前回の記事に書いた去年の芥川賞の受賞作「終の住処」を読んでから過去の芥川賞の受賞作をいくつか読んでみました。その中でちょっと印象に残ったのが、1965年度の上半期の受賞作津村節子氏の「玩具」です。多分以前に読んだことがあるような気もしましたが、短編なので内容も忘れていました。
改めて読み返してみると時代の流れを感じました。
今からちょうど45年前の作品です。作家志望の我儘な夫志郎に翻弄されながらも必死で生きていく妻春子の妊娠中、出産の直前までの心理状態が描かれています。
はっきり言って「何これ? りっぱなDVの夫じゃないの?!」今の時代ならそうとれなくもないような内容もありますが、短編なのでまるでテレビドラマを見ているかのように私は引きつけられました。
時代背景は、昭和30年頃、戦争をくぐり抜け、戦後の混乱の中で生き抜いてきた人々が新しい時代の家庭を築こうとしている時期でした。
主人公春子の夫は作家志望という特殊性はありますが、実は変わっているようだけどけっこうに巷にあふれていたような感じもする夫でもあります。核家族の大黒柱としての威厳は若い夫には重荷なのかと思わせるような、家庭を息抜きの場のように我儘に振舞う夫に妻はひたすら耐えて、家庭を守るために自分自身の精神をコントールする工夫をしていることが感じられます。私の母の世代の女性たちの若き日の葛藤を見るような思いでもありますが私たちや若い人たちの世代も本質的にあまり変わってない部分も多いような気もします。
唯、「瑠璃色の石」や「重い歳月」など津村節子氏の他の作品を読んだことのある私としては
「ああこれも私小説のジャンル」なのかなということが感じられますが、主人公「春子」は、中でももっとも「かわいい女性」のようにも感じられます。
かわいい女性と言うのは男性から見てという意味です。
確かにその後の芥川賞の受賞作品の中に登場する女性像は(男性像もですが・・・)確実に変化していっているような気がします。
つまり、男性から見たら、あまりかわいくない?女性へ・・・。
生活に優先順位をつけて自分を大切にする現代の風潮が小説やドラマの世界にも確実に広がっていっているような気もします。
何だか、「玩具」は同じ「夫婦」とか「家庭」を軸にしていながら前回の磯崎憲一郎氏の「終の住処」の対極にあるような印象すら受けます。磯崎氏の方は男性の視点から描いたものですが、この主人公の妻と女性の視点から描いた津村氏の「玩具」の春子に半世紀近い歳月・・つまり2世代近い時代の変化を感じました。
妻だけでなく夫の振舞い方にもです。
でも本質的には変わっていないかもしれない人間の(夫も妻の方も両者の)我儘さがどちらの小説にも実にさりげなく描かれていて、時々約半世紀の歳月がふっとなくなるような感じになる部分もあって、そのあたりが興味深く、でもちょっと複雑な気持ちになりながら読みました。
所詮人間はどんな葛藤があろうと人と関わらなくては生きてはいけないのですから・・・。
家族はその第一歩ということを感じます。
改めて読み返してみると時代の流れを感じました。
今からちょうど45年前の作品です。作家志望の我儘な夫志郎に翻弄されながらも必死で生きていく妻春子の妊娠中、出産の直前までの心理状態が描かれています。
はっきり言って「何これ? りっぱなDVの夫じゃないの?!」今の時代ならそうとれなくもないような内容もありますが、短編なのでまるでテレビドラマを見ているかのように私は引きつけられました。
時代背景は、昭和30年頃、戦争をくぐり抜け、戦後の混乱の中で生き抜いてきた人々が新しい時代の家庭を築こうとしている時期でした。
主人公春子の夫は作家志望という特殊性はありますが、実は変わっているようだけどけっこうに巷にあふれていたような感じもする夫でもあります。核家族の大黒柱としての威厳は若い夫には重荷なのかと思わせるような、家庭を息抜きの場のように我儘に振舞う夫に妻はひたすら耐えて、家庭を守るために自分自身の精神をコントールする工夫をしていることが感じられます。私の母の世代の女性たちの若き日の葛藤を見るような思いでもありますが私たちや若い人たちの世代も本質的にあまり変わってない部分も多いような気もします。
唯、「瑠璃色の石」や「重い歳月」など津村節子氏の他の作品を読んだことのある私としては
「ああこれも私小説のジャンル」なのかなということが感じられますが、主人公「春子」は、中でももっとも「かわいい女性」のようにも感じられます。
かわいい女性と言うのは男性から見てという意味です。
確かにその後の芥川賞の受賞作品の中に登場する女性像は(男性像もですが・・・)確実に変化していっているような気がします。
つまり、男性から見たら、あまりかわいくない?女性へ・・・。
生活に優先順位をつけて自分を大切にする現代の風潮が小説やドラマの世界にも確実に広がっていっているような気もします。
何だか、「玩具」は同じ「夫婦」とか「家庭」を軸にしていながら前回の磯崎憲一郎氏の「終の住処」の対極にあるような印象すら受けます。磯崎氏の方は男性の視点から描いたものですが、この主人公の妻と女性の視点から描いた津村氏の「玩具」の春子に半世紀近い歳月・・つまり2世代近い時代の変化を感じました。
妻だけでなく夫の振舞い方にもです。
でも本質的には変わっていないかもしれない人間の(夫も妻の方も両者の)我儘さがどちらの小説にも実にさりげなく描かれていて、時々約半世紀の歳月がふっとなくなるような感じになる部分もあって、そのあたりが興味深く、でもちょっと複雑な気持ちになりながら読みました。
所詮人間はどんな葛藤があろうと人と関わらなくては生きてはいけないのですから・・・。
家族はその第一歩ということを感じます。