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とかちシニアネット・何か探し隊 !

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十勝鉄道 蒸気機関車(とてっぽ)   

2013年10月20日 | 十勝の歴史

  10月20日 「近代化遺産の日」 帯広市内に展示保存中の 十勝鉄道の蒸気機関車の車内が1日限り一般に公開されました。
  「とてっぽ」と愛称で呼ばれた蒸気機関車、布製の椅子や 木製の床 レトロな雰囲気の内部です。    10時から3時まで 昔を知る人が懐かしそうに また鉄道ファンも次から次と訪れていました。

               機関車は十勝鉄道から 帯広市に寄贈され 帯広市指定文化財指定を受けました。 

 

昔乗った記憶がある人は 当時はとても力強く大きい機関車だと思っていたが 今車内を見ると何と小さなものだったか分かると話していました。
木製の客車はマッチ箱と言われ 確かに幅も狭く 天井にも手が届きそうでした。

レールの幅も 今のJRと比べてもはるかに狭い。 
18人乗りの客車、冬 だるまストーブを付けた時期は 椅子を外し定員16名、立ったままの人もいて車内はいつもいっぱいで、中に入り切れず、外のデッキにも乗っていたとのことです。
機関車の煙で 顔が黒くなっていたと聞きました。

 十勝鉄道については 語り切れないエピソードがいっぱいあると 訪れた昔を知る人がいくつか話してくれました。

* どの駅でも 兵隊に行く人何人かを皆で見送ったこと、また戦死した人を皆で迎えたこともあったのだとも。

* 元芽室町長のTさん、マラソン選手でとても走るのが早く 汽車がカーブで坂道を登る時 スピードが落ちると汽車から飛び降り、初めは並行して走っているがそのうち Tさんが機関車を追い抜き どんどん先を行ったこと。
機関車に乗っている人達が囃し立てながら面白おかしく見ていたとのことで その光景が思い浮かべることが出来そうです。

* 汽車が走っているうち途中で止まり どうしたのかと思って見たら 石炭を燃やし蒸気を出す水が不足し、川の水をホースで汲み上げて補給していたのだと。

時速20キロですから 飛び降り 飛び乗りもあったそうで 駅手前で飛び降りて歩いていたこと何度か。
それでも ケガをする人も  無賃乗車する人いなかった。

車内に電球がひとつ取り付けられていましたが 多分電気はつかなかったはず 夜は真っ暗だったそうです。

動かなくなった機関車を皆で押したこともあった。
今、とてっぽ通りと名付けられた小路に 大きな役目を終えた機関車が 普段はひっそりとたたずんでいます。
何人かのとてっぽに関わる昔話を聞き 時代を共有した懐かしい思いの一日でした。

※ とてっぽ通り 十勝鉄道の私鉄線路でした。ビート輸送を目的に設立された鉄道でしたが、地域の人たちには欠かすことの出来ない交通機関でした。

       

                                                                                                                        


十勝新発見!世界に発信

2013年04月17日 | 十勝の歴史

世界最古煮炊き土器「大正3遺跡」注目!

4月11日の新聞各紙に「縄文期1万4000年前の土器」の事が大きく取り上げられました。
この土器は 2003年に高規格幹線道路帯広・広尾自動車道を建設する事前調査として行われた際 5か所のうちの一つ 帯広・大正3遺跡で発掘されたもので、その後の調査で縄文時代1万4000年前に使われたものと判明していました。
 
今回 新たな研究で土器片から海産物を煮炊きした焦げカスが見つかったと4月10日 権威ある英科学誌、ネイチャーに発表されました。
地元十勝にある「大正3遺跡」が評価され 世界に発信されることになりました。
焦げ目から魚の脂肪酸(魚の油)が検出され 川を遡ったサケ・マス類の可能性があり 土器を煮炊きに使った証拠として世界最古のものとなりました。
 
 
 
             
 
             
 
             
    
 
  ←  これは 4月10日 権威ある英科学誌、ネイチャー電子版
 
     大正3遺跡が評価され 世界に発信した貴重な内容です。
     (帯広百年記念館 埋蔵文化財センターに 展示)
 
 
 
                         
 
   
  ← 今まで発掘された十勝の遺跡は 現在136か所 あります。
 
 
 
 
 緑ヶ丘 百年記念館に展示されているものです。
 
   埋蔵文化財センターは 帯広市内で実施される開発行為に伴う遺跡(埋蔵文化財)の発掘調査を担当しています。
 
   発掘調査で出土した遺物や記録類は、すべて埋蔵文化財センターに持ち込まれ取り上げられた遺物は 水洗い、土器の結合、土器の拓本、実測などの作業を行い 展示・公開します。
  埋蔵文化財センターには 今まで発掘調査で出土した土器や石器などの遺物を100万点以上収蔵しています
 (埋蔵文化財センターの資料より一部抜粋)
 
 
   
                                                   

十勝再発見・新発見の旅2

2012年11月03日 | 十勝の歴史

十勝再発見・新発見の旅2


帯広市民大学主催の「再発見・新発見の旅」の報告2です。参加した時頂いた資料を参考にさせていただきました。最初は帯広市水準点原標についてです。
森の交流館入り口表示水準点原標

水準点原標は「森の交流館・十勝」入り口の道路を挟んだ南側の草地にあります。水位は、北に行くほど上がるので東京湾の水位が基準になっているそうです。水準点原標は土地の高さを精密に測量するための基準点で、帯広市の地盤の高さの原点となります。市内にある水準点は39ヶ所、原標は1ケ所あります。最近の帯広市の調査では水準点原標自体が10.6センチも沈下していたことが分かりました。原標自体が沈下していたので帯広市のほとんどの地点で10センチ以上沈下しているのではないかと云われています。

レンガを焼く窯跡桜の花型付きのレンガ


帯広美術館下の駐車場の横の斜面に明治26年十勝監獄を建てるのに必要なレンガを焼いた窯跡があります。現在残っている石油庫のレンガもここで焼いたものです。斜面にはレンガの破片などが今も残っています。

十勝監獄跡記念碑十勝監獄石油庫1


グリーンパークと緑が丘公園パークゴルフ場の間に監獄跡記念碑があります。十勝監獄は明治28(1895)年北海道集治監十勝分監として開庁し、明治36(1903)年に十勝監獄として独立しました。囚人達は監獄を建設するために糠平付近で森林を伐採し音更川で木野まで流送、さらに帯広まで馬を利用して陸送しました。また、囚人達によって大通り(当時は監獄道路とよばれていた)の整備や帯広小学校の建設なども行いました。いずれにしても過酷な労働のため囚人達だけでなく馬も沢山犠牲になりました。犠牲になった囚人達や馬を慰霊するために建てられた碑が帯広の仏弘寺にあります。
十勝監獄敷地の端の方に石油庫があります。監獄で使用する石油の保管庫として使用されました。

十勝監獄石油庫2十勝監獄石油庫3


十勝監獄石油庫は明治33(1900)年に建てられたものです。帯広市で現存する最古の建造物です。また建物としては帯広の最初の指定文化財になっています。レンガは囚人が監獄内のレンガ工場で焼いたものです。レンガの配列は各段ごとに長手と小口を交互に並べる「フランス積み工法」がとられています。屋根の上には「水」という文字が読めます。多分火災予防のおまじないでしょう。
仏弘寺馬塚


帯広市西15条南14丁目にある仏弘寺には十勝監獄の受刑者で作業中に亡くなった人とか使役されていた馬が亡くなったのを供養する石碑が建てられています。

十勝開拓獣魂合祀碑合葬者之墓


同じ場所に開拓や森林伐採の作業中に亡くなった人や開拓の使用で亡くなった家畜を供養する石碑があります。

合葬者之墓の横の文帯広国際センター(JICA)


合葬者の墓の碑の横側には明治三十二年六月一日北海道集治監十勝分監獄建立と書いてあります。昼食は帯広国際(JICA)センターのレストランでとりました。一般の方も利用できます。









十勝再発見・新発見の旅

2012年10月23日 | 十勝の歴史
十勝再発見・新発見の旅

このたび帯広市民大学主催の「再発見・新発見の旅」に参加してきました。その時頂いた資料を参考にさせて頂きました。2回に分けて載せます。最初に行った所は音更町の鈴蘭公園に建っている松浦武四郎の碑の見学です。

帯広開町記念碑1帯広開町記念碑2

松浦武四郎は1858年札幌から十勝入りして広尾・芽室・音更に来ています。音更町の鈴蘭公園に1919年(大正8年)碑が建てられました。碑は帯広開町25年記念として建立とあります。武四郎が詠んだ短歌が刻まれています。現在碑の文面は読めませんが過去に調べた人の記録では「このあたり馬の車のみつぎもの御蔵をたててつままほしけれ」というもので武四郎は現在の音更周辺が将来発展するだろうと見ていたようです。次に訪れたのは音更町の本照寺です。
本照寺です大川宇八郎の記念碑

音更町の本照寺(音更町下士幌)の境内に大川宇八郎の記念碑が建てられています。宇八郎は安政2年(1855年)岩手県に生まれ明治11年日高に行商に来ていてアイヌに案内してもらいオペレペレケプ(のちのオベリベリ=帯広)にやってきました。23歳でした。帯広にも住んでいましたが、明治13年音更に定住した最初の和人です。商売をしたり、農業や牧場経営なども行いました。本照寺の境内には音更町発祥の地の石碑も建っています。


音更町発祥の地の石碑

次は明治から昭和にかけて十勝川を人や荷物を運搬するために活躍した渡し船の記念碑です。
越中渡船場跡記念碑1越中渡船場記念碑2

越中渡船場記念碑は音更町宝来の十勝川堤防沿いに建てられています。渡し船は十勝の開拓の初期に大きな役割を果たしました。1900年(明治33年)官設として設置されました。モッケナシ(現在の音更町字下士幌)とオベリベリ(現在の東10条北2丁目)付近を往復していました。昭和16年に十勝大橋が完成し、渡船の利用者は減少して、昭和27年に廃止されました。次は皆川周太夫が和人として最初にオベリベリに上陸した場所の紹介です。場所は帯広市東10条南4丁目付近です。
皆川周太夫上陸の地帯広発祥の地公園

皆川周太夫は寛政11年蝦夷地警備の為派遣された八王子同心の原新助に従って渡道し十勝の内陸道路の開削のための実地踏査の責任者となって和人として初めてこの付近に上陸しました。
次は帯広市に現存する最古の木材建築の紹介です。




帯広市東6条南6丁目にある成田山松光寺です。ここにある不動堂は帯広市に現存する最古の木材建築物です。1902年(明治35年)帯広市東9条南7丁目に建立され、1917年(大正6)年頃現在地に移転しました。
不動堂です市で掲示した不動堂の説明

次は公立柏尋常高等小学校跡の紹介です。

柏小学校跡記念碑跡に立っているポプラの樹

柏小学校は帯広市東2.3条南12丁目に建っていました。1921(大正10)年帯広第二人尋常小学校として開校しました。1924(大正13)年十勝大平原の代表的な樹である「柏」が選定され、公立柏尋常小学校と改称されました。私の母もここの小学校の卒業生でした。





伊能図と北海道

2012年01月06日 | 十勝の歴史

明治北海道十勝オーバルで「完全復元伊能図全国巡回フロア展」が開かれました。
巡回フロア展完全復元伊能大図

伊能忠敬は現在の千葉県九十九里町小関で小関家の二男として誕生。17歳の時佐原村旧家伊能家の娘ミチの婿として伊能家に入る。ミチは年上の21歳。忠敬21歳の時に長男景敬が誕生。家業は運送業、米の売買、酒造業など。49歳のとき家業を28歳の長男景敬に譲り隠居。第二の人生に出発。

50歳になって江戸に出て幕府天文方高橋至時の門下となり、天文学や測量法を学ぶ。忠敬が知りたかったのは正確な暦を作る上で必要な緯度1度の長さでした。これが分かれば地球の大きさも求めることが出来ます。技術を身につけてから、幕府の許可を得て「蝦夷地測量御用」として1800年(寛政12年)東北から北海道沿岸部にかけて緯度を測る旅に出ます。55歳の時でした。これが第一次測量です。


第一次測量では北海道の沿岸部を通って根室の西別まで行きました。この測量の旅で間宮林蔵と出会っています。北海道の地図は忠敬と間宮林蔵の働きで作られました。さらに内陸部を入れた地図は松浦武四郎の働きが必要でした。

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えりも岬周辺根室のニシベツ(西別)

伊能測量隊は第10次まで行われました。第10次は江戸府内の測量でした。


「北海道」の名付け親である松浦武四郎は江戸時代後期から明治にかけて数回にわたり蝦夷地(北海道)を探査しています。北海道の内部を探査して地理を調べ伊能忠敬の地図を合わせて「蝦夷山川地理取調図」を表しています。ここに載せた地図は十勝毎日新聞社が所蔵しています。
蝦夷山川地理取調図蝦夷山川取調図のこと

松浦武四郎と十勝の関わりを上げると1858年札幌から十勝入りして広尾・芽室・音更に来ています。音更の鈴蘭公園には1919年(大正5年)碑が建てられています。碑は帯広開町25年記念として建立とあります。碑の文面は風化して読めませんが過去に調べた人の記録では「このあたり馬の車のみつぎもの御蔵建てて積ままほしけれ」というもので武四郎は現在の音更周辺が将来発展するだろう見ていたようです。
武四郎の碑武四郎のこと

伊能忠敬は55歳から71歳まで日本全国を測量して歩きました。その後地図の作成に取りかかりましたが、73歳で病のため亡くなりました。死を秘して弟子たちが「大日本沿海実測全図」を完成し幕府に上呈、あわせて忠敬の喪を発表したという。