仙石騒動

2019年06月30日 | 但馬の人物
            夏越の大祓い・茅の輪くぐり
              

(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成26年 第9回但馬検定(2級)問題より

【17】江戸後期に経済政策を巡って反対派と対立し、「仙
石騒動」を引き起こした出石藩の筆頭家老は、次のうち誰
でしょうか。

(a)仙石政明        (b)仙石左京
(c)仙石久行        (d)仙谷久利


正解は、(b)の仙石左京(せんごくさきょう)です。
出石藩の「仙石騒動」は、江戸期の三大お家騒動と言われ
る有名なものです。過去の記事から「仙石騒動」のあらま
しを見てみましょう。

三大お家騒動

江戸時代に起きた出石藩の仙石騒動は、騒動の続いた期間
の長さ、関わった関係者の多さでは群を抜くものでした。
福岡藩の黒田騒動や仙台藩の伊達騒動、加賀藩の加賀騒動
と共に江戸三大お家騒動として有名ですが 、仙石騒動は
明治 の世になる直前まで続いた、超スパンの騒動だった
のです。
      
左京出頭 

今から183年前の天保六年八月のことです。
江戸老中から「左京他十二名、直ぐに出頭せよ」と出石に
早飛 脚です。
「左京はたとい病気でも、途中で死んでもかまわぬ。直ち
に出頭せよ」の知らせに左京らは驚天動地の思いで江戸に
向かい ます。
九月、脇坂安董(やすただ)率いる奉行所役人らの、すさ
まじいばかりの取り調べが続きました。江戸老中としては
なんとしてでも左京に「恐れ入りました」と罪を認めさせ
る必要があったのです。
これが、百年以上続く出石藩歴代家老間のごたごたを仕切
るクライマックスなのです。 

左京獄門・三万石へ減知

十二月、水野忠邦老中が幕府による処罰の言い渡しです。
「出石藩大老・仙石左京を獄門に処す」、続いて死罪、遠
島追放などの処罰が十四名に言い渡されます。言い渡しと
同じ日に、鈴が森において刑が執行されました。
一国の大老だった仙石左京、獄門となった身は悲しいです。
首は獄門台に置かれて衆目にさらされ、かたわらの「捨て札」
には、お家乗っ取り横暴政治のあることないことが、延々と
罪状として書き記されています。

さらに、出石藩・仙石久利には五万八千石から三万石へ知行
が減らされます。仙石騒動に対する江戸幕府の裁定です。

仙石家の面々

一介の武士から成り上がった仙石権兵衛秀久(ひでひさ)を
祖とする仙石家は、四代政明の時代に信州上田から出石に入
っています。
この仙石秀久は、ジェットコースター大名と言われるくらい
の破天荒な武将でした。その子孫である仙石家は、藩主の主
家も、分家の家老達もなかなかの曲者揃いだったのです。

出石藩の中でのごたごたが、幕府中枢、時の将軍家斉(いえ
なり)をも怒らすことになります(家斉の娘は出石藩先々代
藩主奥方の実家、姫路藩に嫁いでいる。奥方からごたごたが
家斉の耳に)。
江戸老中の面々の利害も絡み合う、難しい土つぼに左京は落
ちたのです。

第二次騒動 

左京断罪で三万石になった出石藩は、財政再建のため再び左
京路線復活の人事を進めます。またもや幕府からのキツイお
とがめの嵐です。 第二次仙石騒動は、明治維新直前まで30年
近く続きました。
とにかく、出石藩のごたごたはだらだらと長く、多くの者を
巻き込み、全国的に見ても凄いものでした。


『ずくたんぼ』

今でも言います。但馬の人は、雨に濡れることを「ずくたんぼ」
になると言います。
「ずくたんぼ」は但馬弁です。「ずくたんぼ」は、雨に濡れて
ビショビショになることなのです。

「ケンちゃん、今日は学校からの帰り道、急な夕立雨で濡れち
ゃったね。傘を持ってなかったもんで、ずくたんぼになってし
まったね。さ~さ、服脱いで着替えようね」と、迎えに行った
じいちゃんが優しく話します。

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