青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
子どもは日本国の宝|私たちは【子どもをいじめと虐待、性犯罪から守る】為にあらゆる方法を講じ解決にあたります






今日は私の大親友の亜島圭二氏(あじさん)音楽雑誌「演歌虫通信」編集長で音楽評論家(演歌・歌謡曲)で作曲家・歌手・音楽プロデューサーの紹介。
それでは演歌虫こと亜島圭二さんの実録・演歌虫の第3回をお届けします。
あじさんは生まれてからすぐから多くの歌謡曲を聴き影響を受けました。子供のころから
歌手になりたい。そう思っていたあじさんの子供心に影響を与えた歌を紹介します 

上海帰りのリル(津村 謙)


リンゴ村から(三橋美智也)


憧れのハワイ航路(岡 晴夫)


東京ラプソディー(藤山一郎)


有楽町で逢いましょう(フランク永井)


湖愁(松島アキラ)


潮来笠(橋幸夫) 恋をするなら・チェッ、チェッ、チェッ・恋のインターチェンジ…(橋幸夫)


高原のお嬢さん、花咲く乙女たち(舟木一夫)


若い港(三田明)


君だけを(西郷輝彦)


恋物語(久保浩)


新聞少年(山田太郎)


…男性歌手。 美空ひばりさんの歌すべて…


実録『演歌虫』その3…
平成2年、歌手の演歌虫がアルバイトしていた新宿のバーのみどりさんに「岡晴夫偲ぶ会」の後援会副会長の関〇さんを紹介してもらった。岡晴夫以外の歌手は歌手と認めない方々の会… 勿論、以外の歌手は出入り禁止、入会不可能。



しかし、演歌虫は副会長に好かれ、歌手として初の会員となり、サンケイホールで演歌虫は「岡晴夫偲ぶ会」で岡晴夫の「逢いたかったぜ」を披露…大拍手!
席で岡晴夫の奥様と隣り合わせになった。「あなた、若い頃の岡に似ているわ。女性に気をつけて下さいね…」と言われた。岡晴夫より何歳か年上で気品の良い奥様であった。演歌虫はそれから、大勢の会員の方々に応援を受けることに…。
ではまた。



亜島圭二さんのカラオケ指導前に歌った動画をYouTubeで公開しています

『時の流れに身をまかせ』(テレサ・テン)Cover by 亜島圭二 制作・邦正企画

『バスストップ』(平浩二)Cover by 亜島圭二 制作・邦正企画

『砂時計』(小田純平)Cover by 亜島圭二 制作・邦正企画

 






今日も引き続き亜島圭二さんの実録・演歌虫の2回目を紹介

なんで私が演歌原点のルーツなのか…
私の師匠、作曲家の佐伯としを先生の父親と演歌の元祖、演歌の名付け親、添田唖蝉坊先生とは親友同士で、親は浅草のテキヤ…。佐伯としを先生はそういう環境で育ち、10代でギターを抱えて浅草、新宿、渋谷を流し歩き、二十歳にキングレコードの専属作曲家になった。



二葉百合子、三橋美智也、春日八郎などの作曲をする。北海道から北島三郎さんが佐伯としを先生の門を叩くが弟子にしてもらえなかった…。北島三郎さんは渋谷を流し歩き、食い繋ぎ、下宿していた大家さんの娘さんと結婚…クラウンレコードから歌手デビューとなる。



私はそれから20年後に佐伯としを先生の門を叩き内弟子となる。佐伯としを先生は厳しく、内弟子は3日で夜逃げ…。私は2年いた。当時のことをよく知っている当時、キングレコードの課長、成田良元氏が「あじちゃんはよく2年もいたな…」と驚く。成田さんは後、キングレコードの手腕部長で活躍、今、ウィングジャパンの代表プロデューサーで私とは大親友。



ホリデージャパンの亜樹社長、フリーボードレコードの勝間社長は成田さんの後輩である。勿論、亜樹社長、勝間社長と私は会っている。歌手の鏡五郎さんは成田さんが恩人…。作曲家の弦哲也先生、岡千秋先生も作曲家で食えない時、成田さんからだいぶ仕事を頂き、恩人だ。



 


成田さんを私はなりちゃんと呼ぶが、なりちゃんは「今の作曲家で歌手に生活とかに厳しく、また親身になって人生相談に乗る人はあじちゃん(亜島圭二)しかいないよ。」と話す。歌手のマナーが悪いのは作曲家の責任なんです。私は師匠、佐伯としを先生に歩くリズムからうるさく注意された。文章の書き方まで… また。





 

 







~蛙の子は蛙~
私の歌好きはやはり父親の遺伝子らしい…。
父親は私が生まれる前に弘前市のイベント専門歌手として、東京から歌いに来る東海林太郎さんや岡本敦郎などの歌手の前座とか、地元のイベントや祭りに引っ張りだこだった。人生は不思議…私が歌手になって岡本敦郎さんと同じステージで歌ったのだ。人生って神様が台本を書いている訳だ。この世には偶然はなく必然のみなのだ。



本職は銀行員。追っかけの7歳下の当時15歳であったファンが私の母親である。毎回、花束を持って舞台の前列に座っていたという。母親は看護婦見習いの身だった…。



お互いの両親に結婚を反対され東京に駆け落ち。すごい熱々なカップルだったようです。 まあ、1年後に結婚して17年後に私が生まれた。父親は40歳、母親は33歳。



貧乏だったので幼稚園には行けなかった。だから暇があればラジオから流れている歌謡曲を聴いていた。当時の同い年の男の子達は幼稚園で童謡だけを歌っていたね。



私は岡 晴夫の「憧れのハワイ航路」とか 若原一郎の「おーい中村君」、曽根一郎の「若いお巡りさん」などを口ずさんでいた。こんな歌謡曲三昧の幼少時代の経験が後に生きるとは!!



好きなことをずっと続ける事、モノは 何か神様の暗号が隠されている。その人間の使命を神様が教えているのだと思う。
小学校に入っても歌謡曲三昧は続くのだ。ランドセルの中には姉から貰った雑誌「平凡」の歌の付録。ラジオから聴いた歌は一度聴くだけで歌詞を見ないでフルコーラスを歌えた。



学校では休憩時間、教壇でワンマン歌謡コンサートをやりいい気になっていた。先生たちにも歌が評判良くて注意されたことがなかった。それが高校三年生まで続いた…。
小学3年の時、あることで殺傷事件を私が起こしてしまった!! 日本刀で同級生の頭を上から切りつけたのである。
何で?









今日は亜島圭二さん(あじさん)の紹介
現在、あじさんは「演歌虫通信」という音楽総合雑誌を編集、発行しながらカラオケ指導、音楽プロデュース、作曲家をしています。あじさんブログの内容は歌謡曲、演歌が中心ですが音楽全般のことを書いたり、人生観、宇宙観、社会の出来事…と幅広く書いています。


第1回「実録‐演歌虫」

私、亜島圭二が40歳になった時、「演歌虫」という自祥伝を前編、後編、青春~立志伝、幼虫時代と4冊、(未発売)書いている。 あれから17年、まさか自分が40歳までよりまたすごい人生体験をするとは思わなかった。 ブログ版 として飛び飛びですが実録「演歌虫」を連載します。
演歌虫誕生
1956年、4月2日、青森県弘前市の弘前城近くで産声を上げた…
後の演歌虫、私、亜島圭二の誕生だ。九人兄弟の七番目…後に弟が二人生まれた。
母親から聞いたが、生まれて間もなく私は歌謡曲を歌ったそうだ。



生まれた年、三橋美智也、春日八郎、三波春夫、フランク永井、石原裕次郎、コロンビア・ローズ(初代)、小坂一也が人気の的だったが、まだ1歳の私が三橋美智也の「リンゴ村から」島倉千代子の「東京だョおっかさん」 三波春夫の「チャンチキおけさ」フランク永井の「有楽町で逢いましょう」などを歌っていたという。



家では始終、ラジオから歌謡曲とか浪曲が流れていた。赤ちゃんの私には最高の子守唄だったと思う。
まさか30年後に歌手になるとは…。
ノー! 人間は生まれながら、産声を上げた瞬間…母親のお腹にいる時から… 宇宙で母親を選らんだ時から… その人間のストーリは決まっているのです。 私の人生展開で証明出来ます…。



赤ちゃんの頃からよく見る夢は都会の夜のレコード会社のネオン看板…と歌手たちが歌っているステージが多かった。
突然6年後になるが、「潮来笠」でデビューした橋 幸夫をテレビで観た私は体に電気が走った!!
「おらぁ、歌手になるべ~」 と決意したのだ…。32年後に、橋さんと同じレコード会社の専属歌手になる私です。



7歳の時に「高校三年生」でデビューした舟木一夫にもめちゃめちゃ狂い、歌声を真似る日々。30年後に舟木一夫さんと同じステージ、それもテレビ公開番組で2 回も共演!!



9歳の時は東京オリンピックだった。


井沢八郎の「ああ上野駅」美空ひばりの「柔」新川二朗の「東京の灯よいつまでも」と大ヒットの多い年だった。

新川二朗さんの師匠、作曲家の佐伯としをに私は22年後に内弟子となるのである…。



話は元に戻る…。9人兄弟に両親、11人が4畳半に生活しているのだから… まあ、貧乏を越え、便所もないから全員、弘前城の公衆便所に歩いて10分…。
白い米は食べたことがなく麦飯。土日は昼間はパンの耳。近くのパン工場に貰いに行くのが私の役目だった。3歳の私がパンの耳が大量に詰めている袋を背負う…。
必ず私は油を売るところがあった。途中、教会に入って讃美歌を聴いたり、歌ってから
「ただいま~」
母親は
「また教会かぁ~」とにっこり笑うのでした。

 

・昭和49年、青森県の高校卒業

・レントゲン技師助手
・コード店「新星堂」で働きながら歌を習う♪
・コロンビア歌謡教室の審査員が最初の師匠、作曲家の市川昭介。
・その後、作曲家の佐伯としをの内弟子となり作曲を学ぶ。
・一時、歌から離れイラストレーター
・喫茶情報雑誌の編集長を経て昭和61年に歌手デビュー。
・平成 2年、リバースターから「その名は亜希子」でメジャーデビュー。
・平成4年に歌 手休業、カラオケ指導に専念…
・平成12年 に音楽総合雑誌「演歌虫通信」(手作り )を創刊。
・平成24年春、音楽評論家、プロデューサーとして熊本の八千代座にてカラオケ公開講座を成功させ100回目の イベントを達成した。

 

・平成25年、1月20 日、愛海の歌手デビュー曲「愛、火のように京都」で作曲家デビューを果たす。カラオケDAM配信中。
・また、親友でもある歌手、大和晃三郎に当年7月7日に新曲「白虎隊~花の影~」 「炎の男・五十嵐由人~若者よ~」昨年 の6月10日、椿はる奈の新曲『逢いた きゃ酔うのさ』『なみだの竜飛崎』を作 曲提供。カラオケDAM配信中。
・昨年の2月、7月、歌手樋口ひろしと協賛、樋口ひろし歌謡祭で司会、歌 。102回目のイベント達成。
・今年、2月15日、樋口ひろしに新曲『カラオケスナック』『男泣きたきゃ赤提灯さ』を楽曲提供、大阪で演歌虫通信創刊15周年記念祭開催予定、また沢はじめに今年5月21日にリリースする新曲『サザンクロスと夕陽とおまえ』『霧に泣く』、大和晃三郎には今夏新曲予定『大忠臣蔵・大石内蔵助』『日本全国元気音頭』を楽曲提供した。
・また、世界初の「シンフォニー曼荼羅」をヒーリングシンガーARENAで2015年7月レコーディング。秋にはそのDVD発売する。

特技…遠隔 気功、料理、雲消し、相手の手のひらに金粉を出す、スプーン曲げ、霊 感手相、似顔絵イラスト。
趣味…カフェ巡り、神社巡り、歩くこと 出身…青森県弘前市 、東京デザイナー 学院卒業 血液A型


亜島圭二のブログフェイスブック

http://ameblo.jp/keizi-a/

 
https://www.facebook.com/azima.enkamushi 

『逢いたきゃ酔うのさ』(作詞/祐田 彰 歌/椿はる奈)亜島圭二作曲Cover by 亜島圭二