緑香庵通信

三軒茶屋から世田谷線で6分・松陰神社前のアロマテラピーサロン。

お見送りはみんなで寄ってたかって

2013-04-07 10:33:15 | 「緑香庵」的なもの
「しぬときはひとりぼっち」というレイ・ブラッドベリの小説があった。
本当にそうだな、と思う(以下、小説の内容とは関係ない)。

生まれる時は、ひとりで生まれてくることはできない。
必ず生む人、母親が必要。
受精のためには父親が必要。
だが、死ぬ時はどうだろう。
命の火を吹き消す死神がいるのだろうか。
生き物としての人の死は、死んでいく人の中でひとりで進行し成し遂げられる。

■ 人間は看取る動物である
看護だ介護だお別れだと、主にそれは家族だが、
死に際して大騒ぎする動物が他にいるだろうか。
生物にとって最大の恐怖である「死」に意味付けし解釈することで、
なんとか折り合いを付けようとするのは、
人間に特有の仕事なんじゃないだろうか。
巨大化した大脳皮質の外側が一生懸命やっていること、つまり文化。
人間は看取る動物なのである。

■ 寄ってたかって見送る
だとすれば、いっそお見送りは社会みんなで寄ってたかってするのが、
より人間的なのではないかしら。
血を分けた子供に手を握られて最期の息を引き取ることが最良の終わり方だと、いつ誰が決めたんだろう。
何故それを固く信じているのだろう。
そうでありさえすれば、その死は孤独じゃないとでも言うのだろうか。
それはある時代のある文化の限られた小さな価値観にすぎないような気がする。
もちろん本人の望みは尊重されるべきだけれど。

子供の到着を待つためだけに、過剰な延命処置がされることもあるそうだ。
血が繋がってるからとかそうじゃないからとか関係なく、寄ってたかってみんなでお見送り、それでいいんじゃないのかなと思う。
むしろその方が孤独死なるものを避けられるような気がする。
私のような子供を持たぬものは、もうそれで寂しく惨めな死が約束されちゃったんだとすれば残念きわまりない。
そうじゃなくありたいと願う。

■ 関わる
死ぬ瞬間はできれば穏やかであればありがたいが、
それだって選べないし、どんな不条理に巻き込まれるやも知れないし。
「しぬときはひとりぼっち」だからこそ、
そのときは見知らぬ皆さんに「寄ってたかって」よろしくお願いしたい。

私もこれから出会うかもしれないお見送りには、
なるべく遠巻きにしないで、おせっかいと言われても関わろうと思うんだ。

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