⇒今回から新シリーズ「私の好きな歌」が始まります。
第一回はマーラーの作品ですが、クラシックにこだわらず、全ジャンルの歌を扱う予定です。ご期待ください。
ジム・ジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」の中では、最終章の“シャンペン”が一番印象に残っている。この映画は11の小話からなるオムニバスで、それぞれにコーヒーとタバコが登場する。トム・ウエイツ、イギー・ポップ、ケイト・ブランシェットなど、ドキュメントなのか?演技なのか?不可解な瞬間に満ちた摩訶不思議な映画である。
“シャンペン”は、ビル・ライスとテイラー・ミードという老名優が演じる短いドラマで、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」の中から、“私はこの世に忘れられ”が取り上げられている。場面は以下のような感じ。一応、シナリオをDVDから採録してみた。映像はジャームッシュらしくモノクロである。( )内のト書きは筆者による。
CHAMPAGNE
“シャンパン”
ビル :大丈夫か?
テイラー:そうでもないな。
ビル :どうした?
テイラー:さあなぁ 置き去りにされた気分だ
世間から忘れられて
マーラーの曲を知っているか?
“私は この世に忘れられ”を
ビル :いいや
テイラー:この世で1番…
美しくて物悲しい曲だ
こうしていると 聞こえてきそうだ
聞こえるか?
(ふたりで耳に手を当てる。彼方から音楽が聞こえる。その音楽は、マーラーの“私はこの世に忘れられ”である)。
テイラー:消えた
聞こえたか?
ビル :たぶんな
テイラー:この建物全体に響き渡っていた
ここは?
ビル :武器庫だ テイラー
テイラー:“武器庫だ テイラー”か…
何だか重々しい響きだな
“武器庫だ”
ビル :ニコラ・テスラは…
地球を1つの大きな…
共鳴伝導体だと考えた
テイラー:そりゃ一体 何の話だ?
説明してくれ
ビル :ムリだよ
テイラー:そうだ
コーヒーを シャンパンと思おう
ビル :なぜだ?
テイラー:人生を祝うのさ
金持ちの上流階級がするように
優雅にいこう
ビル :おれは労働者階級の普通のコーヒーが好きだ
テイラー:あー ヤボな奴だな
お前は いけないよ
ビル :何が?
テイラー:人生を楽しむってことを知らない
ビル :そうか?
テイラー:こんな まずいコーヒーがいいなんて
ビル :本当だ 確かにまずい
テイラー:ひどい代物さ
乾杯しないか
ビル :一体 何に?
テイラー:1920年代のパリの街に
ジョセフィン・ベイカー ムーラン・ルージュ
ケス・ク・セ サ・ヴァ パパ
ビル :それと…
1970年代のNYの街に
70年代後半だ
テイラー:そうか よし
ビル :乾杯
絶品だな
テイラー:シャンパンよ
神々の酒
昼めしはコーヒーとタバコだけか 体に毒だぞ
ビル :昼めしは食ったろ?
テイラー:本当か?
ビル :休憩でコーヒーを飲みに来たんだ
テイラー:がっかりだな
休憩は何分だ?
ビル :10分ほどだ そろそろ終わる
テイラー:ウソと言ってくれ
さあ
ビル :何だ?
テイラー:ウソと言ってくれと頼んだろ?
ビル :何がウソだ?
テイラー:おれはひと眠りするから…
休憩が終わったら…
起こしてくれよ
ビル :ひと眠りといっても あと2分もないぞ
(静かに音楽が流れ始める。“私はこの世に忘れられ”の終結部=コーダである)。
ビル :テイラー
テイラー?
(呼びかけてもテイラーは応えない。眠っているのか、死んでしまったのか…)。
ビル :いいよ 忘れてくれ
END
この映画では、ジャネット・ベイカーの歌が使われているが、他にも名盤は数多くある。私のCD棚からは5種類の演奏が見つかった。
1.クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団
2.クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
3.アンネ・ソフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ)
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 北ドイツ放送交響楽団
4.トーマス・ハンプソン(バリトン)
レナード・バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルーモニー管弦楽団
5.ディートリヒ・フィッシャーディスカウ(バリトン)
レナード・バーンスタイン(ピアノ)
クレンペラー盤とカラヤン盤は同じソリストを起用しながら、音楽の方向が全く異なる。カラヤンはオーケストラの伴奏を饒舌に語らせることで、ソロを引き立たせようとする。場合によっては、多くを語りすぎるオーケストラが少し鬱陶しいくらいである。一方のクレンペラーはこれとは対照的、淡々とソロに寄り添いながら音楽の大きな振幅を描いてゆく。私のようなカラヤン好きでさえ、この曲はもう少し静かにゆっくりと聴きたいと思ってしまう。その点、クレンペラー盤は推薦に値する。
上記の2つとも一時代前の演奏だが、これらに比較して、オッター、ガーディナー盤は現代性を感じさせて、目下のところ、私が最も好む演奏である。オッターの歌には大仰な身振りは微塵もなく、歌そのものに耽溺する気配はない。歌うというよりは静かに語るといったほうが適切なほど、ピアニッシモ=ある種の静寂=が支配する世界は例えようもなく美しい。止まってしまうのではないかと思わせるほどゆっくりとした後奏=コーダ、しかし響きは限りなく優しくこの音楽が内包している体温を伝えてくれる。マーラーの音楽につきものの厭世とか諦観とかいった観念からは遠く、後期ロマン派音楽の激情もない。この演奏と居合わせたことで、静かに、ゆっくりと時間が流れ、やがて心が満たされる。わずか数分の音楽に、これほどの力があったとは…。
「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から
“私はこの世に忘れられた”
私はこの世に忘れられた、
私はこの世と共に多くの時を浪費したが、
今や世は私の消息を聞かなくなって久しい、
私は死んでしまったのだ、と世は思うだろう!
世が私を死んだ人だと思っても、
私にはどうでもよいことだ。
また、それに反対することもできない、
私はこの世から本当に死んでしまったから。
世の騒音から私は死んでしまい
静かな所にやすらいでいる。
私はひとり私の天の中に、
そしてまた私の愛と、私の歌の中に生きている。
第一回はマーラーの作品ですが、クラシックにこだわらず、全ジャンルの歌を扱う予定です。ご期待ください。
ジム・ジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」の中では、最終章の“シャンペン”が一番印象に残っている。この映画は11の小話からなるオムニバスで、それぞれにコーヒーとタバコが登場する。トム・ウエイツ、イギー・ポップ、ケイト・ブランシェットなど、ドキュメントなのか?演技なのか?不可解な瞬間に満ちた摩訶不思議な映画である。
“シャンペン”は、ビル・ライスとテイラー・ミードという老名優が演じる短いドラマで、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」の中から、“私はこの世に忘れられ”が取り上げられている。場面は以下のような感じ。一応、シナリオをDVDから採録してみた。映像はジャームッシュらしくモノクロである。( )内のト書きは筆者による。
CHAMPAGNE
“シャンパン”
ビル :大丈夫か?
テイラー:そうでもないな。
ビル :どうした?
テイラー:さあなぁ 置き去りにされた気分だ
世間から忘れられて
マーラーの曲を知っているか?
“私は この世に忘れられ”を
ビル :いいや
テイラー:この世で1番…
美しくて物悲しい曲だ
こうしていると 聞こえてきそうだ
聞こえるか?
(ふたりで耳に手を当てる。彼方から音楽が聞こえる。その音楽は、マーラーの“私はこの世に忘れられ”である)。
テイラー:消えた
聞こえたか?
ビル :たぶんな
テイラー:この建物全体に響き渡っていた
ここは?
ビル :武器庫だ テイラー
テイラー:“武器庫だ テイラー”か…
何だか重々しい響きだな
“武器庫だ”
ビル :ニコラ・テスラは…
地球を1つの大きな…
共鳴伝導体だと考えた
テイラー:そりゃ一体 何の話だ?
説明してくれ
ビル :ムリだよ
テイラー:そうだ
コーヒーを シャンパンと思おう
ビル :なぜだ?
テイラー:人生を祝うのさ
金持ちの上流階級がするように
優雅にいこう
ビル :おれは労働者階級の普通のコーヒーが好きだ
テイラー:あー ヤボな奴だな
お前は いけないよ
ビル :何が?
テイラー:人生を楽しむってことを知らない
ビル :そうか?
テイラー:こんな まずいコーヒーがいいなんて
ビル :本当だ 確かにまずい
テイラー:ひどい代物さ
乾杯しないか
ビル :一体 何に?
テイラー:1920年代のパリの街に
ジョセフィン・ベイカー ムーラン・ルージュ
ケス・ク・セ サ・ヴァ パパ
ビル :それと…
1970年代のNYの街に
70年代後半だ
テイラー:そうか よし
ビル :乾杯
絶品だな
テイラー:シャンパンよ
神々の酒
昼めしはコーヒーとタバコだけか 体に毒だぞ
ビル :昼めしは食ったろ?
テイラー:本当か?
ビル :休憩でコーヒーを飲みに来たんだ
テイラー:がっかりだな
休憩は何分だ?
ビル :10分ほどだ そろそろ終わる
テイラー:ウソと言ってくれ
さあ
ビル :何だ?
テイラー:ウソと言ってくれと頼んだろ?
ビル :何がウソだ?
テイラー:おれはひと眠りするから…
休憩が終わったら…
起こしてくれよ
ビル :ひと眠りといっても あと2分もないぞ
(静かに音楽が流れ始める。“私はこの世に忘れられ”の終結部=コーダである)。
ビル :テイラー
テイラー?
(呼びかけてもテイラーは応えない。眠っているのか、死んでしまったのか…)。
ビル :いいよ 忘れてくれ
END
この映画では、ジャネット・ベイカーの歌が使われているが、他にも名盤は数多くある。私のCD棚からは5種類の演奏が見つかった。
1.クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団
2.クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
3.アンネ・ソフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ)
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 北ドイツ放送交響楽団
4.トーマス・ハンプソン(バリトン)
レナード・バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルーモニー管弦楽団
5.ディートリヒ・フィッシャーディスカウ(バリトン)
レナード・バーンスタイン(ピアノ)
クレンペラー盤とカラヤン盤は同じソリストを起用しながら、音楽の方向が全く異なる。カラヤンはオーケストラの伴奏を饒舌に語らせることで、ソロを引き立たせようとする。場合によっては、多くを語りすぎるオーケストラが少し鬱陶しいくらいである。一方のクレンペラーはこれとは対照的、淡々とソロに寄り添いながら音楽の大きな振幅を描いてゆく。私のようなカラヤン好きでさえ、この曲はもう少し静かにゆっくりと聴きたいと思ってしまう。その点、クレンペラー盤は推薦に値する。
上記の2つとも一時代前の演奏だが、これらに比較して、オッター、ガーディナー盤は現代性を感じさせて、目下のところ、私が最も好む演奏である。オッターの歌には大仰な身振りは微塵もなく、歌そのものに耽溺する気配はない。歌うというよりは静かに語るといったほうが適切なほど、ピアニッシモ=ある種の静寂=が支配する世界は例えようもなく美しい。止まってしまうのではないかと思わせるほどゆっくりとした後奏=コーダ、しかし響きは限りなく優しくこの音楽が内包している体温を伝えてくれる。マーラーの音楽につきものの厭世とか諦観とかいった観念からは遠く、後期ロマン派音楽の激情もない。この演奏と居合わせたことで、静かに、ゆっくりと時間が流れ、やがて心が満たされる。わずか数分の音楽に、これほどの力があったとは…。
「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から
“私はこの世に忘れられた”
私はこの世に忘れられた、
私はこの世と共に多くの時を浪費したが、
今や世は私の消息を聞かなくなって久しい、
私は死んでしまったのだ、と世は思うだろう!
世が私を死んだ人だと思っても、
私にはどうでもよいことだ。
また、それに反対することもできない、
私はこの世から本当に死んでしまったから。
世の騒音から私は死んでしまい
静かな所にやすらいでいる。
私はひとり私の天の中に、
そしてまた私の愛と、私の歌の中に生きている。