緑香庵通信

三軒茶屋から世田谷線で6分・松陰神社前のアロマテラピーサロン。

般若心経、良いっすよ

2009-03-29 06:59:53 | 「緑香庵」的なもの
お久しぶりです。
ひと月以上のご無沙汰となってしまいました。
その間のことはまたおいおいお話しするとして、
緑香庵の営業は変わらず元気にやっておりますよ。
ご心配なく。

このところにわかに興味が湧いているのが般若心経。
最近出会った本が
「えてこでもわかる 笑い飯哲生訳 般若心経」(ワニブックス)。
面白いです。

般若心経といえば、法事などで耳にしたり、
葬儀の席でお経の小冊子が配られ、
わけもわからず唱和したりしたこともあります。
何か厳粛で立派で敬虔なイメージを勝手にもっていましたが、
上記の本などで少し内容を知ってみると、
般若心経にはもっと雑多な日々の暮らしの中にある、
「優しい気持ちの素」がつまっているような気がしてきました。
今まで「ただ難しいもの」としてよそへ置いてきたお経の
本当の意味を知ることで、何かが腑に落ちることがあります。

また、お経を読むだけでなく唱えるということには
宗教的な意味合いだけでなく、身体的なあるいは
音楽的な価値があるように思います。
声明(しょうみょう)というまさにお坊さんの合唱のようなものが
ホールなどで演奏(?)されることもある昨今ですが、
確かにそもそも歌は祈りでしたから、祈りは音楽なのです。
宗教で用いられる音楽はだいたいこの祈りが基調と
なっていると考えられます。
賛美歌でも、ゴスペルでも同じでしょう。
祈りは、祈りの言葉が持つ意味そのものよりも、
その歌がもたらす身体的なバイブレーション、
感覚的な喜びが大切だと思います。

昔ゴスペルを習っていたとき先生に言われた
忘れられない言葉が「ゴスペルは神様に向かって歌うものだから、
上手に歌おうと思わなくていい。上手かどうか神様は全く気にしない。
ただ心を込めて歌いさえすれば良い。」

この言葉を今の私なりにさらに進めるならば、
心を込めて歌うとは、意識の表面で意味を歌うことではなく、
身体を込めて、脳の深部にある感覚から歌うということであり、
そのことが天にいるある宗教の特定の神様ではなく、
誰の中にもある神様に届く。

即ち、誰の脳の深部にもある情動の源に届き
身体に届くと考えられるのです。
わあ、また説明が硬いですけど。

お経を唱える自分の声、周りの人の声に
自分の感覚をゆだねていくと、
きっとなんともいえない良い気持ちになるんじゃないでしょうか。
合唱でユニゾンがぴったり決まった時
あるひとつの柔らかな塊のなかに、
ちょうどいい張力でつながっているような、
自分も他人も無いような心地よさにつつまれるのと同じで。

そう考えると、お経を何人かで一緒に唱えるというのは、
特に例えば高齢者にとってはとてもいい音楽療法ではないか
と思うのですが、いかがでしょう。
音程もテンポも自由なので、
間違ったら恥ずかしいという心配もしなくていいし。
唱歌などで子供時代を思い出し和むというのも悪くありませんが、
節回しも意味も気にせず、ただただ腹の底から身体を震わせて
音声を出すというのは、身体的精神的にものすごく良いリハビリ
だと思うのです。
それがお経ならなおさらありがたい感じもして一石二鳥ではないかしら、
って、こういう捉え方は不謹慎なのかしら。
どこかに私の親ぐらいの高齢者向けに声明指導をしてくれる、
優しいお坊さまはいらっしゃいませんかねえ。