OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

自由と平等 (学問のすゝめ(福沢 諭吉))

2006-06-20 01:25:12 | 本と雑誌

 「学問」に勤しむにあたっての留意点です。

 福沢氏は「分限を知る」ことを挙げています。

(p13より引用) 学問するには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

 同様のことは、第八編でも「我心をもって他人の身を制すべからず」として採り上げています。そこでは「心身(=身体・智恵・情欲・至誠の本心・意思)の自由」が論じられています。

(p74より引用) 以上五つの者は人に欠くべからざる性質にして、この性質の力を自由自在に取扱い、もって一身の独立をなすものなり。・・・ただこの五つの力を用いるに当り、天より定めたる法に従って、分限を越えざること緊要なるのみ。即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。かくの如く人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、天に罪せらるることもなかるべし。これを人間の権義と言うなり。

 分限を知るか否かが、「自由」と「我儘」との分水嶺になります。「他人を妨げない」という至極当たり前のことです。
 しかし、実社会の中では、知らず知らずのうちに妨げてしまっていることもあります。謙虚にならなくてはと思います。

 さて、「自由」に続いては「平等」です。福沢氏にとっては、「平等」の啓蒙が非常に大きなテーマでした。

(p25より引用) かかる悪風俗の起りし由縁を尋ねるに、その本は人間同等の大趣意を誤りて、貧富強弱の有様を悪しき道具に用い、政府富強の勢いをもって貧弱なる人民の権理通義を妨ぐるの場合に至りたるなり。故に人たる者は、常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ」または「エクウヲリチ」と言う。即ち、初編の首に言える万人同じ位とはこの事なり。

 「自由」であり「平等」であるということが前提で、「学問」による「権利意識の確立」「人民として国としての不羈独立」が果たされるとの考えです。
 権利意識が不十分だと、政治による統制が強化されてしまいます。

(p17より引用) 西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政府あるなり。仮に人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛やかなるとは、ただ人民の徳不徳に由って自ずから加減あるのみ。

 また、独立の精神が希薄だと、形ばかりの近代化に止まってしまいます。

(p48より引用) 国の文明は形をもって評すべからず。学校といい、工業といい、陸軍といい、海軍というも、皆これ文明の形のみ。この形を作るは難きに非ず、ただ銭をもって買うべしと雖ども、ここにまた無形の一物あり、この物たるや、目見るべからず、耳聞くべからず、売買すべからず、貸借すべからず、普く国人の間に位してその作用甚だ強く、この物あらざればかの学校以下の諸件も実の用をなさず、真にこれを文明の精神と言うべき至大至重のものなり。蓋しその物とは何ぞや。云く、人民独立の気力、即ちこれなり。・・・畢竟人民に独立の気力あらざれば、かの文明の形も遂に無用の長物に属するなり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする