「ふるさとの話」 平成29年6月号

2019年11月29日 | ふるさとあれこれ
寒くなりました。
昨日も今日もエアコン工事です。暑さ寒さを、こうも感じるエアコン工事です。

本当に寒くなりました。

昨日は午後です。
工事が完了してさあ試運転のころです。晴れ渡った午後の空に、昼間の温かさが吸い込まれ
ていくようです。放射冷却というやつでしょうか、午後も4時を過ぎるころに急に気温が下
がります。

真冬じゃないかというほどに、寒さが身に沁みますね。

今日は午前です。
11時、日差しが細間に差し込みます。天気は快晴ヒンヤリ陽気です。
「さあ、工事完了したよ。ガス漏れ検査をするから暖房試運転してよ」と合図です。

暖房運転したとたん、「うひゃ~。室外機からの排気風がムチャククチャ寒いがな~。細間
に寒い風がグルグル回って、立っておれないくらいに寒いがな」と息子が叫びます。

室外機の前は十分間隔ありますが、細間の物置に置いたエアコン室外機からの排気風が寒過
ぎます。
暖房しっかり運転ですから、外に吐き出す風は猛烈に寒いのです。

あれだけ暑かって苦しんだ夏のエアコン工事からたった3か月ほど、
今度は、寒過ぎて敵わぬ暖房運転の排気風に震えます。




ふるさとの話㉙6月号

豊岡市香住に「勤皇の志士田中河内介公生誕之地」の標識です。
明治天皇が最も慕われた男と言われる田中河内介のお話です。
クイズのヒントも隠れています。

悲しみの明治天皇
王政復古なった明治2年のことです。
明治天皇は薩摩・長州の「維新の元勲」たちを集めて宴を開いていました。
明治天皇18歳の時、宴には三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ほ
か、明治維新の立役者がずらりと並びます。

控えには岡藩の小河一敏(おごうかずとし)もいました。
明治天皇は一同に問いかけます。
「寺田屋騒動から早8年になるな。それにしても田中河内介の消息は一つも聞かぬ、彼
はどうなったか誰か知らぬか」と問われます。

その場に居並ぶ重臣たちは、誰一人として答えられず頭を下げて静まりかえります。
不機嫌になった天皇は、
「我を育ててくれた河内介はどこで生きているのか、元気にしているのか」と重ねて問
い詰めます。
 
同志として河内介の最期を知っている小河一敏が進み出て「ここにおられる薩摩の大久
保(利通)様らが指図して、河内介親子一行を薩摩に護送しました。
親子は船中で薩摩の者に刺殺され、非業の死を遂げたと聞き存じています」と答えたの
です。

座は白け、キーンと凍りついたその場で大久保利通や西郷隆盛らは、赤面して顔を上げ
ることもできません。
天皇は悲しみをこらえながら退出したと言われています。
 
明治天皇が「河内介爺(じい)」と呼んで、最も親しく慕っていた田中河内介の死を知
った時の話です。

勤皇の志士・河内介誕生
明治維新まで53年の頃です。
文化12年(1815)出石郡香住村の医師小森家に、二男・賢二郎として生まれています。
秀才だった賢二郎は医者にはならず、出石藩で儒学、武芸に励みます。
 
20歳で京に出て私塾・小森塾を開きます。
25歳のとき、公家中山忠能(ただやす)に仕えることになります。中山家の家臣・田中近
江介の娘と結婚して、田中姓と河内介を名乗るようになります。
 
嘉永5年(1852)に、中山忠能の娘・中山慶子が孝明天皇の子・祐宮を生みます。後の明
治天皇です。
中山家に特別に作った御産殿で、祐宮を養育する大役を任されます。
 
当時は天皇家と言えども、生まれてくる子供が無事に大きくなることはとても大変なこと
でした。宮中にお帰りになるまでの5年間、中山邸で「河内介じい」と慕われて育てます。

祐宮(明治天皇)にとって河内介は心にしっかり刻んだ、育ての親だったのです。
田中河内介はその後、尊王倒幕の実践に突き進んでいきます。バリバリの勤皇の志士とな
ります。

播磨灘に死す
文久2年(1862)、明治維新まであと6年の頃のことです。
田中河内介は薩摩の同志と計らい、九条尚忠と所司代酒井忠義を討つ挙に出ます。伏見寺田
屋の変と言われる騒動です。
 
薩摩藩の意思不統一で計画は未遂に終わり、河内介らは投降します。
薩摩藩が身柄を引き取り、大阪から鹿児島に護送するという名目で船に乗せられてしまいま
す。
播磨灘で同乗していた息子・田中瑳摩介(18歳)共々惨殺され海に投げ捨てられてしまいま
す。

二人の遺体は小豆島・福田の浜に漂着し、村民によって篤く葬られて今に至っています。
 
薩摩藩と計った尊王攘夷の計画は、卑怯にも薩摩の寝返りと、その上惨殺という酷い仕打ち
にあって48歳の田中河内介は葬られてしまいました。
また、三方村栗山出身の甥・千葉郁太郎も別の船で護送され、九州日向沖で斬殺、近くの金
ヶ浜に漂着したと言われています。

同じく、三方村知見出身の河内介の隠れ後継者とも言われる谷垣平一郎は、難を逃れて但馬
に帰り、その後は中山忠能家との政治的つながりを持って、河内介の志をつないでいきまし
た。
 
明治の20年代になって、小豆島の河内介の所在が分かり、後に維新の烈士として親子は正四
位、正五位と最高の贈位を受けて、靖国神社に合祀されています。

     ながらへて かわらぬ月を 見るよりも
            死してはらわん世々のうき雲 辞世の句

(出石明治館や、その他資料を参考に)


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