暑い暑い一日です。
ひめちゃんは、最近は午後6時過ぎに夕方散歩に出ます。
南の方にずーっと下って、中学校の信号の西を一回り、時にはもう少し下って町組集会所を廻って帰ります。
夏の日のみんなの写真はあるかな?
探していたら、恋する乙女のひめちゃんが出てきました
2019年8月、ケンくんちによって、ちょっとご挨拶して、照れながら満足して帰るひめちゃんです
ケンくんの事、本当に大好きだったんだね
由良成繁事書案
(端裏書カ)
善・山上之事書 中山被成之
善・山上之事
根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、
永禄十年丁卯
(『群馬県史資料編7』より)
然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、
「然処(しかるところ)」、ここは逆接でしょうね
「そうしていたところが、そうしていたのに」
「去秋」は去年の秋、つまり永禄9年の秋
「輝虎へ申合」、輝虎は上杉謙信、善・山上氏は謙信と申し合わせて、謙信の指示に従ったのでしょう
「拙者」は私・由良成繁ですね
「深致不儀候(ふかくふぎをいたしそうろう)」、由良氏の配下の新田衆の一員として関東幕注文に名を連ねたのに由良氏を攻撃したのです
このころ由良さんは北条に内通していて、やがて北条方になるのです。
内通がばれていたのでしょうか
越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、
(善・山上さんは)越国の敗北の結果、昨年の冬(謙信が)佐野に向かって陣を張る時分に(北条)氏邦の陣に駈け入って
このころ(永禄9年から永禄10年にかけて)の状況がわかりにくいです
佐野市郷土博物館の図録、『上杉謙信がやってきた』(2015)から引用して、状況を把握します
永禄九年三月二十三日、上杉輝虎は千葉胤富の家臣原胤貞の下総臼井城(千葉県佐倉市)を攻撃するものの、北条家からの援軍が来ると敗北し、上杉軍は数千の死傷者を出した。~中略~八月二十四日、関東に出陣するため、府内を出発し、閏八月の中ごろ、六日町(新潟県南魚沼市)につき、越山ののち由良氏の金山城を攻めている。いったん帰国した輝虎は、十月一日、この年3度目の関東出兵を行っている。十一月八日、大胡(群馬県前橋市)に着陣し、九日には、北条家と戦い、高山(群馬県藤岡市)から深谷付近にかけて放火し、五十人を捕らえ本陣に帰っている。十九日には佐野へ軍を移動させ、金山城を攻める準備をしている。十二月、厩橋城の北条(きたじょう)高広が輝虎から離反する。~中略~永禄十年(1567),正月を佐野の陣で迎える。
「越国之敗北」とは、越後勢が下総臼井城で大敗した事でしょうか?
それにしても千葉県佐倉市にまで攻め寄せていたとは
藤岡から深谷にかけての放火もひどいですね
冬に焼け出された人々はどうしたのでしょう
前掲書でこのころ、北関東の国衆のうち上杉氏を支持する者は、佐野と桐生の両佐野氏と羽生城の木戸氏のみになってしまった。
羽生城の木戸氏はなぜ、上杉氏を支持し続けたのでしょう
7年後、彼らは善・山上の地に、羽生城を退去してやってくるのです
北条氏邦のところに駆け込んだ、善さん山上さんはどうなったのでしょうか
依奉頼、
(たのみたてまつるにより)
永禄9年秋、善さん山上さんは上杉謙信に従い、由良さんを攻撃したのでした。
謙信が、この年3月下総臼井城を落とせずに敗走すると、東関東の諸将は北条方へと離反しました
閏8月に再び越山するも、この流れに歯止めをかけることはできず、さらに皆川・由良・成田氏の北条方への離反を許す結果となりました
10月に越山したとき、藤岡から深谷に駈けて放火・略奪を働き、利根川を渡り新田に来て、11月19日に佐野に着陣します
この時、善さん・山上さんは、謙信から離れて、北条氏邦の陣に駆け込んだのです
善さん・山上さんも一緒に藤岡から深谷に放火し略奪していたことになりなす、そんな
まして、藤岡は関東管領の城があった所です
従氏邦頻而御意見候間、
(うじくによりしきりにごいけんそうろうあいだ)
氏邦によって事情聴取がしつこくなされるので
如何共不致得、
(いかんともえいたさず)
どうにも納得がいかないけれども
致参会候、
(さんかいいたしそうろう)
事情聴取に同席したのです
それは納得できないことです。
だって、去年攻撃されたばかりですから
此才之條々
(このさいのじょうじょう)
これらの年のできごとは
自氏邦可被御申立候、
「自氏邦」(うじくにより)「御申立」(おんもうしたつ)
「被」は古文の助動詞「る、らる」に相当し下二段方に活用、直後に必ず活用語がきます。活用語が四段またはラ変の時は「る」、その他の時は「らる」と訓読します。直後の活用語は「(御)申立」は、「もうしたてーず」で下二段活用です。「る、らる」は未然形接続、つまり上は未然形になります。
したがって、「被御申立」は「おんもうしたてらる」
「可」は古文の助動詞「べし」に相当します。直後に活用語がきます。活用語がラ変の時は連体形、その他の時は終止形に接続します。直後の活用語は「被(らる)」で下二段型なので、「らるべし」
「可被御申立」は「おんもうしたてらるべし」
「候」は、活用語の連用栄に接続する補助動詞です。
「可被御申立候」は「おんもうしたてらるべくそうろう」
簡単に言えば、(これらの出来事を記すのは)氏邦の命令によるということでしょう
永禄十年丁卯
永禄十年は1567年で、干支は「ひのとう」です。
ところで、善さん・山上さんが駆け込んだ氏邦の陣は、どこだったのでしょう?
氏邦と言えばその居城は鉢形城です
由良成繁の曾祖父、信濃守・成繁の生年は未詳、没年は文亀元年(1501)8月8日というのが通説のようです。
そして祖父は、左衛門の佐・景繁、父は、信濃守・泰繁です。
横瀬泰繁は、上江田(旧新田郡知った町上江田)の竜得寺の開基だそうです。
竜得寺には、泰繁の肖像画もあるようです。
実は、ここは親の実家の菩提寺でもあります
ご先祖は、殿様についてやってきた医者だそうです。
男子のみ相伝の秘薬があって、遠くからも買いに来たとか。
案内してお駄賃もらったという、超高齢の親戚もいます。
漏れ聞こえた所によると、カイコの糞と何かを混ぜたとかなんとか
利根川の向こうの、横瀬辺りから来たのかな?
(つづく)
初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考
改稿 2024.06.25
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