2020@TOKYO

音楽、文学、映画、演劇、絵画、写真…、さまざまなアートシーンを駆けめぐるブログ。

■審判

2007-08-23 | ■文学
  
  高校野球の事は何も知らない。昨日、決勝試合が行われ、佐賀北高校という学校が優勝したらしい。毎年夏になると、高校生が必死になって野球をしている姿がテレビに映るので、これが高校野球というものか…と思いながら、漠然と画面を見ていることが多かった。

  今回の決勝戦では、相手チームの監督が、審判の判定に抗議するという出来事があったらしい。また、これは、高校野球では珍しいことなのだという。

  これだけ技術が進歩しているのに、スポーツの判定は、ほとんどの場合、相変わらず人の判定にゆだねられる場合が多い。フィギア・スケートの芸術点というものが最たる世界だが、野球のストライクやボールの判定も、そろそろ機械化したらどうかと思うことがある。

  サッカーもしかり。要するに、人の目と手による判定が行われるスポーツは、常に不平等を伴い、八百長を誘発する恐れがある。それほどに、我々が日ごろ目にするスポーツには、納得できない判定が多い。

  2000年10月、私はポーランドのワルシャワで、ショパン・コンクールの全貌を見た。音楽コンクールこそ、実体を掴むことが難しい芸術の評価を、(経験豊富といわれる)人間が下すものだ。

  私が投宿したのはビクトリア・ホテル。ワルシャワでは第一級の宿で、ショパンコンクールの審査員が全員泊まっていた。コンクールの受験者は、このホテルに寄りつくことさえ許されていなかったにもかかわらず、日本人の受験者の女性が、ビクトリア・ホテルの朝食ビュッフェにいる光景を何度も目撃した。

  あの時は、毛皮に身を包んだ金持ち風中国人がワルシャワの町を闊歩しており、結局のところ、ショパン・コンクールそのものが、中国と日本の学生に占拠されたような印象があった。実際、一位と三位は中国の学生だった。

  野球もピアノも、スケートも文学も、人が人を評価(検定)するものは、なかなか胡散臭い。生涯、とうとう芥川賞をとることができなかった太宰治の手紙(佐藤春夫、井伏鱒二宛)は、このことを胸が詰まるほどに訴えかけてくる。

  太宰を芥川賞に選ぶことがなかった川端康成は、選評にこう書いた。「この二作は一件別人の如く、そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった…」

  これに対して、太宰は文藝春秋に次のように反論した。「お互いに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます」。

  スポーツの場合、審判員の判定は反論の余地がないらしい。だから、わたしは、スポーツより文学の方が好きだ。文学の判定も覆られないものなのかもしれないが、少なくとも審判を受ける人間と判定する人間の位置は水平である。『あなたの文章を本屋の店頭で読み…』、川端の書いたものなど、立ち読みで十分!なんとカッコいい反撃!

  

  

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