さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

宇宙戦艦ヤマト2199 ~正義と悪の相対化

2013年10月14日 | らくがき

 「宇宙戦艦ヤマト2199」を見ました。約40年近くも昔の旧作に比べて、はるかに素晴らしく仕上がった映像は目を見張るばかり。また旧作における「なぜイスカンダル人やガミラス人が日本語を話すのか?」とか「太陽系付近で撃沈されたはずの古代守がどうやってイスカンダルにいたの?」などといった素朴な疑問も解決されておりました。またリメイクされていても名セリフや名場面はきっちりと再現されており、心にくいばかりの構成になっていると思います。

 ガミラスによってもたらされた放射能汚染を解決するための「コスモ・クリーナー」は、「コスモ・リバース」に変更されていました。前者はオウム真理教が好んで使った言葉だからかな、と思いもしましたが、そもそも新作では「放射能汚染」が消えている。福島の原発事故による汚染を気遣ったのか、むかし「ウルトラセブン」で放射能汚染を扱った第12話が、何者かの圧力によって抹殺されたのを思い出します。原子力発電推進や核武装を目論む、もしくは米軍による日本の核兵器配備を批判したくない政府による圧力など本当にあるのかしら?

 「セブン」を連想させることがもうひとつありました。「新作ヤマト」では、なんとガミラスが迫ってきたときに、話し合いを試みる前に先制攻撃に踏み切ったのは人類のほうだということになっています。そしてやられそうになった地球を救うため、イスカンダルのスターシャは「波動エネルギー」の技術を伝えてくれますが、それを究極の破壊兵器「波動砲」に作り変えたのも人類の仕業です。

 つまり「ガミラス=悪」、「人類=正義」という構図がかなり相対化されているのです。ガミラスのデスラー総統は、「力によって宇宙を支配することで初めて大きな平和が訪れる」という論法を使っており、「単純に悪いやつ」ということにはなっていません。一方で恐ろしい破壊兵器波動砲を使用した人類は、「防衛のため」という論法で、こちらもやや苦しい説明になっています。それを簡単に正当化したら、今の核兵器もOKになってしまうではないですか。

 さてそんな人類に、絶対平和主義者のスターシャは、あっさりコスモ・リバースを渡すのを渋ります。そこで沖田艦長が交渉で使ったセリフが「人類を信じてほしい」でした。そりゃ弱いよねー!沖田艦長は信じられるでしょう。私だってあんな立派な人格者の艦長なら、何でも無条件に従います。しかーし、人類はおっそろしい武器を手にして生き延びる。何世代もあとまで、何百年何千年も人類を信じることが出来ますでしょうかー。(原発の利用や核武装することは、何世代もずっと安全が保証されるものでしょうかー)

 その「人類を信じてほしい」と言った沖田艦長のセリフ、それは「セブン」最終シリーズでフルハシが言ったセリフでした。悪い怪獣や宇宙人に人類がやられそうになったとき、宇宙人であるセブンは絶対的な力によって助けてくれます。しかし人類がいつも正しいわけじゃない。「セブン」では、かわいそうな状況にある怪獣をやっつけてしまったり、人類のほうが「防衛のため」という論理で先制攻撃を加えたり、強力な破壊兵器を開発してみたり、とにかく人類が単純な「正義」だという構図にはなっていない。特に新シリーズではそうで、そこでセブンは人類の味方をするのが良いのかどうかジレンマに陥ってしまう。そこでフルハシは親友のダンに、「人類を信じてくれ」と言うのです。さっぱりしない終わり方なんです。

 「こっちは正義だから、悪いやつらをやっつけろ!」という米国産ハリウッド映画的な単純思考が、だんだん受け入れられなくなってきたということは、ひとつの成熟かもしれません。「防衛のため」とか、「強力な兵器を配備すること、使用すること」は危ういということを意識し、敵方の立場や論法にも考えが向かうことは自己反省にもつながります。大人になるってことですよね。しかし「でも信じてほしい」という、やや説得力の弱い結末、それは現代において我々が直面する課題を浮き彫りにするものではないかと感じられるのです。