黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

善・山上之事の謎(改訂版)

2024-07-03 20:09:43 | 山上保の物語・総集編

暑い一日でした

夕方のお散歩は、6時過ぎにやっと始めました

 

善さんが討ち死にしたという暗闇沢、その供養塔という五輪等群の写真を探していて見つけた、元気なひめちゃん家族です

お昼に、サツマイモ入りご飯を食べる獅子くんです

獅子くん、サツマイモも大好きだったね

 

 

 

由良文書「善・山上之事」をじっくり読んでみて、いくつかの謎を感じます
まず前半、由良成繁の曾祖父・横瀬成繁の時代の話です


根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、

管領馬廻衆とありますが、馬廻衆とは親衛隊のようなものだから、いつも管領様の近くにいなければなりませんね。

名目だけかな?

ほかにも馬廻衆がいそうだけど

なぜいつも善・山上とセットなのでしょう
普通に考えれば、兄弟のように近い親戚かな


南北朝期に、葛塚を領していた太田さんは、鎌倉幕府の実務官僚・三善氏の一族でした
三善が善になったのだとよく言われますが、太田さんが善に住んで善さんになったのでしょう

勢多郡粕川村の『粕川村誌』にも、善さんの記録はほとんどありません


太田さんがやって来た時、「おらっちは古りーウチなんだから」と言うことを聞かない一族(遺乱の輩)がいました
太田さんは、この違乱の輩を吸収合併してしまったのだと思われます
よくある手で、嫁や婿・養子を送り込むのです
古い山上の名字は残しておく方が都合が良かったのです

佐野大炊助先祖周防守と永禄10年(1567)にこの文書で言ってますから、(桐生)佐野氏の永禄10年の当主は佐野大炊助です。

この佐野大炊助の先祖周防守に、善さん山上さんは、元々居た山上の地を逐われたのです。
善さん山上さんは、五十子(いかっこ)にに3年間滞在し、由良さんがさらに奥沢と名付けられた地で戦い勝利してから、3年間番兵をおいて守らせ安心して名字の地に帰ることが出来ました。
えェ、合計6年じゃん
6年経って帰ってきた善さん山上さんを、人々は歓迎したでしょうか
五十子の陣は長禄3年(1451)に築かれ、文明9年(1479)に長尾景春の乱で攻撃されて焼亡します。
善さん山上さんは、長禄3年(1451)から文明9年(1479)の間のある時期に6年、五十子にいた事になります。
五十子の陣約20年の歴史の3分の1、いたのです


横瀬成繁は葛塚を取り返し、さらに奥沢と名付けられた土地で佐野周防守を破って3年間番兵を置いて守らせてから、善さん・山上さんを名字の地に還したという事ですが、ここで問題があります。

このころ彼は、まだ岩松氏の被官にすぎなかったはずだし?

ひ孫の由良成繁には少し昔の話です
勘違いとか、記憶が違いがなきにしもあらずです
また、意図的な創作も完全否定は出来ないでしょう
ここまでは、ちょっと検討の余地有りの記述です

先に見た赤堀文書「赤堀上野介宛上杉顕定書状」は、長享2年(1488)ですから、善さん山上さんは善・山上に帰っているはずです。
でも、佐野周防守を撃退した主力ではありませんでした
赤堀さんの応援がなければ、また逐われたかもしれなかったのです


それにしても佐野周防守、よく葛塚にやって来ますよね
佐野周防守が善さん山上さんを追い出した時は、奥沢にはいかなかったのでしょうか?
横瀬成繁は葛塚を取り返して、さらに奥沢と号する地(奥沢と名付けられた地)で戦い勝利を得るのです。


奥沢ではなく、奥沢と号する地(奥沢と名付けられた地)という表現がとても気になります
奥沢は早川の水源です
水がわき出る環境が注目され、命名されたかもしれません
戦いの場所ははどこか分かりませんが、寺や石造物のある所は可能性がありそうです

 

後半です。


以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯  


この部分の出来事は、ほぼその通りだと思います。
永禄10年(1567)、佐野に行く上杉謙信を裏切って善さん・山上さんは北条氏邦の所に駆け込みました
北条方になったはずです
ところが、元亀3年(1572)、下野小俣城(おまたじょう)の戦いで善城主善宗次は暗闇沢(くらみざわ)で討死します

 

暗闇沢は「くらみざわ」と読むんだそうです。

 

現地のおばさんに教わりました。
暗闇沢の西、桐生川の東にも桐生市があるのです

(かつては下野国だったようですけど



北条方の渋川義勝が小田原にいっている留守を狙っての攻撃でした。
善宗次の案内で暗闇沢から攻めのぼった上杉軍は、折からの暴風の中、城から落とした大岩や丸太の下敷きになって甚大な被害を受けました
この戦で、善宗次とその家中は討ち死にしたといいます


その供養塔という五輪等群が、暗闇沢の東南にある米沢薬師(足利市小俣町)にあります


住宅街の路地を入ったところにあり、ちょっと見つけにくいです。


道を教えてくれた地元のおじさんの話によると、かつては縁日には賑わったそうです
坊さんは、鶏足寺から来ていたそうです


このお堂の右手にある五輪塔群がそうです。




善さん山上さんは、永禄10年(1567)に、北条氏邦のところに駆け込んで北条方になったはずでした。
いつ心変わりしたのでしょう?
もちろんいつもセットの山上さんも一緒に心変わりしたはずです。
ところが、この時、山上さんについては何も語られません
山上さんはどうしたのでしょう?
今までの経緯から考えれば、当然運命を共にしているはずです。

老談記の類では、山上道及や山上氏秀などの活躍が語られます。

でも、これまでの経緯からすれば、善・山上は常にセットです

単独行動はあり得ないのです

 

上野国・山上(こうずけのくにやまがみ)が、人々にロマンを抱かせる地で、江戸時代になって、善さんが忘れられて、山上氏が物語の中でひとり活躍するようになったのでしょう。

今でも、全国から山上さんが父祖の地として訪ねてくるそうです

 

善氏・山上氏はセットのです

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 由良成繁事書案(善・山上之... | トップ | 桐生老談記の世界 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

山上保の物語・総集編」カテゴリの最新記事