なし、ただ一種我党の学者あるのみ。学者勉めざるべからず。

 福沢氏から当代の学者への叱咤です。そして当時の全ての人々への叱咤です。

(p97より引用) 学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながるも出来るものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を喰い味噌汁を啜り、もって文明の事を学ぶべきなり。

コメント
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