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伊能図と北海道

2012年01月06日 | 十勝の歴史

明治北海道十勝オーバルで「完全復元伊能図全国巡回フロア展」が開かれました。
巡回フロア展完全復元伊能大図

伊能忠敬は現在の千葉県九十九里町小関で小関家の二男として誕生。17歳の時佐原村旧家伊能家の娘ミチの婿として伊能家に入る。ミチは年上の21歳。忠敬21歳の時に長男景敬が誕生。家業は運送業、米の売買、酒造業など。49歳のとき家業を28歳の長男景敬に譲り隠居。第二の人生に出発。

50歳になって江戸に出て幕府天文方高橋至時の門下となり、天文学や測量法を学ぶ。忠敬が知りたかったのは正確な暦を作る上で必要な緯度1度の長さでした。これが分かれば地球の大きさも求めることが出来ます。技術を身につけてから、幕府の許可を得て「蝦夷地測量御用」として1800年(寛政12年)東北から北海道沿岸部にかけて緯度を測る旅に出ます。55歳の時でした。これが第一次測量です。


第一次測量では北海道の沿岸部を通って根室の西別まで行きました。この測量の旅で間宮林蔵と出会っています。北海道の地図は忠敬と間宮林蔵の働きで作られました。さらに内陸部を入れた地図は松浦武四郎の働きが必要でした。

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えりも岬周辺根室のニシベツ(西別)

伊能測量隊は第10次まで行われました。第10次は江戸府内の測量でした。


「北海道」の名付け親である松浦武四郎は江戸時代後期から明治にかけて数回にわたり蝦夷地(北海道)を探査しています。北海道の内部を探査して地理を調べ伊能忠敬の地図を合わせて「蝦夷山川地理取調図」を表しています。ここに載せた地図は十勝毎日新聞社が所蔵しています。
蝦夷山川地理取調図蝦夷山川取調図のこと

松浦武四郎と十勝の関わりを上げると1858年札幌から十勝入りして広尾・芽室・音更に来ています。音更の鈴蘭公園には1919年(大正5年)碑が建てられています。碑は帯広開町25年記念として建立とあります。碑の文面は風化して読めませんが過去に調べた人の記録では「このあたり馬の車のみつぎもの御蔵建てて積ままほしけれ」というもので武四郎は現在の音更周辺が将来発展するだろう見ていたようです。
武四郎の碑武四郎のこと

伊能忠敬は55歳から71歳まで日本全国を測量して歩きました。その後地図の作成に取りかかりましたが、73歳で病のため亡くなりました。死を秘して弟子たちが「大日本沿海実測全図」を完成し幕府に上呈、あわせて忠敬の喪を発表したという。





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