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世界遺産 合掌造り集落

2008年01月24日 | 会員の旅行
 
 世界遺産合掌造りの集落は飛騨地方、岐阜県大野町白川村の白川郷集落(59棟)と富山県南砺市の五箇山菅沼集落(9棟)と相倉集落(29棟)の3地区が1995年12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
 12月7日に世界遺産合掌造り集落、白川郷の大規模集落(59棟)と菅沼地区の小集落(9棟)を見てきました。
合掌つくりの由来
 合掌造りは江戸時代から始められた養蚕のために、屋根裏に棚を設置したのが始まりと言われ、豪雪による雪下ろしの作業軽減と屋根裏の床面積拡大のため、急な角度を持つユニークな茅葺屋根になったと考えられる。
 また、屋根はどの家屋も東西を向いている。これは屋根に満遍なく日が当たるようにするため、集落は南北に細長い谷であるため、南北それぞれの方向から吹く強い風が、直接当たる面積を少なくする為と言われている。


城山展望台から白川郷合掌造り集落を望む

白川郷合掌造り集落
 岐阜から約2時間飛騨の山道「東海北陸自動車道」をレンタカーで走り荘川IC下車、途中の峠で小雪が降り初め心配しながらの走行であったが、間もなく山間に合掌造りの集落が見えた。到着後最初に旧荻町城跡の高台に直行、展望台から集落を一望してから中心部に向かった。少々観光地化されている、世界遺産の合掌造り白川郷集落の数々を見学させて頂いた。上の写真中央、一番手前に見える屋敷が、和田家(重要文化財)合掌造りの家で1番大きな規模で現在民芸館として使われているシンボルです。

集落の中の合掌造り住宅、手前に合掌造り
の小さな小屋が新しく造られていました。
集落の街外れに同じような合掌造りの住宅が
3戸並んで、とても素晴らしい光景でした。

白川郷集落の中でも4階まである豪邸です。
屋敷周りも整備されており、素敵でした。
明善寺合掌の家の2階から隣の合掌造りの
家と街並みを望む。


明善寺(重要文化財)案内板 2階に生活資
料すべてと、縄文土器・石器が展示。
明善寺(重要文化財)の庫裡お寺の台所、住
職や家族の居間といわれている。

合掌造りの特徴
○ 軸組みの梁、雪の重みに耐えられらように、傾斜地で育つ根元の曲がった樹木をチョンナバリと呼ばれる梁に利用され、軸組み部を強い構造にしています。
○ 小屋組み、材料の確保や加工が容易に出来るよう、丸太を手斧などで仕上げ釘等は一切遺使わず、荒縄やソネ(マンサクの木)で結わいています。
○ 屋根、山間の豪雪地帯であることから、重い積雪に耐える勾配の急な切妻屋根で茅葺であるのが特徴です。手を合わせ合掌の形に見える事から『合掌造り』と言われています。


2階の天井裏より屋根裏の複雑な縄での組
み立て状況を見る。
2階の壁面の柱と梁を結んでいる部分名称
の説明札と縄で結われた様子。

2階の壁面、合掌造り主体の柱に各種材料
が結ばれている。
2階の壁面、柱と柱の間に数本のくだり
(タルキ)が結ばれている。

展望広場より五箇山菅沼合掌造り集落を望む

五箇山菅沼合掌造り集落
 白川郷から離れ曲がりくねった細道を約1時間、岐阜県境界を過ぎると富山県伍箇山菅沼合掌造り集落が山間の谷間に現れた。近年出来たばかりの展望広場よりエレベーターで集落に向かい、現在居住されている方に直接お話しを伺い、9戸の長閑な集落を見学させて頂いた。集落の中には民俗館(養蚕や紙漉造り)塩硝の館(火薬の原料となる塩硝造り)様子と用具が展示され昔の生活が偲ばれました。
 集落の隣には青少年旅行村、合掌の里(村が移築した研修・宿泊の出来る合掌造りの家7戸)とキャンプ場が設置され、体験宿泊施設として利用されています。

菅沼集落は白川郷集落に比較すると戸数も
少なく、2組の観光客にお会いしただけの長
閑な田園の感じでした。
集落に1戸しかない店兼ソバ屋のご主人と隣
りにお住みの主人に、集落での苦楽話を楽し
く聞かせて頂きました。

集落外れに茅葺の潰れそうな小屋が2棟、
農作業小屋なのでしょうか?水田の中にあ
りました。長閑な田園風景です。
塩硝の館、幕府の目の届かないこの集落で
作られた、火薬の原料となる塩硝作業の展
示館(この集落で1番小さい合掌造りの家)

集落から約500mほど離れた青少年旅行村
にある合掌造りの研修施設が7戸の一部が
川沿いの林の中に見られた。
青少年旅行村の外れに、体験学習用なのか
?川の向こう岸に渡るかご渡しの籠が岸に置
かれてあった。

 中学生の頃まで藁葺屋根の寒~い住宅に住んでいた経験はありましたが、今回見学の合掌造りで急勾配の茅葺屋根、それに2階・3階とある素晴らしい住宅を見るのは初めてで、何も彼もが珍しい光景で、山間の豪雪地帯で生活するための知恵から生まれた、世界遺産の伝統ある合掌造り集落を楽しく観察させて頂きました。
 合掌造り茅屋根の葺き替え(1,000万円位かかる)は30年~40年ごとに『結い(ゆい)』と呼ばれる相互互助の集まりとして、地域の共同体で行われています。
 世界遺産として登録され、国指定史跡・重要伝統建造物群保存地区となり、今後の維持管理には大変な経費と作業が続く事のご苦労を偲び、白川郷・菅沼の両合掌造り集落に感謝します。







時計台

2008年01月10日 | 会員の旅行







昨年、6月1日・2日札幌に用事で行った時、暇を見て時計台を見学してきました。今までは表から写真を撮ったことぐらいでしたが、今回は中を見学しました。時計台は北海道の開拓に大変関わりがあったことを知りました。そのことを少し載せたいと思います。尚、時計台発行のパンフレットや「北大歴史散歩」(岩沢健蔵著、北大図書刊行会発行)からも引用させて貰いました。









時計台1:今、時計台は周りを建物に囲まれていますが、建てられた当初は周りには木があり、農場が広がっていたことでしょう。


時計台2:時計台は、札幌農学校の演武場として、初代教頭ウイリアム・S・クラーク博士の帰国後、第2代教頭ウィリアム・ホイラー博士の構想図をもとに開拓史工業局の設計・監督により明治11年10月に完成した。工費3869円といいます。


時計台3:時計塔はホイラーが帰国した後、教頭となったD.P.ペンハローが計画を担当して、明治14年に付設され、以後「時計台」の名で親しまれています。


黒田清隆とケプロン:開拓史の長官であった黒田清隆と開拓史の顧問ケプロン。時計塔は当初鐘楼であったところに、明治14年付設されたもので、これは演武場の開業式に出席した黒田清隆開拓史長官の発案であると伝えられています。


クラーク博士:「Boys,be ambitious!」とう別れの言葉で有名な札幌農学校初代教頭W.Sクラークは、明治10年、契約期間を終えて帰国し、この建物を見ることはありませんでしたが、帰国に先立って演武場の原形ともいうべき「武芸練習場」の設置を開拓史に対して要請しており、これが演武場の建設につながることになりました。その意味においてはクラークにゆかりの深い建物ということができます。


内村鑑三:1861年(文久元年)江戸小石川に生まれる。1874(明治7)年、東京外国語学校に入学。1877年(明治10)年、札幌農学校に第2期生として入学(17歳)、新渡戸稲造、宮部金吾らと同級生となる。21歳のとき札幌農学校を卒業し北海道開拓史に勤める。


新渡戸稲造:1862(文久2)年、南部藩士の三男として盛岡に生まれた。幼い時に父と祖父に死なれ、叔父の太田時敏を頼り上京し、養子になり太田姓を名乗る。南部藩校経営の共慣塾から東京英語学校に進んだが、15歳の夏に札幌農学校(第2期生)に転じた。19歳で卒業し、開拓史御用係になった。後年、英文で「Bushido」(武士道)を書いた。


有島武郎:1878(明治11)年東京小石川に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子としてうまれる。10歳で学習院予備科に入学し、19歳で学習院中等全科を卒業。その後、札幌農学校に入学。農学校卒業後軍隊生活を送り、その後渡米。ニセコに父親から受け継いだ広大な農場を持っていたが、無償で小作人に開放したことで世間を驚かせた。ニセコに有島記念館がある。


演武場:演武場は米国中・西部開拓地のバルーンフレー構法といわれる木造建築構造様式を取り入れた飾りの少ない簡素な実用建築である。1階は研究室・講義室・動植物や鉱物の標本展示室として使用され、2階は兵式訓練や体育の授業を行うほか中央講堂として使用された。演武場は豊平館、道庁旧本庁舎(赤レンガ)とともに札幌における開拓時代を語る重要な歴史的建造物である。2階には「演武場」の額が掛けられていた。


塔時計:2階ホールに展示されている塔時計(製造No.3867)です。時計塔には米国ボストン市のハワード時計会社制作の時打重錘振り子式四面時計(製造No.738)が設置され、明治14年8月12日の運転開始から当時の姿のまま、時を刻み鐘を鳴らし続けています。




火災:1892(明治25)年5月4日、札幌に大火が発生しました。学生達は演武場の類焼を防ぐため屋根に上がって消火に努めました。その様子です。




演武場の字:右から読みます。時計台の正面に掲げられている「演武場」という木の額は、右大臣岩倉具視の揮毫をもとに彫られたものです。現在、北大の図書館に「演武場」、の三文字に「従一位具視」という署名落款を添えた真筆が保存されています。今日掲げられている木の額は最初の物が摩耗したので昭和34年10月六書堂が北大保管の真筆をもとに作りなおし、寄贈したものです。







時計台馬車:「時計台の街札幌」と書かれていました。時計台の街札幌をピーアールする馬車があるのですね。きれいに化粧された馬車でした。


時計台全景:時計台の正面から道路を挟んで建っている建物の2階部分に時計台を見たり撮影できるテラスのような部分が作られています。そこから正面部分を撮ってみました。





今までは通りすがりに時計台を見ていましたが、今回ブログに載せるために時間をかけて見学してきました。北海道の開拓と大変関係があることが分かりました。時計台の歴史も知ることが出来ました。尚、時計台は現在地から100mほど北にありましたが明治38年8月頃現在地に移転しました。


「香港の旅」と「絵画展を終えて」2投稿

2008年01月04日 | 会員の旅行




(左の画像をクリックしますと別ウインドウで元画像の写真出ます)
香港、マカオに行って来ました。
11月25日からあるツァーに参加して男2人で行って来ました。

香港は1997年に中国に返還され、今は特別行政区で、面積は東京都の約半分くらいで人口は686万人(2006年)。又マカオも1999年に中国に返還されて、やはり特別行政区でここは東京都の世田谷区の約半分くらいの面積しかありませんが人口は51万人で中国の1国2制度という体制を執っていて、現行の社会制度を50年維持していく事になっているようです。

以前は3度ほど観光で訪れていますが、返還後は行ってはいなかったので何か面白い事があるのではないかと、今回行くことにしました。現地ホテルで集合というので、我々はとかち帯広空港から羽田へ、成田から香港へと移動しました。

香港は以前とは大きく様変わりしていて、先ずは空港はビルの谷間に降りていくような所から沖合いの小島に(ランタオ島)なり、何処も開発が進み、ホテル、ビル、マンションが狭い土地に競うように建っている様は、竹の子のように上に伸びている。特に一般の人は土地が持てないので、マンションに入居しているそうですが、狭い土地に建っているので(日本のように整然と長方形ではない)

間隔は狭いので1年中太陽が当たらないような作りが多かった。金持ちは英国風の家屋敷をもっていて、車のナンバーに大金を使うとか、ガイドの話では縁起のいい数字、例えば8とか、占い風水を信じることから。

ここで特に日本と比較して気がついたことを書くことにします。

まず、路上にゴミが無いことです。これは香港もシンガポールと同じく いろいろ罰金制度が出来たことと、あちこちにゴミのボックスが有ること。「今の日本はゴミ箱が公共の場から無くなっている」

ユニホームを着た作業員が多くいて常に掃除をしているのです。

これは香港の経済にも関係していることです。この香港の特別行政区になってから、豊かになったということです。今までは富は元宗王国のイギリスに集中していたのが、なくなりその分で雇用が広がったということから。公共のトイレにも高齢者が清掃員として働いている姿を見ることができる。そんな情勢から返還後の体制を恐れて多くの人が香港から脱出したが、今はその人達が戻ってきているとガイドは話していた。

次に、ここは高齢者と身障者の人達には道路は優しくないということです。(友達は後遺症で左足が不自由)特に感じたのは香港島で歩道を歩いていると、その歩道は細くなり、その先はビルの中に入っていきます。つまり階段を上り、ビルの中を通り、また降りて歩くというので、階段の上り下りの連続です。ここにはレパルスベイという砂浜が綺麗で、あの「慕情」という映画の舞台にもなったところがあり、以前は本当に感動するくらい綺麗で広々としていたと記憶していましたが、今はビル、寺院、観光客目当ての店が多く、感傷にふける暇なく歩かされました。

ここの山の上に風水で選んだというジャッキーチエンの豪邸がありました。なんでもそこがドラゴンの頭にあたるところから選んだらしく、数億円もしたらしいとは、ガイドの話。





(右の画像をクリックしますと別ウインドウで元画像の写真出ます)

次にマカオの話を。マオカはジェットフエリーでわずか1時間ほどのところにありますが、2005年に22ケ所の歴史的建造物と8つの広場が「マカオ歴史市街地区」としてユネスコ世界文化遺産に登録されていて、狭い地区ですが見所は多い街ですが、駆け足の観光でその中の1つで(聖ポール天主堂跡)をみてきました。この建物は1600年の建設だけど、1835年に焼け落ちて今は正面の外壁と68段の石の階段だけが残っているのみですが、その外壁の1部に日本を追放されたキリシタンが彫った龍の彫刻があるので、ここは以前にも来たところです。その頃はまわりに建物はなく単なる階段と外壁のみで犬の糞があちこちにあったのが印象に残っていたが、今は廻りにどこも同じように観光客目当ての店が道を狭くしていた。マオカと言えば公認のカジノがあり、これを目当ての観光客で今は、アメリカのラスベガスを抜いているほどです。

我々はタイパ島の中心のホテルに泊まりましたが、ここからタクシーで10分ほどのところにあるホテルのカジノ(ここは今年春頃できた)に夜行きましたが、とにかく広い3階までぶち抜きのワンフロワーで屋内体育館ほどもある広さのびっくり、そこにはルーレットからバカラ、スロット等あらゆる機械があり、人が群がっていた。日本のパチンコをするような感覚だろうか。

マカオでは作りかけのホテルが中断したのもあったが、ガイドの話ではカジノが出来るところだけ出来たら先ずカジノを開業して、その金を資金にして上に「客室」を作っていくのもあるとか。長くなりましたのでこの辺でオワリます。

この見聞録は私個人が見て、感じて、聞いたことだけです。







(作品をクリックしながら見て下さるとありがたいです。)








人は妙なところでつながっているものだ。十勝のような地方都市では、出会いの偶然が多くありそれが実に面白い。
私は、十一月中旬、先輩の勧めで油絵の個展をやった。街外れの森の中にあるギャラリー喫茶で、およそ五年ぶりのことである。
若い頃から憧れだった油絵は、五十歳になってようやく始めることが出来た。もう十五年ほども経ったことになる。


前回、{十勝彩りの風 油絵展}で3作品を紹介させていただきました。



そのきっかけは、大空町に帯広の森コミセンが完成し、数種の講座が開かれて、某先輩に連れられて顔を出したことから始まる。定員二十名に余る受講者がおり、元教師のHさんが講師だった。半年間の講座が修了し、解散するに忍びないと、同好会が誕生した。Hさんが病に倒れ、二年も習わない内に他界された。二代目はIさんに依頼し、会場の変更や会員の減少、夜間から昼間への変遷など、瞬く間に十年が過ぎた。三代目は今のTさんであり、遠く本別町からお出でになる。すでに四年が過ぎた。Tさんはお話好きで、野球や犬のことになると、目が輝きだす。
ちょうどその最中に、帯広市民文藝第47号が発刊された。私も、十数年来のファンであり、応募した川柳や随筆が稀に入選し掲載される。嬉しいことに、同好者や編集委員と親しくなり、文学仲間が増えてきた。