アジア夢紀行

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中国語読解練習 4

2012-07-07 17:36:32 | 中国語読解練習

(原作品1号)

  那是力争上游的一种树,笔直的干,笔直的枝。它的干呢,通常是丈把高,像是加以人工似的,一丈以内,绝无旁枝;它所有的桠枝呢,一律向上,而且紧紧靠拢,也像是加以人工似的,成为一束,绝无横斜逸出;它的宽大的叶子也是片片向上,几乎没有斜生的,更不用说倒垂了;它的皮,光滑而有银色的晕圈,微微泛出淡青色。这是虽在北方的风雪的压迫下却保持着倔强挺立的一种树!哪怕只有碗来粗细罢,它却努力向上发展,高到丈许,两丈,参天耸立,不折不挠,对抗着西北风。

  这就是白杨树,西北极普通的一种树,然而决不是平凡的树!

  它没有婆娑的姿态,没有屈曲盘旋的虬枝,也许你要说它不美丽,──如果美是专指“婆娑”或“横斜逸出”之类而言,那么白杨树算不得树中的好女子;但是它却是伟岸,正直,朴质,严肃,也不缺乏温和,更不用提它的坚强不屈与挺拔,它是树中的伟丈夫!当你在积雪初融的高原上走过,看见平坦的大地上傲然挺立这么一株或一排白杨树,难道你就只觉得树只是树,难道你就不想到它的朴质,严肃,坚强不屈,至少也象征了北方的农民;难道你竟一点儿也不联想到,在敌后的广大土//地上,到处有坚强不屈,就像这白杨树一样傲然挺立的守卫他们家乡的哨兵!难道你又不更远一点想到这样枝枝叶叶靠紧团结,力求上进的白杨树,宛然象征了今天在华北平原纵横决荡用血写出新中国历史的那种精神和意志。

——节选自茅盾《白杨礼赞》

http://yw.jiashanedu.net/show.asp?id=141

難しくて何を書いているか分からない。なぜ分からないのかを明らかにしたい。どこが、どうして分からないのかを明らかにしていく過程で、僕の中国語読解力の弱点を明らかにし、また著者の持つ世界観が、現代世界の中で特異なものであることが、この文章を分かりにくくしているといったところをほじくり出していきたい。この文章が表現しようとしていることが、難しいから難しい表現になっているのではなく、著者の持つ考え方が、グローバルスタンダードじゃないからだという非常に傲慢なスタンスで、自分の能力不足を糊塗したい。

のっけから分からん。『那』で文章を始めるんじゃない。『我』とか『最近』とか『我爸爸』とか『中国』とかの分かりやすい単語で始めるべきだ。『那』といわれてすぐに分かるのは、著者だけだ。一般の読者はこの指示代詞は何を意味しているんだろうと考える。それが作者の狙いであればそれはそれで成功しているが。一行目に目を通してみる。『樹』について形容しているのが分かる。一体それがどうしたというんだ。(もうすでにケンカ腰です。) 

コチトラ樹になんか興味ねーよ。延々と樹について喋ってるみたいだが、一体何なんだよ。題名を見てみる『白杨礼赞』ときやがった。『白柳を称える文章なのか?』とあたりをつける。『○○礼賛』で日本人なら思い出すのが、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』だ。これもまー、日本語を勉強する外国人にとっては、『一体何なんなんだよ!』ってなもんだ。延々と陰影にまつわる含蓄と美意識が語られていて(そうだったっけ?)そこに投影される谷崎の感性が浮かび上がるはずだから、日文専攻の外人さんには面白くっても、ビジネスユースとかギャルを引っ掛けようってな輩には意味ねーよ。僕みたいにバックパックに行ったときに片言でネゴしたり、またある人がメインのビジネス交渉は英語でやって、サブで自己紹介、家族や趣味やおいしいものの話題について中国語でできたらいいなってな程度のレベルであれば、原作品6,7,8番が大体分かればいいんじゃないかな。もちろん将来中国文学とか文献調査とかビジネス交渉を中国語でやる人はこの文章もすぐに読解できなきゃ飯は食えないと思う。 

話しが横道にそれたけど、元に戻って、

著者は最初は白柳のことについて述べているだろうけれど、次第にそれを中国人民の優しさ、強さ、健気さ、団結力などに結び付けて、暗喩から比喩へ、比喩から直言へ(馬脚を現すともいう)という論理展開ではないかしらん。しかし回りくどいヤツだな。女の子を口説くときもビッグバンの話しから始める手合いだろう。うーん、なんか訳せるかも知れん。でも今日はこれから食事会だから、続きは日を改めて。ではでは。

(追記)

この文章の訳出を中止する。学習禁止コードに抵触する。70%以上理解できるものしか学習してはいけないから。時間を浪費するばかりで、効率が悪い。 

大げさなたとえでいえば、日本語を学習しだして、2年目のアメリカ人(会社員で日本語学習に割ける時間は1日1時間)が、幕末の佐久間象山が一橋慶喜に出した建白書『公武合体論と開国論』を読もうとするのに似ている。象山が巧みなたとえ話で、論理を展開し、一橋公の言質を得ようとする建白書を読み解くのはそのアメリカ人が、幕末史の研究者を目指しているのでない限り無意味に思える。政治的な背景のある、漢籍及び洋学の素養に裏打ちされた希代の論客のストーリー展開は、同じような知識を持ち、同じような歴史観を持つ人にしか分かり辛いかもしれない。

この『原作品1号』は内容は不明であるが、政治的な背景があり、成語で凝縮され、筆者が特異な文体(例えば日本人の場合でいえば、中島敦の『山月記』『李陵』など。)に憧れてそれを真似て書いたものであるならば、現代中国の『キムタク大好き』な女子大生でさえも朗読することは出来ても、解説することは出来ないと思う。『Samさん、そんなに難しくはないでしょう。』 

いつかある日、70%理解できるようになっていれば、そのとき読めばいい。

 

 

春月先生のコメント:引用
01番の挑戦者がついに「明鏡止水」の境地に到達してしまったので、もう少しヒントを。・・まだテスト前なので(笑)。

《白杨礼赞》茅盾の前半は「白杨(ポプラ)」の描写です。冒頭が「那」で始まりますが、次の段落に「这就是白杨树」ときますので、そこまでが樹としての「白杨」の特徴です。それは「西北极普通的一种树」なんですね。でも「决不是平凡的树!」です。なぜ「普通(どこにでもある)」けれど「決して平凡な樹ではない」のかが、後半になります。

前半は「;」がたくさん使われています。これは長めのものを並列する記号(短い単語は「、」で並列する)。区切ってみます。

那是力争上游的一种树,笔直的干,笔直的枝。
①它的干呢,通常是丈把高,像是加以人工似的,一丈以内,绝无旁枝;
②它所有的桠枝呢,一律向上,而且紧紧靠拢,也像是加以人工似的,成为一束,绝无横斜逸出;
③它的宽大的叶子也是片片向上,几乎没有斜生的,更不用说倒垂了;
④它的皮,光滑而有银色的晕圈,微微泛出淡青色。

①幹 → ②枝 → ③葉、どれもまっすぐ上に伸び、④樹皮には目玉がある。写真でも見れば、納得するはず。こういう生え方をする樹です。

这是虽在北方的风雪的压迫下却保持着倔强挺立的一种树!哪怕只有碗来粗细罢,它却努力向上发展,高到丈许,两丈,参天耸立,不折不挠,对抗着西北风。

北方の風雪にも負けずに立っているし、たとえ細い樹であっても上に伸びようとする。高さは最初は1丈ほど、そして2丈、さらに天を突くように。折れることなく、西北の風に抗いながら立っている。それが「白杨」です。

後半も、最初はその姿について述べています。

它没有婆娑的姿态,没有屈曲盘旋的虬枝,也许你要说它不美丽,──如果美是专指“婆娑”或“横斜逸出”之类而言,那么白杨树算不得树中的好女子;
但是它却是伟岸,正直,朴质,严肃,也不缺乏温和,更不用提它的坚强不屈与挺拔,它是树中的伟丈夫!

美しくはない。もし美しさが(梅の枝のように)曲線的な踊るような枝ぶりであると言うなら、「白杨」はそういう女性的な美しさの樹ではない。でも質素で厳粛で、温かみもある、不屈であることは言うまでもない「伟丈夫」なんですね。

積雪が解けようとする高原を通って、この平坦な大地に傲然とそそり立つ一本のあるいは一列の「白杨」を見たとき、誰だって次のように思うに違いない。ここで「难道」が連用されます。

当你在积雪初融的高原上走过,看见平坦的大地上傲然挺立这么一株或一排白杨树,
①难道你就只觉得树只是树,
②难道你就不想到它的朴质,严肃,坚强不屈,至少也象征了北方的农民;
③难道你竟一点儿也不联想到,在敌后的广大土地上,到处有坚强不屈,就像这白杨树一样傲然挺立的守卫他们家乡的哨兵!
④难道你又不更远一点想到这样枝枝叶叶靠紧团结,力求上进的白杨树,宛然象征了今天在华北平原纵横决荡用血写出新中国历史的那种精神和意志。

①ただの樹ではない → ②北方の農民のようだ → ③故郷を護衛する哨兵のようだ → ④華北平原のあちこちで血で新中国の歴史を作り上げる精神と意志のようだ。

解放軍の兵士で前線に立つような人は、農民の出身者が多いのです。空軍のパイロットなどはまた違うでしょうけど、哨兵として大地に直立する若い兵士は、農民の子が多いのです。日本のように山や海がそばにあって、森林の豊かな地域に住んでいると、広々とした大地、あまり雨も降らずに冬は北西の乾いた冷たい風に吹きさらしになる、そういう大地にひたすら上をめざして立つ(ほかに目立つほど木はない)「白杨」の姿は、想像しづらいかも知れません。
http://www.hayaoki-seikatsu.com/users/jiangnan/daily/20120709


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中国語読解練習 3

2012-07-07 16:54:12 | 中国語読解練習

ちょっと難しいけれど訳してみます。間違えてるかもしれない。出だしが老舎の『養花』(1956年10月21日)に似ているんだけど、巴金の『繁星』(1921年1月)の方が古いみたいだ。

(原作品8号)

  我爱月夜,但我也爱星天。从前在家乡七八月的夜晚在庭院里纳凉的时候,我最爱看天上密密麻麻的繁星。望着星天,我就会忘记一切,仿佛回到了母亲的怀里似的。

  三年前在南京我住的地方有一道后门,每晚我打开后门,便看见一个静寂的夜。下面是一片菜园,上面是星群密布的蓝天。星光在我们的肉眼里虽然微小,然而它使我们觉得光明无处不在。那时候我正在读一些天文学的书,也认得一些星星,好像它们就是我的朋友,它们常常在和我谈话一样。

  如今在海上,每晚和繁星相对,我把它们认得很熟了。我躺在舱面上,仰望天空。深蓝色的天空里悬着无数半明半昧的星。船在动,星也在动,它们是这样低,真是摇摇欲坠呢!渐渐地我的眼睛模糊了,我好像看见无数萤火虫在我的周围飞舞。海上的夜是柔和的,是静寂的,是梦幻的。我望着许多认识的星,我仿佛看见它们在对我眨眼,我仿佛听见它们在小声说话。这时我忘记了一切。在星的怀抱中我微笑着,我沉睡着。我觉得自己是一个小孩子,现在睡在母亲的怀里了。

  有一夜,那个在哥伦波上船的英国人指给我看天上的巨人。他用手指着: // 那四颗明亮的星是头,下面的几颗是身子,这几颗是手,那几颗是腿和脚,还有三颗星算是腰带。经他这一番指点,我果然看清楚了那个天上的巨人。看,那个巨人还在跑呢!        

——节选自巴金《繁星》

http://yw.jiashanedu.net/show.asp?id=148

(原作品8番) 

私は月夜が好きだ、だけど星空も好きだ。昔故郷にいて、7,8月の夜、庭で涼んでいたとき、満天の星空を見るのがとりわけ好きだった。星空を眺めていると、一切のことを忘れることができ、まるで母親の懐に抱かれたような気持ちになった。

三年前、南京の私が住んでいたところに裏門があり、毎晩私は裏門を開けて静かな夜空を見ていた。そこには小さい菜園があり、その上は空一杯に星々がきらめいていた。私たちの肉眼に届く星の光は微弱ではあるが、光のないところはないと感じていた。その当時私は天文学の本を読んでいて、少しではあるが星の名前を知っており、彼らはまるで友達のようにいつも話しかけてくるみたいだった。

今は海の上にいて、毎晩星たちと相対し、彼らをよく知るようになった。甲板の上に身を横たえ、夜空を仰ぎ見る。深い藍色の空に散りばめられた無数のか細い光の星たち。船が進めば星も動く、彼らはこんなに低いところで、ほんとに揺れて落ちてしまいそうだ!だんだんと眼がぼんやりしてきた、まるで私の周りを蛍が飛び回っているようだ。海上の夜も穏やかで、静かで、幻想的だ。たくさんの顔見知りになった星たちを眺めていると、私に彼らがまるで瞬きしているように見えるし、彼らがまるでささやいているように見える。こんなとき私は一切のことを忘れる。星たちの懐に抱かれて微笑みながら、ぐっすりと寝てしまう。まるで小さな子供が、母親の懐に抱かれて眠るように。

ある夜のこと、コロンボから乗船して来た英国人が天空の巨人を指差し、教えてくれた。彼は指差しながら://あの4個の明るい星は頭、下の星たちが体、この星たちが手、あの星たちが足、そして三個の星がベルト。彼が教えてくれたので、やっと天空の巨人についてハッキリと分かった。ほら、あの巨人はまだ走っているよ!

巴金『繁星』

 

春月先生のコメント:引用
08番(巴金『繁星』)が出ましたね。文章から少し寂しい感じを私は受けるのですが、背景を調べてみると、作者が封建的な?家庭を飛び出して、上海や南京で暮らし、さらにフランスへ留学した若い頃、留学時代に書いた文章のようです。

①星光在我们的肉眼里虽然微小,然而它使我们觉得光明无处不在。
星の光は、私たちの肉眼では微弱に見えるが、しかし私たちに光明は到るところにあると感じさせた。

この「光明」がキーワードなのでしょう。星空を見上げてしばしば「母のふところに抱かれているように」と感じているのは、国内にいる時は故郷を、国外では中国を思い出しているかも知れません。最初は「満天の星」であったものが、船上で一瞬ふるさとの蛍の光のように感じ、さらにイギリス人に教えられて、オリオン座の巨人に見えた。巨人オリオンは海の神ポセイドンの子、狩りの名人で「いまも彼は駈けている」は、これからの自分の姿と重ね合わせているかも知れません。

船上からみた星が低くて「真是摇摇欲坠呢!」という箇所があり、「摇摇欲坠」は典故があって「(軍隊や政権が)いまにも崩れ落ちそうなこと」ですが、私は杜甫の「星垂平野阔、月涌大江流」を思い出しました。陸では空を見上げて見ていた星が、いま船上で仰向けになっていると、すぐ横まで星が垂れているように見える、と。杜甫の詩も、船旅(河)をしている時のもの。
http://www.hayaoki-seikatsu.com/users/jiangnan/daily/20120708


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中国語読解練習 2

2012-07-07 16:39:52 | 中国語読解練習

感じるままに訳しました。間違っているかもしれません。

(原作品7号)

  一天,爸爸下班回到家已经很晚了,他很累也有点儿烦,他发现五岁的儿子靠在门旁正等着他。

  “爸,我可以问您一个问题吗?”  “什么问题?”“爸,您一小时可以赚多少钱?”“这与你无关,你为什么问这个问题?”父亲生气地说。

  “我只是想知道,你、请告诉我,您一小时赚多少钱?”小孩儿哀求道。“假如你一定要知道的话,我一小时赚二十美金。”  “哦,”小孩儿低下了头,接着又说,“爸,可以借我十美金吗?”父亲发怒了:“如果你只是要借钱分工负责去买毫无意义的玩具的话,给我回到你的房间睡觉去。好好想想为什么你会那么自私。我每天辛苦工作,没时间和你玩儿小孩子的游戏。”

  小孩儿默默地回到自己的房间关上门。  父亲坐下来还在生气。后来,他平静下来了。心想他可能对孩子太凶了――或许孩子真的很想买什么东西,再说他平时很少要过钱。

  父亲走进孩子的房间:“你睡了吗?”“爸,还没有,我还醒着。”孩子回答。

  “我刚才可能对你太凶了,”父亲说,“我不应该发那么大的火儿――这是你要的十美金。”“爸,谢谢您。”孩子高兴地从枕头下拿出一些被弄皱的钞票,慢慢地数着。

  “为什么你已经有钱了还要?”父亲不解地问。

  “因为原来不够,但现在凑够了。”孩子回答:“爸我现在有 // 二十美金了,我可以向您买一个小时的时间吗?明天请早一点儿回家――我想和您一起吃晚餐。”

——节选自唐继柳编译《二十美金的价值》

http://yw.jiashanedu.net/show.asp?id=147

 

(原作品7番)

 ある日、父親が退勤して家に帰ってきたときはすでに夜遅くになっていた。

彼は疲れていたし、ちょっとイライラしていた。彼の5歳の息子が、門に寄りそって彼を待っていた。『お父さん、ひとつ聞いていい?』『何だ?』『お父さんは一時間にいくら稼いでるの?』『うるさいな、何でそんなことを聞くんだ?』父親は怒って聞いた。『僕はそのことを知りたいだけなんだ。教えてちょうだいよ。一時間でいくら稼いでるの?』息子は聞きせがんだ。『どうしてもと言うのだったら教えてやるが、一時間で20ドルだよ。』『うん』と子供はうなずき、さらに言った『お父さん、10ドル貸してくれない?』父親は怒った:『もしお前が、くだらないオモチャを買うために何がしかの金を借りたいためにした話だったら、自分の部屋に帰って、よくもこんな我儘を言えたものか反省しろ。父さんは毎日汗水流して働き、お前とくだらないことで遊んでいる暇はないんだ。』 

息子は黙って自分の部屋に帰りドアを閉めた。父親は椅子に座ったが、まだ怒っていた。しばらくして、落ち着いてきた。心の中で言い過ぎたかなと思った――ひょっとしたら本当に何か買いたいものがあったかもしれない、と言うのはあの子はふだん御小遣いをそんなに欲しがらないから。 

父親は子供の部屋に入った:『もう寝たのかい?』『お父さん、まだだよ、まだ起きてるよ。』と息子は答えた。『さっきはちょっと言いすぎたかもしれない、』と父親は言った、『あんなに怒るべきではなかった――これがお前が欲しがっていた10ドルだよ。』『おとうさん、ありがとう。』息子はうれしそうに枕の下から、皺くちゃになった何枚かのお札を取り出し、ゆっくりと数え始めた。 

『どうしてお前はお金を持っているのにまだ必要なんだい?』父親は怪訝そうに尋ねた。息子は答えた:『お父さん、いま僕は20ドル持っている、これでお父さんの一時間を買えないかな?明日一時間早くお家に帰ってきて欲しい――僕はお父さんと一緒に晩御飯を食べたいんだよ。』

 

春月先生のコメント:引用
おっと、さらなる挑戦がっ! 07番(唐继柳编译《二十美金的价值》)で2カ所。

①如果你只是要借钱分工负责去买毫无意义的玩具的话,给我回到你的房间睡觉去。
もしお前が金を借りてくだらないオモチャを買いに行ってくれるだけなら、自分の部屋に帰って寝てくれ。

「分工负责」が分かりにくいですが、「責任を分業する」と辞書にありますので、父親の時給の半分である10ドルを借りて、その代償がおもちゃを買いに行くことであるなら、と解釈しました。「给我~」は命令文の一種です。

②或许孩子真的很想买什么东西,再说他平时很少要过钱。
ひょっとしたら本当に何か買いたいものがあったかもしれないし、それにあの子はふだん小遣いを滅多に欲しがらない。

「再说」は接続詞で、そのうえ、さらに。「要过」の「过」に注目すると、これまで小遣いをくれなどと要求したことは「ほとんどなかった」のように否定形で訳しても、ニュアンスが伝わるかなと思います。


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中国語読解練習 1

2012-07-07 11:39:28 | 中国語読解練習

思うままに訳してみましたが、間違っている箇所が多いと思う。

(原作品6号)
  我常想读书人是世间幸福人,因为他除了拥有现实的世界之外,还拥有另一个更为浩瀚也更为丰富的世界。现实的世界是人人都有的,而后一个世界却为读书人所独有。由此我想,那些失去或不能阅读的人是多么的不幸,他们的丧失是不可补偿的。世间有诸多的不平等,财富的不平等,权力的不平等,而阅读能力的拥有或丧失却体现为精神的不平等。
  一个人的一生,只能经历自己拥有的那一份欣悦,那一份苦难,也许再加上他亲自闻知的那一些关于自身以外的经历和经验。然而,人们通过阅读,却能进入不同时空的诸多他人的世界。这样,具有阅读能力的人,无形间获得了超越有限生命的无限可能性。阅读不仅使他多识了草木虫鱼之名,而且可以上溯远古下及未来,饱览存在的与非存在的奇风异俗。
  更为重要的是,读书加惠于人们的不仅是知识的广,而且还在于精神的感化与陶冶。人们从读书学做人,从那些往哲先贤以及当代才俊的著述中学得他们的人格。人们从《论语》中学得智慧的思考,从《史记》中学得严肃的历史精神,从《正气歌》中学得人格的刚烈,从马克思学得人世 // 的激情,从鲁迅学得批判精神,从托尔斯泰学得道的执着。歌的诗句刻写着睿智的人生,拜伦的诗句呼唤着奋斗的热情。一个读书人,一个有机会拥有超乎个人生命体验的幸运人。

 ——节选自谢冕《读书人是幸福人》
http://yw.jiashanedu.net/show.asp?id=146

(原作品6番)

  私がいつも思うのは、読書人は幸福な人であると。なぜなら、彼は現実世界のほかにさらに広々とした、豊かな世界を所有しているから。現実の世界はみんなが持っているが、さらにそれ以外の世界を読書人は持っている。このことから私は読書する機会を失ったり、読書することができない人はなんて不幸なんだろうと思う。彼らが失ったものは取り返すことができない。世の中にはたくさんの不平等がある。金銭的な不平等、権力的な不平等、さらには読書能力の有無によりもたらされる知的な不平等などである。

  人は一生の間に、自分自身で楽しんだり、困難に遭遇したり、あるいは他の人の経験や体験を実際に見聞きして知識を増やすことができるかもしれない。しかし人は読書を通じて時空を超えてさらに多くのことを学ぶことができる。このように読書能力を持っている人は知らず知らずのうちに、直に知ることができる狭い経験を超えて人類が得た無限の知識を得ることが出来る。読書することによって、草木虫魚の名前を知るだけではなく、はるか古にさかのぼったり未来について予測したりすることができる。そして現存する、あるいは今となってはこの世にはもはや存在しない変わった風俗習慣について心ゆくまで楽しむことができる。

  さらに重要なことは、読書は人に知識を与えるだけではなく、人を感化し、品性を陶冶することができるということです。人は読書することによって人になり、古来の先哲賢人から現代の俊才達までの著述の中に彼らの優れた人格を見出すのです。人は『論語』の中に叡智を、『史記』の中に厳粛な歴史の精神を、『正気歌』の中に剛直な気骨を、マルクスからはよりよい世界を作ろうとする情熱を、魯迅からは批判精神を、トルストイからは道徳的な潔癖さを学ぶことができる。ゲーテの詩歌からは人生の叡智を、バイロンの詩からは情熱の叫び声を聞くことができる。読書人とは人として生まれてきて最高の経験をした人なのである。 

---『読書人は幸福な人である。』

 

春月先生のコメント:引用
06番(谢冕《读书人是幸福人》より)に挑戦した人がいるので、分かりにくい箇所の解説です。

①现实的世界是人人都有的,而后一个世界却为读书人所独有。
現実の世界は誰でも持っているが、後者の世界は読書人しか持っていない。

「为~所~」は漢文っぽい言い回しですね。直訳は「読書人に独占されている」、受け身の一種です。「却」は前後が「ぎくしゃく」する時に、後文に使われる副詞です。

②世间有诸多的不平等,财富的不平等,权力的不平等,而阅读能力的拥有或丧失却体现为精神的不平等。
世の中にはたくさんの不平等がある。金銭的な不平等、権力的な不平等、そして読書能力の有無は精神の不平等を表しているのである。

ここも「却」が使われています。富や権力と違って、読書能力の有無が不平等につながるなど、ふつうは思わないだろうが、そうではないのだよ、という「ぎくしゃく」感が、「却」に込められています。

③一个读书人,一个有机会拥有超乎个人生命体验的幸运人。
読書人とは、個人の生命を越える経験をするチャンスがある幸運な人である。

「一个读书人(是)一个幸运人。」です。どんな幸運な人かというと、「有机会」な人。どんなチャンスかというと「拥有超乎个人生命体验」、本を通して個人の生命の限界を越えたさまざまな体験をしている人ですね。現実の世界のほかに「后一个世界」を持っている人たち。

④存在的与非存在的奇风异俗。
存在する、また存在しない変わった風習。

「非存在」は「架空の」という意味じゃないかな? 「奇风异俗」が辞書になかったと学生が言っていた気がするけど、こういうのを互文といって、「奇异」「风俗」を交互に組んだものです。「日進月歩」なども「日月」「進歩」の互文ですね。


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