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≪金次郎さんは市場を意識し、合理的に考える人だった≫ ----------------------------------------------------------------------------- |
ずっと以前、小学校時代の校庭にあった、薪を背負った二宮金次郎さんの像。 何十年ぶりかに、二宮金次郎(尊徳)さんの像と出会う。 |
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「二宮金次郎さんは親孝行をして、寸暇を惜しんで勉強をして、のちに偉い人になりました」 そんな記憶がある。 しかし、何をして偉くなったのか、有名な割には知らないことだらけだ。 二宮金次郎さんの生涯を、少し調べてみる。(勝手解釈につき、あしからず) ![]() |
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まず、その人間としての偉大さに、圧倒される。 金次郎さんは、農民の出身だ。 ![]() 江戸末期の諸藩は、どこも借金まみれで、役人は税金をピンはねすることばかり考えて、 そのとばっちりが農民に行っていたそうだ。 ![]() 武士階級は彼の卓越した農村行政能力を高く評価した。 疲弊した農村へ派遣され、農民の人望を集め、短い年月で豊かな村へと変貌させたという。 |
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金次郎さんの身上 金次郎さんの伯父、万兵衛の口癖であり、信念は 「百姓には、むずかしい学問は、いらねえ。身を滅ぼす元になる。親父がよか見本じゃ」 しかし金次郎さんは、百姓であればこそ学問が必要と考えていた。 命じられるからでなく、自分から進んで、知恵のある働きをしたい。 働きながら、よく考えて新しい道を開き、将来、人を指導する立場になりたい。 駆け引き、知略は、戦場の兵士のみならず、農場復興の戦いにも必要と考える。 |
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「二宮金次郎さんの報徳思想」 経済思想・経済学説のひとつ。 経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、 いずれ自らに還元されると説く。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 報徳思想の中核「勤労・分度・推譲」とは まず一生懸命働いて収入を得、収入の範囲内で生活しなさい。(分度) ![]() 分度とは、けちではない。分に応じた消費を意味する。 そして、働いて節約してお金を残して家族(子孫)や社会にもどしなさい。(推譲) 金次郎さんは、その仕法に副う徹底した節倹の実行を誓約させて融資した。 |
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…二宮金次郎 天明7年(1787年) - 安政3年(1856年) …篤姫 天保6年(1836年) - 明治16年(1883年) 江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所となった。 (2008年高視聴率NHK大河ドラマ「篤姫」) …勝 海舟 文政6年(1823年)-明治32年(1899年) 幕臣でありながら、徳川幕府の終焉を予見していた。神戸海軍操練所を設立し、坂本龍馬を育てた。 江戸城無血開城の立役者の一人である。 明治維新後も徳川家や旧幕臣のために尽力し、篤姫の生活を陰ながら支えた。 |
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勝 海舟さん談 二宮尊徳には、いちどあったが、至って正直な人だったヨ。 全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。 時勢が人を作る例は、俺は確かに見たヨ。 氷川清話 勝海舟 講談社学術文書 |
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二宮金次郎さんと、幕末維新に活躍した勝海舟、そして篤姫がほぼ同じ時代に生きていたのだ。 三人に共通するのは、日本の礎を築いたことと、その時代の常識にとらわれていない所だ。 |
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金次郎さんは 骨太で背が高くガンコ、合理的な経営者で金融業、人の為に力を尽くした人。 二宮金次郎さんのことを調べてみると、金次郎さんの像は以前とはまったく違って見える。 金次郎さんの「報徳思想」 いまの日本こそ、かくあってほしいと願っているかもしれない。 明治三十年、孫の二宮尊親は豊頃村へ開拓の為に移住。 豊頃村で生まれた尊親の四男、二宮四郎は、戦後富士山麓で「富士豊茂開拓農業協同組合」を発足。 この名は豊頃村字茂岩から豊と茂をとって命名。十勝には縁が深い。 過去の関連記事{十勝開拓の恩人達} ![]() |
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二宮金次郎 我が道は至誠にあり 堀 和久著
二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか? 猪瀬 直樹著
動く画像は(C)ぱたぱたアニメ館
金次郎さんの写真
・芽室町集団研修施設かっこう(旧美生小学校)
・旧上帯広小学校>