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青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
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東日本巨大地震が起きてから1年1カ月になる。もう一度3.11巨大地震の怖さを振り返って見る事も大事。
そこからもし自分がその立場にいたら、どう避難したらいいのかを考える事によって、いざとなったら冷静に行動が出来る。それにマスコミなどでも近い将来マグニチュード8以上のクラスの大地震が起きると云う話しが出ているだけに注意をしたい。これは誰でも考えてもらいたい。



そうすることによって家族を安全に導く事が出来る。それと出来るだけ予備の補助食品や水などを用意をしておくのも大事ではないかと思います。とにかく用心に越した事はない。

大津波記念碑「此処より下に家を建てるな」 #1


rkzntktさんが 2011/04/22 にアップロード
rkzntktさんのコメント
津波到達地点に関するコメントを頂きましたので、津波到達地点の様子がさらに解りやすい動画を撮影し、#2として公開しました。また、撮影の意図をrkzntktチャンネ-ルの自己紹介文に書かせて頂きました。(2011年5月14日加筆)

高き住居は児孫に和楽/想へ惨禍の大津浪/此処より下に家を建てるな/明治二十九年にも昭和八年にも/津波は此処まで来て/は全滅し生存者僅かに前に二人後ろに四人-のみ/幾歳経るとも要心あれ」岩手県宮古市姉吉地区。(2011年4月22日撮影)



明治の津波後、高所に集落を移転した例。
【現場から】「高所移転」集落救う 岩手・大船渡 | ニュース | @S[アットエス] | 静岡新聞SBS
 「明治の大津波をきっかけに、集団で高い土地に移転したんだ」。大船渡消防署の元三陸分署長の木村正継さん(64)が教えてくれた。「高さ7メートルの防波堤も幅30メートルの松林もみんな流された。でも集落は無事だった
 アワビやホタテの養殖で知られる同市三陸町吉浜の集落は、1896年の明治三陸津波で住民の2割が津波にさらわれ、壊滅状態になった。復興に際し、「また必ず大津波が来る」と確信していた当時の村長らが、高台への集落移転を強く推進した



東日本大震災の津波は標高20メートルの所まで迫ったが、わずかに低い土地にあった3戸が津波にすくわれただけだったという

 漁師が先祖代々の土地を離れるのは、かなりの覚悟が必要だったに違いない。行政も、住民の説得、移転先の道路や水道管の整備に大苦労したという。

本当にありがたいことだよ」。泥の海と化したよその集落の惨状を思い浮かべながら、柏崎美智子さん(65)がつぶやいた。

当時の人々の英断と努力が、115年後に子孫の命を救った



ネット上で多く見られた2011年4月8日付の情報
発生から4週間、現場の自衛隊員の疲労が限界に来ています。
特に精神面での負担が大きく、 発生当初の遺体はバラバラになっても原型をとどめているのですが、 水死体は膨れ上がり腐敗臭を放ち、 カラスなどに食い荒らされ性別のわからない遺体や、 ヘドロ状になった遺体から骨をすくい上げるなど、 凄まじい状況になっているとのことです

【東北関東大震災】 沢山の命を救った3人のお話


今回、連合会の特別講師の五十嵐由人氏の東北地方への支援と慰問活動の記録写真と芸能人・弁護士の皆さんとの慰問活動記録写真を紹介します。



写真前列左からジェリー藤尾氏、長沢純氏、五十嵐由人氏




 







































町を救った南三陸町の防災無線遠藤未希さん


皆さんはダイヤモンド・オンラインをご存知でしょうか。勉強になりますので是非一度はホームページを訪れてみてください。
サイトはこちら → http://diamond.jp/articles/-/15205

【第16回】 あの波ではダメだ。なめていたんだ、津波の怖さを…。

消防活動中に家族3人を失った店主の「枯れ果てた涙」
――陸前高田市の吉田無線商会店主・吉田寛氏のケースより抜粋して紹介します
是非ダイヤモンド・オンラインを読んでください。

津波が「戦場よりひどい」なんて知らなかった
死んだ人も助かった人も、津波をなめていた

陸前高田市消防団員の津波映像 フル映像その1

 この頃、真紀子さんたちの“最期”を見た人の証言を耳にした。芳弘君の同級生が、「家から300メートルほど離れたところで、3人が高台の方に向かって歩いていた」と話した。
「自分が助かった直後から、3人の目撃者を必死に探した。1人しか見つからなかった……。女房たちが5分、いや、10分早く家を出ていたら、助かったかもしれない。



 陸前高田市(震災前の人口は2万4000人)では、死者・行方不明者は2000人を超える。私は「なぜ多くの人が亡くなったのか」と尋ねた。吉田さんは、「平和ボケさ……。俺も含め、みんなが津波を軽く見ていた」と淡々と答える。



当初、防災無線は『津波の高さは3メートル』と言っていた。この警報は確かに問題なのかもしれないけど、それ以前のところに大きな原因がある。みんなが津波の怖さを知らなかった。亡くなった人も生き残った人も、津波をなめていた

 そして少し間を置き、「それに尽きる」と2回、繰り返した。



 その例外として、市民体育館を挙げた。ここは、避難所として指定されていた。震災前、防災訓練のときは、吉田さんは消防団員として住民をこの体育館に避難させていた。



「ここには津波が来ない、と防災マップに書かれてあった。みんなはそれを信じたんだ。当日は、300人ほどが避難したと思う。そのうち、遺体として見つかったのは約100人。残りの200人は行方不明。引き波で海に運ばれたのかもしれない。助かったのは、数人……」



 震災直後、遺体の捜索のため体育館に入った。床には、遺体がいくつもあった。数人の遺体の腕と腕がからまったものや、胴体しかないものもあった。居合わせた自衛隊員らは「戦場よりもひどい」と漏らしていたという消防団員の中にはショックを受け、その後精神科に通院する者も現れた


あんな小さな子の体の骨を火葬場で
拾うんだから…もう理解ができねぇ
 吉田さんの声が大きくなる。

「すぐにわかったよ……。後ろ姿、服、髪型。肩からぶら下げ、左の腰のあたりにあるバック。あおむけにして顔についた泥を取った。それで、安置所に運んだ。涙は一粒も出ない」



 10年ほど前、父を亡くしたときは1週間、泣き続けた。落ち込んで、うつ病になるような気がしたという。だが、妻の死には涙が出なかった



俺にとっては完璧な女房だった。理想中の理想。仕事はできるし、料理も上手い。あんな女はいねぇ。だけど、悲しいと思わない。何故なんだろうねぇ……。もう、俺が理解できる範囲を超えているんだ


米軍が避難所に救援物資搬送(日本政府は未対応)


Operation Tomodachi Slideshow



Operation Tomodachi




国旗は日の丸、国歌は君が代