龍の声

龍の声は、天の声

西郷吉之助

2017-08-30 06:40:04 | 日本

・西郷が明治政府の中央政府にいたのは2年余り。


・他人や世間から、褒められたり、けなされたりすることは、月が欠けたり満ちたりするのと似ている。満ちたり欠けたりするのは月ではなく、地球の影となって、そう見えるだけだ。もともと月の姿は丸いままで変わっていない。蔭でそう見えるだけである。蔭で一喜一憂すべきではない。自分のもつ物差しで、他人を測ろうとし、計ってしまう。しかも自分の力量の長さしかない物差しで、他人の力量をおかまいなしに計ってしまう。


・入水自殺事件。西郷32歳、月照45歳。西郷のみ蘇生する。人間の運命とは計り知れないものである。


・只今生まれたりと言うことを知りて来たのではないから、いつ死ぬということを知り様がない、それじゃによって生と死と言う訳がないぞ。さすれば生きてあるものではないから、思慮分別に渋ることがない。そこで生死の二つあるものではないと合点の心が疑わぬもの也。
確かに只今生まれて来たと言うことは、誰にも分かるはずがない。三、四歳になり、記憶の中におぼろげに存在していることが分かるくらいである。そして現在だだ今、いつ死ぬかは分かりようがない。生まれるということ、生きるということ、そして死ぬということ。


・島流しの5年間、晴耕雨読を常とし、聖賢の書を読むことや心の鍛錬を怠らなかった。普通であれば絶望感に支配され、運命を呪い気を狂わせたくなる。人が見ていようと見ていまいとかまわなくなり、寝そべったりわめいたりする。自堕落になり無気力となり、ついには食うのと寝るだけの動物のようになるであろう。西郷は己に死をせまるような運命と対峙し、逆にこれは絶好の修行の場であると思い、己の運命と対決しようとしていた。
人のいないところでも身を慎んでいく修養工夫は、自身が大人数の集まりの中にいるのと同じような気持ちでいなければならない。
読むべき本を噛むようにして、何回も何回も読んだのであろう。自己との戦いであり運命との戦いであった。


・さまざまな事象の変化はあった。これらの一つの出来事は、天は自分に対し何を暗示したくて存在させたのか。その天意を知ることができないのか。天意を知ることが出来れば、それに従うことができる。天意を知るために現在ある環境を全て認め、そして誠意をもって眼前の変化する、あらゆる事象に対応しようと全力を尽くした。そこに私心を入れない訓練をすることが、天意を知り得る方法であると思った。


・生というものは天からの授かりものであり、授かった生を天に返すのが死である。生(命)が自分にあるのか、天にあるかだけのことであるから、生死は一体であり区別するものではない。


・日本のトップである首相の職は誰のための職であろうか。首相の仕事は誰のためになす仕事であろうか。日本一国で世界に進んでいける時代ではない。日本と世界のあるべき未来を見据えて、手を打てる政治家が必要であろう。その人を得るか否かは日本の盛衰にかかわってくる重大事である。


・人間は99.99%自分のことしか考えないという自分の本質をしっかりと見極め、0.001%の無私の部分を探求し拡大することが人の人としての道を探求することになるのではないのか。

・『死生を視ること、真に昼夜の如く、念を著くる所無し』
朝目が覚めて夜眠るまでを生きている間(昼)とし、目を閉じて眠りに入ることを死(夜)とみなすのである。実際、眠ることは死と似ている。睡眠が二度と目を覚ますことのない死と同様なものであるとしたら、眠る前には遺言を書いたり、明日の予定を変更したり、あわただしくなるだろう。しかしながら、朝は不変の事実としてやってくる。太陽が東から昇り西に沈んで一日が終わる、天地自然そのものである。だから、人間は安心して何も考えずに眠れる。

人間の生と死を、日々繰り返される昼と夜とするとき、眠る前にあれこれ遺訓を残したりはしない。自然に眠るだけである。西郷自身「死生をみること真に昼夜のごとし」の思いで生きようとしていたからであろう。ゆえに写真も遺訓もないのである。もう眠る時間だから明かりを消してくれ!ぐらいの感覚で、「もうここらでよか」と声をかけ、首を打たせたのだろう。生を閉じることはこういうことであるのかもしれない。


・生物は皆死を恐れる。人間は万物の霊長である。当然、死を畏れる中にも、死を畏れない理由をえらび出して安住する必要があろう。
自分の身体は天の命を受けてこの世に生まれたもので、『生死の権利は天に有る』だから、従順に天の命令を受くべきものである。我々の生まれるのは自然であって、生まれた時に喜びを知らない。また、我々の死ぬときも自然なのだから、死ぬ時に悲しむことを知らないのがよいのだ。天が我々を生み、そして死なすのだから、死生は天に任すべきもので、畏れないでよいのだ。


・死を畏れるのは、人が生まれた後に生ずる感情である。身体があって、その後にこの感情があるわけである。死を畏れないのは、生まれる前の本性である。身体を離れて、始めてこの本性を見る。人は畏れないという道理を、死を畏れる中、すなわち生後に自ら体得すべきである。かくしてこそ、生前の本性にかえるに近いといい得るだろう。
聖人は死に安んじ、賢人は死を分とし、常人は死を畏る。
いずれの立場にあっても、生まれ、いずれ死ぬ。誰でも同じことである。であるならば「百尺竿頭一歩飛ぶべし」


・宗教や思想や時代の勢い、流れに洗脳されたり麻痺されたりする死生観はあってはならない。自身で得た死生観であらねばならない。


・死という来訪者のことをあらかじめよく知っておき、突然の来訪にあわてたり、うろたえたりすることがないように常日頃から心の準備と対応法を十分に練っておく。そして、なにより死というものが人間にとってどういう存在なのかを知っておかなければならない。


・人間はまず自分自身を発見し、次に一個人としての自分の義務を、万物と自分との関係を、万物を通して表れている意識や英知との一体性を発見しなければならない。人生の目的は人に奉仕することである。できるだけ多くの人に奉仕することである。奉仕する相手がふえればふえるほど、自身についての理解が高まるであろう。実際にはこのことが生まれてきた運命を成就したいと願う人の動機ともなるのである。


・強く大きい胆力の有る者をモデルとしてまねをすればよい。


・大自然や大宇宙には『我欲』は無い。