いろいろな外国語を勉強してきて、インドネシア語について僕がいま感じていること。
例のItalkiの先生のインドネシア語での質問が聞き取りにくい。
その聞き取りにくいと感じている最中に僕が思うのは『もし先生が話していることを書いてくれれば、90%はすぐに分かる』ということです。聞き慣れた単語のオンパレードなのです。意味が分からないはずがない。先生は僕のインドネシア語のレベルを知っていて、レベルに合わせた質問や話をしているから先生は『この学生ならば、この程度のインドネシア語は理解できるはず』と思って質問している。
先生、買いかぶり過ぎです。
理解できていません。『読んで意味が分かるということと、聞いて意味が分かるということ』には差がある。先生はそれにすぐに気づいて、文字で打ってくれる。
ここで、妙なことに気づいた。
各言語によって僕には『得手不得手』がある。
例えば韓国語は音に慣れていて、聞いて話せるけれど、文字を見てすぐには意味が分からない。書かれたハングルを内読して音でとらえなければ意味を取ることができない。中国語は文字に慣れていて、音に慣れていない。だから中国語の小説は読むことができるが、聞き取るのは今でも難しい。英語は大学までの課程だけであれば、文字を読むのが得意で、聞き取るのは難しかったと思う。今は英語の大雑把な意味を捉えるのは聞く方が得意だ。読むのは時間がかかる。
こう考えてくると韓国語だけが『僕にとっては』特異な存在であることが分かる。
韓国語だけが文字を見てもすぐには意味が分からない。内読して音としたのち意味が分かる。それ以外の英中尼語は文字を見た瞬間に『発音』より先に意味が分かる。
韓国語、英語、インドネシア語は初級者の発音でもよく通じる。韓国語はビックリするほど通じる。インドネシア語もこの部類に属すると思う。日本人が話すときっと喜んでくれると思う。英語もよく通じると思うが、全然喜んでくれない。英語の訛りがきついと『聞きたくもないわ』的な態度を示す人が多い。
この点で中国語は特異である。『你好,我是日本人。再见。』などの決まった状況の決まった表現は理解してくれるが、それ以外の一般的な話をすればニコニコと聞いていも『听不懂』であることが多い。中国語の発音は難しい。ベトナム人やタイ人は声調言語を話すから『声調』の重要性が分かっており、彼らは初級のときから『通じる中国語』を話せると思う。
とりとめのない話をダラダラとしてきましたが、インドネシア語は勉強すればそのリワードが大きい。韓国語と同じように話しやすいし、話せばその国の人が喜んでくれる。英語と同じように読みやすい。韓国語とは違って文字を見ればすぐに意味が分かる。
こういうことを感じながら毎日勉強しています。
Sampai jumpa.
Andra And The Backbone – Sempurna (Lyrics)