一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
自分は自分
今日お逢いした方々は子供も孫も跡継ぎもいるのに、自分達はお墓を建ててもらわなくてもいいとおっしゃっていました。その理由は子供に負担をかけたくないからだそうです。子供たちもそこまでの力がないのではと、ある意味子を心配する親心がその理由です。
私はこう答えました。
「いやそれは間違っている。お墓は亡くなる人の為だけではなく生きている人の心のよりどころとして意味がある。お子さんたちは必ずその思いがあるならば、金銭的な負担がどうこうは関係なくその気持ちに任せるべきだ」と。
なんだか、今のある程度の年配の方はこの前のブログでも述べたように自分の親と子供の両方の心配をしなくてはならず大変です。でも親をみるのは当たり前ですが、いい年した子供をそこまで気にして面倒みること自体なんだか不思議に思えてきます。何故なら子供は大変、大変といっている割にはけっこう贅沢なことをしているパターンも多いからです。
皆、車をまだ乗れるのに新車を購入するようにすぐに何かを求めすぎなのです。以前、子供に食事を与えること金銭的に困窮していてなかなかできないと言っている親がセダンの大きな車を乗っていたり、スマホをもっていたりしていて違和感を覚えると児童福祉施設の人に聞いたことがあります。いったい何をもって大変なのでしょうか。家のローンが大変ならばはじめから家を建てる方がおかしいのではないでしょうか。子供の学費が大変ならば、見栄をはらずにそれなりの教育で子供に諦めてもらうのも選択肢ではないでしょうか。
そうは言っても私もそうして親を苦しめてきた過去があります。なんだか矛盾していますが親の大変さを知っていればそんなに負担をかけなかったのにと後悔しています。
価値基準は周りに流されずに自分自身で決めるべきです。その心をもっと若いうちに養えていればもっと家族に役立つ人生が私も送れてきたでしょう。今からでも遅くはありません。周りにながされない自分を創り上げたいと思います。
私はこう答えました。
「いやそれは間違っている。お墓は亡くなる人の為だけではなく生きている人の心のよりどころとして意味がある。お子さんたちは必ずその思いがあるならば、金銭的な負担がどうこうは関係なくその気持ちに任せるべきだ」と。
なんだか、今のある程度の年配の方はこの前のブログでも述べたように自分の親と子供の両方の心配をしなくてはならず大変です。でも親をみるのは当たり前ですが、いい年した子供をそこまで気にして面倒みること自体なんだか不思議に思えてきます。何故なら子供は大変、大変といっている割にはけっこう贅沢なことをしているパターンも多いからです。
皆、車をまだ乗れるのに新車を購入するようにすぐに何かを求めすぎなのです。以前、子供に食事を与えること金銭的に困窮していてなかなかできないと言っている親がセダンの大きな車を乗っていたり、スマホをもっていたりしていて違和感を覚えると児童福祉施設の人に聞いたことがあります。いったい何をもって大変なのでしょうか。家のローンが大変ならばはじめから家を建てる方がおかしいのではないでしょうか。子供の学費が大変ならば、見栄をはらずにそれなりの教育で子供に諦めてもらうのも選択肢ではないでしょうか。
そうは言っても私もそうして親を苦しめてきた過去があります。なんだか矛盾していますが親の大変さを知っていればそんなに負担をかけなかったのにと後悔しています。
価値基準は周りに流されずに自分自身で決めるべきです。その心をもっと若いうちに養えていればもっと家族に役立つ人生が私も送れてきたでしょう。今からでも遅くはありません。周りにながされない自分を創り上げたいと思います。
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