降り続いたも、夕方には止みました。
ひめちゃんは張り切って堀之内を南に出て、中学校の信号の辺りまでいつものコースをお散歩です。
誰にも会わないかな
帰り道、庚申塚古墳の辺りから、見たことあるおじさんと小さな影がやってきます
黒柴のデイナちゃんが、おじさんとやってきたのです。
お互いに、「アタチの方が強いのよ」と吠え合いながら、バイバイです
今日は虹が出なくて、残念だったね
2020年10月の黒柴家族の写真をを探します。
この日、ひめちゃんと獅子丸は、高縄の集会所を廻ってきたのです。
花いっぱい運動の人たちが、集会所に花を植えたり、岩神沼の沼下にひまわり畑を作っていました
最近は、ちょっと寂しくなってます。
タバサねーちゃんは、小次郎パパとお散歩でした。
パパは14歳、まだしっかり尻尾が上がってます
膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 2(間の原にて両勢互いに入り乱れ)
此の事四方に隠れなし。
桐生も驚き忽ちに勢を催し、要害をかこみて待つべしとて、里見上総介を大将にて、大谷勘ケ由、二渡り右京、小川出雲、其の子随見、桐生六之介、八木伝七郎、長岡道催、根津采女、坂上兼松、奥布木宮内、小曽根安芸、おなじく筑後、塩野谷周左衛門、村岡お婚、飯篠長閑、小林平八郎、松井金五郎、栗原又三郎、柳田縫殿、細淵金弥、宮寺左近、畑山庄兵衛、中嶋主膳、其の子喜八、小宮山一学、桑原内記、舎弟源左衛門、同源次郎、稲鍋彦兵衛、岩崎大六、今泉弥七郎、村上市九郎、飯篠采女、安沢播磨、同五平衛、新藤弥兵衛、宗徒人々三十六騎、上下三百人にて、鶴谷、関口を先陣にて七十騎ばかり、川を押し渡り、其の日巳の刻より間の原にて両勢互いに入り乱れ、
あらすじです。
膳因幡守が出撃したということは、知れ渡った。
桐生方も驚いて直ちに軍勢を整え、要害を囲んで待つべきだと、里見上総介を大将として、大谷勘ケ由、二渡右京、小川出雲、其の子随見、桐生六之介、八木伝七郎、長岡道催、根津采女、坂上兼松、奥布木宮内、小曽根安芸、おなじく筑後、塩野谷周左衛門、村岡お婚、飯篠長閑、小林平八郎、松井金五郎、栗原又三郎、柳田縫殿、細淵金弥、宮寺左近、畑山庄兵衛、中嶋主膳、其の子喜八、小宮山一学、桑原内記、舎弟源左衛門、同源次郎、稲鍋彦兵衛、岩崎大六、今泉弥七郎、村上市九郎、飯篠采女、安沢播磨、同五平衛、新藤弥兵衛、など主だった人々三十六騎を筆頭に上下併せて三百人体制で迎えた。
膳方は鶴谷、関口を先として七十騎ばかり、川を押し渡って、その日の御前10時前後から、間の原(あいのはら)で両軍入り乱れて戦い
膳方を迎え撃った総大将が、里見兄弟の父・里見上総介だったのです
たくさんの人名が出てきます
実は桐生氏の当主の実名が分かるのは、1名だけだったといいます。
それなのに、こんなにたくさんの人名、ちょっと抵抗感があります
さて、合戦の場所・間の原(あいのはら)は、どこでしょう
『桐生の地名考』によれば、間の原は「下新田村との境にある原野で且つ両村(如来堂村と下新田村)を結ぶ道の通っている区域。119番地から126番地の区域」とあります。
現在は桐生市相生町1丁目ということで検索すると、渡良瀬川に懸かる桐生大橋の南側・マーケットシテイのあたりです
いつもたくさんの人が集まっています
膳方は、渡良瀬川をまだ渡っていません。
県道3号線の付近を東に進んで、渡良瀬川を渡るところで、待ち受けていた桐生方と戦ったと言うことになりそうです
膳から桐生・柄杓山までのコースはいくつかありますけど、一番南のコースをとってます。
そしてこのコースは、現在でもよく利用されていると思います。
かく言うひめちゃんちのおかあさんも、東の桐生市内に行くときはこのコースです
県道3号線、もっと気にしなくてはいけませんね
初稿 2019.10.01 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.10.09
(つづく)
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