耳にはフタがありません。
危険をいち早く察知し避けるためなのか、
地上に出現して以来、人類は聴覚を開けっ放しにして生き延びてきました。
脳の中では、意識に上る以前に、無意識の中でたくさんの音がキャッチされ、
それに対応するさまざまな反応が起きているはずです。
場合によっては、身を守るために「この音は無視しろ」「この音こそ聴け」
というような特殊なフィルターがかけられることもあるかもしれません。

音楽を聴くとき、人はたいてい耳でキャッチすると同時に、
意識の上でも「これは何か」「歌っているのは男か女か」
「カッコいいのか悪いのか」「上手いのか下手なのか」などなど
おびただしいチェック項目を判断します。大脳新皮質フル回転です。
さらに、意識は時々、本人の意図にかかわらず嘘をつきます。
事実をあくまでも客観的にというわけにはいきません。
いろいろな事情で感覚は歪曲されます。
人は無意識でも、さらに意識の上でも、
たくさんのフィルターを通してしか音楽を聴くことはできないのです。
同じことが自分の身体を感じようとする時にも起きます。
「今自分の身体の中がどんな感じがするか」感じようとしても、これが難しい。
「感じることを考えるな」というのは私の母校のN先生の言葉です。
音楽もそう。「聴くことを考えて」しまうのです。
今起きていること、今聞こえている音、そのものをただそのままに
受け取るということがどんなに困難なことか。
感覚をとにかく広く開けておくこと、
そのためにはどうしたらよいのか、
そのためにはどうしてはいけないのか。
答えはありませんが、まずとにかく、
何でも「すぐに言葉に変換する」のを、ちょっと待つ。
言葉にしようとすると思考が動き出し、判断・評価が始まってしまいがち。
ちょっとだけ待って、自分のなかでその感覚を味わい、転がす時間を持つ。
これはかなり有効だと思います。
そんなことをしていては、何も覚えていられない、思考が停止すると
ご心配の方もいるかもしれませんが、
無意識の中にはちゃんと蓄積されていくと私は考えています。
必要なことは、ちゃんと意識まで上ってきます。
その時になってはじめて「ぴったりの言葉」を探してあげれば良いと思います。
この「言葉を探す」作業の中でまた、新たに感覚との回路ができるような気がします。
個々の人間の価値観のコアな部分を支えているのは、
実はこういう、無意識に蓄積された体験だという説があります。
無意識の部分を、ゆっくりたっぷり豊かに解放してやる。
言葉で言うほどたやすいことではありませんが、
何歳になっても訓練できる可能性のあることではないかと思っています。
聞こえてくるものをただ聴く、とにかく浸る、
すぐに判断しないでちょっと待つ。
こういう音楽の聴き方を覚えてから、
私にとって音楽の世界がだいぶ変わりました。
同じことを、今、ボディワークの世界でしてみようと試みています。
自分の身体のなかでおきていること、
人の身体から発せられるさまざまなこと。
それらを、ただ感じる、味わう、評価しないでちょっと待つ。
しかる後に言葉で整理していく。
ただし、この態度は時に危険も伴うので、注意は必要です。
無防備にオープンにするとダメージを受けることもあるかもしれません。
安全にはくれぐれもご注意ください。
危険をいち早く察知し避けるためなのか、
地上に出現して以来、人類は聴覚を開けっ放しにして生き延びてきました。
脳の中では、意識に上る以前に、無意識の中でたくさんの音がキャッチされ、
それに対応するさまざまな反応が起きているはずです。
場合によっては、身を守るために「この音は無視しろ」「この音こそ聴け」
というような特殊なフィルターがかけられることもあるかもしれません。

音楽を聴くとき、人はたいてい耳でキャッチすると同時に、
意識の上でも「これは何か」「歌っているのは男か女か」
「カッコいいのか悪いのか」「上手いのか下手なのか」などなど
おびただしいチェック項目を判断します。大脳新皮質フル回転です。
さらに、意識は時々、本人の意図にかかわらず嘘をつきます。
事実をあくまでも客観的にというわけにはいきません。
いろいろな事情で感覚は歪曲されます。
人は無意識でも、さらに意識の上でも、
たくさんのフィルターを通してしか音楽を聴くことはできないのです。
同じことが自分の身体を感じようとする時にも起きます。
「今自分の身体の中がどんな感じがするか」感じようとしても、これが難しい。
「感じることを考えるな」というのは私の母校のN先生の言葉です。
音楽もそう。「聴くことを考えて」しまうのです。
今起きていること、今聞こえている音、そのものをただそのままに
受け取るということがどんなに困難なことか。
感覚をとにかく広く開けておくこと、
そのためにはどうしたらよいのか、
そのためにはどうしてはいけないのか。
答えはありませんが、まずとにかく、
何でも「すぐに言葉に変換する」のを、ちょっと待つ。
言葉にしようとすると思考が動き出し、判断・評価が始まってしまいがち。
ちょっとだけ待って、自分のなかでその感覚を味わい、転がす時間を持つ。
これはかなり有効だと思います。
そんなことをしていては、何も覚えていられない、思考が停止すると
ご心配の方もいるかもしれませんが、
無意識の中にはちゃんと蓄積されていくと私は考えています。
必要なことは、ちゃんと意識まで上ってきます。
その時になってはじめて「ぴったりの言葉」を探してあげれば良いと思います。
この「言葉を探す」作業の中でまた、新たに感覚との回路ができるような気がします。
個々の人間の価値観のコアな部分を支えているのは、
実はこういう、無意識に蓄積された体験だという説があります。
無意識の部分を、ゆっくりたっぷり豊かに解放してやる。
言葉で言うほどたやすいことではありませんが、
何歳になっても訓練できる可能性のあることではないかと思っています。
聞こえてくるものをただ聴く、とにかく浸る、
すぐに判断しないでちょっと待つ。
こういう音楽の聴き方を覚えてから、
私にとって音楽の世界がだいぶ変わりました。
同じことを、今、ボディワークの世界でしてみようと試みています。
自分の身体のなかでおきていること、
人の身体から発せられるさまざまなこと。
それらを、ただ感じる、味わう、評価しないでちょっと待つ。
しかる後に言葉で整理していく。
ただし、この態度は時に危険も伴うので、注意は必要です。
無防備にオープンにするとダメージを受けることもあるかもしれません。
安全にはくれぐれもご注意ください。