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里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

中国地方の活火山、三瓶山

2008年11月02日 | 
中国地方に二つの活火山(群)があるという事を最近まで全く知らなかった。
一つは萩・笠山周辺の阿武火山群で、もう一つは三瓶山なのだそうだ。

この内、三瓶山については、
3,600年前に最後の噴火があり、今でも噴気孔から二酸化炭素ガスを噴き出してい
る所があるといい、非常に面白そうなので昨日ハイキングのバスツアーに便乗して
偵察して来た。

(三瓶山の周辺地図と登山ルート)
東の原駅→(リフト)→大平山駅→女三瓶→男三瓶→子三瓶→孫三瓶→大平山→
大平山駅→(リフト)→東の原駅    〔歩行距離≒5.7km、歩行時間≒5時間〕

先ず、標高550mの東の原駅から画面右側の雌三瓶を見ながらスキーリフト(→)で
大平山駅を目指して登って行く。  心配された雨も降らずお天気は上々だ!
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大平山駅でリフトを降り、雌三瓶を見上げると紅葉が始まっている。
雌三瓶は、反対側(子三瓶と孫三瓶の間)から見るとこんな感じで、やや急な登り
だが小手慣らしのスローペースなので余裕綽々だ。

次は男三瓶。
雌三瓶と男三瓶との鞍部から見るとこんな感じで、楽そうに見えるが登りは相当に
急で、しかも先を急がされるので大汗を掻いてしまった!

男三瓶の頂上は平坦でかなり広く360°の視界が開け、北々東には日御碕も見え
るらしいのだが、先導の講師はなおも先を急がせる。 朝5時福山発で、朝食後もう
7時間も経つというのに昼食抜きで、写真を撮るのもそこそこに出発だ!

(頂上→周辺、北々東方向の眺望)
>

次は子三瓶を目指して降る。 
これはもっと急で滑って尻餅を搗く人も出る有様だったが、鞍部に到着してようや
く昼食にありつけた。 午後12時10分、朝食後8時間目だ!
後ろを振り返ると、紅葉が始まった男三瓶が綺麗だった。

20分で食事を済ませ子三瓶に向かう。 
今日は中国5県の山岳部の大会があるとかで、100名を超える男子学生と先生達と
が、私達とは逆回りにやって来るのとすれ違った。 
暫くして後ろを振り返ると、あの男三瓶の急斜面に向かう若者達が見えた。 
私達と違って、何十キロもある荷物を背負いあの急斜面を登るとは、流石に人生上
り坂にある連中は違う! 

私達もそれに負けじと、その後幾らか楽になったコースを何とか全員事故も無く歩
き切った。 出発点に戻ったのは午後3時30分、所要時間は6時間だった!

噴気孔へは立ち寄れず生々しい火山活動を感じる事は出来なかったが、三瓶火山の
全体像を掴む事が出来て良く分かった。
講師の話では、「北側山麓の池の周辺へ5月ごろ行くと山野草が豊富」なのだそうだ。
又、その時期に噴気孔と山野草の両方を見に行くとしよう!

三瓶山
H15年に活火山の定義が見直され、概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在
活発な噴気活動のある火山を“活火山”と定義し、それに該当する108の活火山に
ついて過去の火山活動の程度によるランクが公表されたが、この中には中国地方の
二つの活火山(群)が含まれる。
一つは島根県の三瓶山で、もう一つは山口県萩市の東から北に40個余りも散在す
る阿武火山群だ。

(日本の活火山とランク)
ランク代   表   例
13有珠山、浅間山、三宅島、阿蘇山、桜島
36羅臼岳、岩木山、鳥海山、富士山、九重山
36大雪山、八丈島、三瓶山阿武火山群、開聞岳
対象外23(省 略)

(三瓶山の現在の地形)
中央の室の内と呼ばれる低地を、(左回りに)女三瓶・男三瓶・子三瓶・孫三瓶・
大平山の峰々が環状に取り囲み、その南東に約700m離れて日影山があり、更にその
外側に山々が東西約4km・南北約5kmの壁のように取り囲んでいる。
三瓶山というのは環状に連なる5峰の総称で、中央の低地の南端には“鳥地獄”と
呼ばれる二酸化炭素ガスの噴気孔がある。

(三瓶山の噴火活動の歴史)
 ①10~4万年前までに3回の大噴火が起き、現在三瓶山を取り囲んでいる
  約4×5kmの大きなカルデラが形づくられ、
 ②15,000年前の噴火で日影山が形づくられ、現在の峰々の基盤(花崗岩)を形成。
 ③4,500年前、基盤の花崗岩を突き破って噴火が起き、現在の峰々の基部となる
  ドームを形成。
 ④3,600年前、室の内火口から噴火が起き、ほぼ現在の峰々の形が出来上がった。





吾妻山

2008年10月15日 | 
今日は“里山講座”で、吾妻山へ行って来た。
講師曰く、
「福山から見るといわゆる登山だが、地元の人から見ると里山」 なのだそうだ。
しかし、山歩き初心者が多く少し心配顔だ!

やがて、標高1000mの“吾妻山ロッジ”に到着。青く澄み切った空を見上げると、
直ぐそこに山頂が見え、それに続いて南(画像の右)になだらか尾根が下っている。
一同は「なぁーんだ、大した事ないな!」といった顔つきだ。

ストレッチ体操もそこそこに、ロッジ裏手から小弥山を目指して登って行く。
なだらかな登りに一同は余裕綽々で、後ろを振り返っては景色を楽しみ、アキグミ
を口にしながら山野草を楽しみ、和やかなものだ。

(登山中の一行と、出会った山野草)

<アキグミ>
<>
<<><><><>

ところが、そこから先は急に静かになった。 登りが急になった為だ。
喘ぎながら小一時間もかかって、ようやく標高1239mの頂上に立った!

一息ついて周辺の景色を見やると、眼下にはロッジが見え、その裏手には嘗て砂鉄
をとる為に造られた“鉄穴(かんな)流し”用の池が見える。

東側に目をやると烏帽子山が見え、その南には比婆山・池の段が連なり、その後方
には比婆山山系で一番高い立烏帽子山も見える。 
殆どのメンバーが始めて見る光景なので「ワァー、素晴しい!」と大合唱だ!

私にとっては見慣れた景色で余り感動もなかったが、先月末に絲原記念館で聞いた
話の方がをつい気になった。

絲原家というのは元は備後の百姓の出身で、江戸時代初期に吾妻山北側の出雲国
の大馬木村へ移住した後に山林業も始め、藩政期には他の林業家の田部家・桜井家
と共に“たたら製鉄業”も始めて鉄師ご三家と呼ばれ、鉄師頭取を勤めたほどの家柄
だったそうだ。

江戸時代末期の奥出雲の製鉄量は我が国全体の70%にも及んだというが、明治時
代に新製鉄法が導入されると、隆盛を誇ったさしもの“たたら製鉄”も廃れてしまい、
今や“鉄穴流し”の跡が残されている程度だ。

絲原家のご先祖は、備後の国のどこからかやって来たというが、或いは、眼下に見
える烏帽子山との鞍部にある大膳原を北に越えて行ったのかもしれない?
そして、日本最先端の製鉄業を興し、やがて約280年の後に廃れてしまったのだが
その間の経緯を吾妻山は全て見て来たという訳で、感慨深い。

それにしても廃れたとはいえ絲原家、今でも本業は山林業で、所有する山は吾妻山
の北側斜面をはじめ、確か3000町歩(?)にも及ぶと聞く。
やはり凄い。 桁違いだ!


松ヶ嶽城跡

2008年10月12日 | 

登山道の途中には“姫路滝”という名ばかりの滝があった。
何でも、ここから450m登った竹林寺の南の支峰に、入野の松ヶ嶽城があったそ
うで、そのお姫様が供の女を連れて洗濯に通った事からその名がついたという。

途中の登山道には瓦礫がたくさん転がっていて、しかも勾配もかなりキツイ所もあ
り、城跡まで30分近くかかった。 どうやら、昔のお姫様というのは随分健脚だ
ったらしい?

(姫路滝の傍の東屋→その上の登山道)
>

松ヶ嶽城跡に着いたが、今は僅かに井戸の跡が残っているだけだ。

(井戸の囲い→井戸)
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戦国時代にはここへ入野氏のお城があり、西側の山麓に見える入野を見下ろしてい
たのだろうが、今は立ち木が邪魔をして全く見えない。

(嘗ての松ヶ嶽城→説明文)
>

里山にはお城や神社・お寺などが建てられていて、麓の人達との色々な関わり合い
が見られるので面白い。
その上、今回は麓の登山口で姫路滝を源流とする名水を汲んで帰った。
小野篁の名に因んで“篁水”という名をつけたらしいが、こんなお土産つきの事も
あり、結構楽しめる!  

(登山口→名水)
>



“小野篁(おののたかむら)” 伝説

2008年10月11日 | 
先月の“里山講座”は東広島市河内町の篁山(たかむらやま、標高:535m)だっ
たのだが、都合が悪くて参加出来なかった。

しかし、この山の山頂にある竹林寺には、小野篁という人にまつわる次のような
面白い話が伝わっているといい、又、篁は三蹟の一人小野道風や絶世の美女として
有名な小野小町の祖父とも言い伝えられていて、たいそう面白そうなので見に行っ
て来た。

小野篁の物語
篁山の山麓に、竹野辺秀識という人に仕える八千代という女性が住んでいた。
子供の無い八千代は、花王寺(後の竹林寺)の「千手観音」に千日の願をかけ参拝
を続けたところ、満願の日にお堂の中から童子が現れ五色の玉を授けた。

やがて802年の春に八千代は男子を出産したが、その子自ら「我こそは篁なり」と
名乗ったといい、不思議に思いながらも喜んで育てた。

篁は幼時より聡明で竹野辺氏にいつくしまれ、長じて12歳の時都に出て勉学に励
み学芸・詩歌に優れた有名な人となり、18歳の頃に関白小野大臣良相の娘と結婚
し小野篁と名乗った。

篁は時の嵯峨天皇(在位:809~823年)に仕え参議に登用され文学博士に任じられ
たが、昼は人々の為に働き、夜は冥途に至って冥官の宗帝王(文殊菩薩の化身)と
して閻魔王庁で罪を裁いた。

時がたって義父の良相が死に、冥府で危うく地獄へ落とされそうになったところを
生き返らせ、「私は、人々を救う為に人間になった。この事は決して他言するな」
と話した。
良相は娘に「篁は冥官。 決しておろそかにしてはいけない」と告げたが、
娘が夫に「本当ですか?」と尋ねたところ、
「人々を救う為にこの世に生まれて来たのに、人の世の小国で臣下と呼ばれるのは
 悔しい」と、関白の家を立ち去り、京都愛宕寺前で地底へと姿を消した。
時は852年、51歳だった。

それから100年後、生まれ変わった篁は僧となって花王寺を訪れ、冥途の十王尊像
の内9体を刻み、残りの1体は自ら生身の仏になられた。
爾来、花王寺は“篁山竹林寺”と号する事となった。


場所は、JR山陽本線・入野駅の直ぐ東側だ。

登山道の手前には個人所有のツツジ園があり、その中を通らせて貰う。
入り口には、その人が建てられた八千代像が立っている。 
この伝説の主人公を生んだ人で、生まれた子は「我こそは篁なり」と名乗ったそう
だが、“篁”というのは辞書で引くと“竹やぶ”の事だそうだ。
「我こそは“竹やぶ”なり」と名乗ったのだろうか? 興味津々だ!

(つつじ園の入り口→八千代像)
>

やがて仁王門に到着。 
少し東側へ行くと“小野篁生誕の地”の石碑が立っていて、件の物語が
「関白の家に婿養子に入り、昼は嵯峨天皇に仕え、夜は冥途で宗帝王として閻魔王
 庁で罪を裁いてところ、やがて死んだ義父が自分の前に引き出される…。」
と、書かれていた。

冥途で裁くとは随分おぞましい話だが、実の所は現世の生々しい話で、
「悪事を働いた舅を裁判官である篁が無罪にしてやったのに、感謝もせずに横柄な
 態度をとるので、愛想をつかして離婚し、実家近くのお寺で僧になった」
と、いったところであろうか? 宋帝王というのは生前の邪淫の罪を裁くという。
恐らく舅が性犯罪でも犯したのだろう!

(仁王門→石碑)
>

仁王門まで戻り正面の八千代橋を渡ると正面に本堂があった。 
子を授かる為に八千代が千日も本尊の「千手観音」に参拝 したそうで、今でも千
の手を持つ仏で何にでもご利益があるとして参拝者が多いらしい。

(上段:八千代橋の正面→側面、下段:本堂)
>

本堂の右側には十王堂があった。
生まれ変わった篁が僧となって訪れ、冥途の十王尊像の内9体を刻み、残りの1体
は自ら生身の仏になったと伝えられているそうだが、そのミイラを拝む事は出来な
かった。 残念!



上帝釈峡 

2008年08月24日 | 
今回の“里山を歩く”講座は上帝釈峡。
吉備高原の一部にあり、
帝釈川が帝釈台(約3億年前の石灰岩などからなる標高500~600mの台地)を侵食
して出来た約18kmに及ぶ渓谷で、両岸には急峻な岩壁や岩峰が連なり、天然橋・
洞門・鍾乳洞なども見られる。
嘗て、黒部渓谷・昇仙峡・長瀞・長門峡と共に日本5大名峡に数えられて以来、多
くの人に親しまれている。

“野山の植物を楽しむ”講座でもよく行く所で、今回は上流の永明寺から下流の
神龍湖畔まで歩き渓谷美を楽しんだ。

先ず最初は永明寺(→拡大)。
今は石雲山を背景に本院のみが残っているが、昔は子院七坊を有していたそうで、
帝釈峡の名の起こりとなった帝釈天を祀ってあるのだそうだ。
帝釈天は、如来・菩薩・明王に次ぐ位の天部の一つで、仏教に帰依し仏教を護る神
とされているという。 
<>

次は、鬼の唐門と(→雄橋)。
過去の鍾乳洞の一部分だけが天然橋の形として残っているもので、唐門の高さは
約8m。 雄橋は、水面からの高さ約18m、長さ90m・高さ約40m・幅約19mで、
世界の三大天然橋の一つとされていている。
同様にして出来た雌橋の他に、白雲洞(鍾乳洞)などもある。
<>

“鬼の唐門”の近くには“鬼の供養塔”が立っている。
10mに及ぶ石柱は、帝釈天に命じられて雄橋・雌橋を造った、陰陽2鬼神の供養塔
といわれている。

このコースで気に入っているのがこの長閑な石塔。
幸神、さいのかみ”、“塞の神”、“才神”、“障の神”などとも呼ばれ、村落
の境界で悪霊を塞(さえ)ぎり村落の安全を守る幸福をもたらす神として信仰され
ているそうだ。
元々は、「古事記」で、死んだ妻の伊弉冉尊を黄泉の国に訪れた伊弉諾尊が、妻の
余りにも醜い姿に驚き逃げ帰る時、追っかけて来た妻を妨害しようとして投げつけ
た杖から生まれた神とされているとか。

まーるくて“幸神”と彫ってあり、傍にはユーモラスな甕が置かれ、キツネノカミ
ソリの花も咲いている。 いかにも幸せにしてくれそうな神様で、これを見てその
他の石塔などに興味を持つようになった因縁の石塔だ!

アッという間に、終点近くの“神龍橋”に着いた。
帝釈峡は秋の紅葉の頃が最も景色が良いが、何時来ても楽しませてくれる所だ!



毛無山(1)

2008年07月17日 | 
昨日は、“里山を歩く”講座4回目に参加した。
今回は、暑さが厳しくなったので県北に舞台を移し、毛無山(標高:1144m)に挑
戦だ。

“公園センター”の前でバスを降り、イザ出発!
<><>
“ひろしま県民の森”公園センター(→)六ノ原橋(→挑戦者達)

とマァ、ここまではカッコ良いのだが我が挑戦者達を後ろから見ると、俯いて歩く
姿にはお世辞にも覇気は感じられない!
おまけに、登山コースもなだらかで、標高差344m・往復4.4kmの超楽々登山だ。

という訳で直ぐに頂上に着いてしまった。

しかし、マァ恐れていた雨にも遭わず、景色も少し霞んでいたが西の猿政山は良く
見え、爽やかな風に吹かれながらノンビリ昼食を楽しませて貰った。

(猿政山、→天気が良かったら見える周囲の山々)
<>

山野草は、
ユウスゲがたくさん蕾をつけていたが、この花は夕方でなければ開花せず、僅かに
咲き残ったササユリだけが出迎えてくれた。 ここ暫く端境期で花は望めそうに無い!
ユウスゲササユリ



石鎚山登山(2)

2008年07月08日 | 

頂上社のある弥山(標高:1974m)から南を見ると、何と更に高い山があり、そこ
へ何人もの人達が往来している。

私も荷物を全部置き恐る恐る行ってみたところ、そこには“天狗岳、標高1982m”
と書かれた標識と石塔と小父さんが立っていた。 ここが石鎚山の頂上だ!
この石鎚山、今から約1300年前に“役小角”が修行をする為に開山したという。
こんな険しい山の登山ルートを良くぞ見つけ出したものだ。 恐れ入る!
北の弥山の方向を見ると、右下に“三の鎖元小屋”が見える。 この少し下から鎖
を伝って登って来たのかと思うと我ながら感心した!
頂上で手を振っているのはどうやら家内のようだ。
とっくにリタイアしたと思ったのに感心にも、“三の鎖元小屋”から弥山の北側に
ある迂回路を登って来たらしい。
「さようなら!」 「もう帰らないからなァー!」と手を振って答えておいた!
それにしても来て良かった! 昨日早朝の雷雨が嘘の様に晴れ、富士登山以来久
しぶりに1900mを超える山に登る事も出来た。 感動した!

視線を下に向けると、“三の鎖元小屋”の下には“二の鎖元小屋”が見え、その下
を尾根伝いに登って来る人も見える。

そういえば同行のツアー客の中に、我が“里山を歩く”講座の講師も偶然参加して
いたし、下山中には“山野草”講座の仲間にも出会った。  世の中は狭い!


石鎚山登山(1)

2008年07月07日 | 
一昨年の7月に町内の人達に誘われて石鎚神社を参拝した際、中腹の成就社越しに
見えた石鎚山が気にかかっていたが、どうした事か家内が「行こう!」と言うので
石鎚山登山バスツアーに参加した。
成就社の遥拝殿遥拝殿越しに見える雲中の石鎚山

ルートは、土小屋遙拝殿からのやや易しいコースだ。


先ず遙拝殿に参拝し、その脇を通って登山開始だ!
7/1~7/10が“山開き大祭”だそうで、信者達は山の霊力が最も旺盛なこの
10日間に、山の霊気に触れて石鎚大神のご神徳を戴きに来るのだという。
それに加えて私達のような有象無象が入り乱れて、それこそ幼児から80歳台の人
達までワンサワンサの大賑わいだ。
土小屋遙拝殿緩やかな上りの先に見えて来る矢筈岩

更に登ると、左手遠方に雲海が見え、後ろを振り返ると遙拝殿脇の白石ロッジが僅
かに見え、その下に国民宿舎の駐車場が見える。 もう完全に“雲の上の人”だ!

やがて前方に、頂上社の足元の絶壁の鎖場が見えて来る。 その手前の尾根を歩く
行列はまるでケシ粒ほどにしか見えない。 ヤレヤレ前途遼遠だ!

ようやく鳥居の所へ到着。 下からは成就社から登って来る人達が居てここで合流
する。 家内はもうとっくに脱落したので置き去りだ!

いよいよ難関の鎖場だ! ここから頂上社までの距離は約600mだが鎖場を登ると
大幅に短縮できるというのに、二の鎖は数珠つなぎでとても登れそうにない。
三の鎖は空いているようなので、止むを得ず迂回路に回り三の鎖を目指す。
二の鎖その上の三の鎖

いよいよ最後の難関だ!
既に一人が登っている。

後に続いて登り始めるが、壁が殆ど垂直に近い上に岩場の凹みや鎖の輪に登山靴が入り難い。

殆ど腕力だけで約68mを20分余りで登り切った!
いやはや年甲斐も無く冷や汗を掻いてしまった!

鎖を登った先は直ぐ頂上社だ。
標高は1974m、西日本の最高峰の狭い頂上は既に満員だった!




遙照山と山野草

2008年06月20日 | 
“里山を歩く”3回目の講座に参加した。 
場所はJR金光駅の北にある遙照山。

登山ルートは、金光駅→鬼の手形岩→目鑑展望台→両面薬師→頂上(405.5m)→
遙照山ホテルで入浴、という楽々コースだ。

先ず、金光駅前の広場で周りの胡散臭そうな視線を浴びながらストレッチ体操をし
て、いざ出発だ。 
幸いにも大方の予想が外れ雨は降らなかったものの、大汗注意報が出ているようで
大汗を掻きながら街中を通り抜け、いよいよ山に差し掛かると“鬼の手形岩”という
大岩があった。

何でも、
「昔、力自慢の鬼が渾身の力を振り絞って大岩を投げたところ山の中腹にめり込み、
 後で見ると岩に鬼の手形がついていた」 という伝説があり、岩の左下の凹みが
手形らしい? どうも岡山県には鬼にまつわる伝説が多いが、?な話だ!

やがて“目鑑展望台”に着いたが、
本来なら眼下に金光の町・金光教本部・瀬戸内海・四国連山を見ながら昼食をとる
予定だったのだが、生憎曇っていて眺望は至って悪い。 まあ、雨のお茶漬けを食
べずに済んだだけでも良しだ!

気を取り直して出発。 
両面薬師を通り抜け、頂上の3等三角点にタッチして、最後の遙照山ホテルに向か
った。

一帯は、生活環境保全林整備事業として林野庁や岡山県などが開発したものらしく、
元は、金光町が経営する宿泊施設“遙照山荘”や“テニスコート・総合公園”の他
に、“簡保の宿”があったらしい。
ところが、今では金光町が経営しているのはテニスコートや野球場だけで、宿泊施
設は廃墟と化し、“簡保の宿”も民間経営に変ってしまっている!

ここでも、嘗ての農水省・郵政省・地方自治体がお金の無駄遣いをしたようだ。
どうも、山歩きをしているとこの種の“箱もの”が多く、楽しみが半減してしまう!

ところで、皆は、
「古代、ここに立てこもった鬼が傷を癒したという伝説のあるラジウム霊泉がある」
と聞いて、早速遙照山ホテルの入浴に向かったらしい。

私は、鬼達と別れ南の藤波大池を目指して周辺を散策した。 里山だけに珍しい花
は無かったが、それでも色々な花が咲いていた。

ニワゼキショウブタナ
ミヤコグサワルナスビ

藤波大池のほとりには真新しいキャンプ場が設けられ、池の周辺で自然を楽しむに
は格好の場所のように見受けられた。
この世知辛い世の中でレミングのようにひた走って集団死するのではなく、貧しく
てもこんな自然をゆったりと楽しめる世の中にした方が良いと思うのだが…!?



六十数年来の宿題、“石鎚山”

2008年06月04日 | 
残念ながら四国ではなく、我が家の南で牛の背中のように見える“石鎚山”。
長年登ってみたいと思いながらつい後回しにしていたのだが、雨の中休みの今日、
六十数年来の宿題をようやく片付けた。

(自宅近くの丘から南に見える神辺平野)


先ず、車で登って行くと殆ど頂上尾根の牛の背中に近い場所に“八反田”という集
落があった。 
丁度、年配のご婦人が居られたので尋ねてみると、
「私は嫁いで来たのだが、その時は田が8反しかないのかと思った!?」
「嘗ては9軒あったのだが今は1軒しか住んでいなくて、私も下に住んでいる」
「息子はもう止めろと言うのだが、健康の為に連れて来て貰ってこうして畑仕事を
 している」
と、陽気な返事が返って来た。
何しろ標高が275mもある不便な所なので、さぞ苦労されたのであろうか腰が90°
に曲がっていたが、私など足元にも及ばない働き者で脱帽だ!

少し登ると頂上尾根の三叉路に着いたが、
その東側には中継塔と石鎚神社(本殿?)があるだけで眺望は全く良くない。


西側には中継塔に続いて石鎚神社(拝殿?)があり、

神社の前はパラグライダーのテイクオフ場になっている。
足元の芦田川河川敷に降りるらしいが、ここから飛び降りる勇気には脱帽だ!
 
お陰で北側の眼下に広がる、大昔海だったと言う説もある、神辺平野を一望する事
が出来る。 今日は水蒸気で少し霞んで見えるがそれでも眺めは素晴しい!

六十数年来の宿題が解けて二重に気持ちが良い!
明日は又雨だそうだが、今日の山行で暫くは我慢できそうだ。