さきち・のひとり旅

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連続性への郷愁 ~バタイユのエロティシズム 4

2015年06月23日 | らくがき

 キーツはギリシャの壺の絵に、至福の瞬間の永遠化を見つけました。でもそれは所詮「冷たい牧歌」で、キーツは生身の人間です。そして彼はファニー・ブローンというお嬢さんに熱烈に恋して、激しいラブレターを山ほど書きました。「君のことを思うと死にたい」なんてことを言っています。

 体の弱い若い詩人は、どうやら「永遠性」に強い憧れを持っていたようですね。たしかに若い人の聞く曲には、「永遠に」「変わらない」「いつまでも」「ずっとこのままで」なんて歌詞がやたらに出てきますよね。「星降る夜に」「翼を広げ」ながら(^益^;

                     

  フランスの思想家・小説家であるジョルジュ・バタイユは、「根本的にわれわれ人間は、理解できない運命の中で死にゆく非連続の存在であり、常に失われた連続性への郷愁を持っている」と述べています。「非連続」とは、われわれは移りゆく時の流れのなかで生きているということ、すなわち幸福を求め、至福の瞬間をとらえようとしても、すべてはむなしく過ぎ去ってゆく宿命にあるということです。われわれは孤独で、恋は必ず冷めるものであるし、盛者必衰のことわりを逃れるすべはなく、いずれそれぞれひとりで土へ帰る運命です。だからこそ、「失われた連続性への郷愁」を持ち続ける。奇跡の永遠化を夢見るのです。
 人はいろいろな方法で時の流れに対抗しようとします。何かの記録に名を残す。銅像を立てる、墓を立てる、ピラミッドを作っちゃう。子供にDNAを受け継いでもらう…。またこういった方法とは別に、われわれは「連続性」をとらえようとします。それをバタイユは「エロティシズム」で説明します。

 恋人にとっては、愛する相手だけがこの世において、私たち人間に禁じられていることや、二つの存在の完全な混同や、二つの非連続な存在の連続性などを実現することができるものと思われる。かくて情熱は私たちを苦悩のなかへ誘いこむ。それというのも、じつは情熱というものが不可能の追求だからであり、表面的には、常に危うく保たれた調和の追及だからである。

 
愛しあう相手となら、完全な一体感、永遠の至福を垣間見ることはできないか?バタイユは言います。「幸福の本質は、二人の人間のあいだに頑固に立ちはだかっている非連続性を、一つの奇跡的な連続性に代えようとすることである」と。この人とならば、あらゆる制約を超越することができるかもしれない。たしかにそんな気にさせられることがありますが、それは「常に危うく保たれた調和の追及」です。だからつきつめると死んじゃうやつが出てくる。ひと昔前に話題になった渡辺淳一の『失楽園』では、主人公のカップルは、不倫で燃え上がった恋を永遠化するために、裸で抱き合って*゜益゜*な瞬間に毒をあおって心中します。「もう死んでもいい!」が行き過ぎて「この瞬間に死のう!」ときたもんです。厳しい世間にだけではなくて、二人の至福の瞬間が時の宿命によって指の間からすべり落ちてゆくことに抵抗しようとしたのです。究極の愛、一体感を永遠化しようとしたのですね。われわれを非連続の存在にしている絶対的な「死」が、逆説的に永遠への飛翔の手段になることがあるのですね。


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