ひろむしの知りたがり日記

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八雲、講道館流柔術との遭遇 《第4部》 嘉納治五郎、柔術諸流派の達人を語る

2016年07月03日 | 日記
「柔術:武器を使わないさむらいの武術」の内容を、もう少し追いかけてみることにしましょう。

本論文では引き続き、いくつかの流派の創始者や主だった人物を挙げていきます。
しかし話をわかりやすくするために、順序は逆になりますが、その後に語られている柔術において「勝利を得る」方法についての説明を、先に紹介したいと思います。

柔術には「地面に力いっぱい投げつけたり、喉を絞めたり、地面に抑えつけたり、相手が体を起したり自由に動けないように壁に押しつけたり、相手が痛みなどに堪えられないように、腕や足や指を捻ったり曲げたりする」技術があり、流派によっては秘術として「当身、活」を教えます。
当身は「相手を殺したり、傷つけたりするために、体のある部分を打ったり、蹴ったりする術」のことで、活とは「暴行によって仮死状態になった人を生き返らせる術」です。
各流派はこれらの全部、あるいは一部を用いて相手を制します。

嘉納治五郎とトマス・リンゼーは、外国人ら柔術を知らない人たちのために、これらの術についてもう少し踏み込んで説明しています。
たとえば講道館柔道が最も得意とした投げ技の原理については、「相手の重心をはずし、相手が立てないように、引いたり押したり」し、「力よりも技によって、相手に平均を失わせ、地面に力いっぱい投げ飛ばすことである」としています。また簡単にではありますが、首の絞め方や関節技で使われる身体の部位、首を絞められて窒息した人に対する活の入れ方にまで言及しています。

では、これらの術を駆使して戦う柔術には、どのような流派があるのでしょうか。
楊心流や起倒流についてはすでに触れましたが、楊心流には前述の秋山四郎兵衛義時創始のものだけでなく、同じく肥前長崎の医師三浦楊心を祖とするものもあります。起倒流にしても、流祖を福野七郎右衛門正勝とするものや、その弟子筋に当たる寺田勘右衛門(正重、のち満英)とするものなど諸説があり、その起源の探究は早くも複雑怪奇な様相を呈します。

ほかに「数百もあるだろう」流派の中から、犬上左近将監長勝が創始した扱心流、関口柔心(弥六右衛門氏心<うじむね>)が始めた関口流、そこから派生した渋川伴五郎義方の渋川流、治五郎が最初に学んだ流派で、磯又右衛門正足が起こした天神真楊流が紹介されています。

また、起倒流の飯久保鍬吉恒年(治五郎の師)、扱心流の江口弥三、関口流9代目関口柔心、渋川流8代目渋川伴五郎、楊心流(三浦系)の戸塚英美ら本論文発表当時に存命していた各流派後継者の名が挙げられているのも、徳川時代ほどの勢いはないにせよ、古流柔術がまだまだ健在であったことを示していて興味深いものがあります。


愛宕神社の境内に立つ「起倒流拳法碑」。碑文には、陳元贇の名も見えます(東京都港区愛宕1-5-3)

さて、ラフカディオ・ハーンのエッセイ「柔術」を読んだ人が不満に思う点があるとすれば、それは柔術家が相手の力を利用して、魔法のようにいともたやすく敵を倒すことができるらしいというのはわかっても、実際にどのような達人がいて、どのような技を使ったのか、具体的な話が何も語られていない点ではないでしょうか。

その辺り、さすが時代遅れと見なされていた柔術を講道館柔道として生まれ変わらせ、世界中に広める礎を築いた嘉納治五郎です。講演の聞き手(論文の読者)を楽しませ、関心を惹くこと間違いなしの、「高名な柔術家の話」という章を設けています。

ここで挙げられたエピソードは以下の4つです。

(1)約200年前、紀州徳川家の家来だった関口柔心を、殿様がその腕前を試そうと、一緒に庭の橋を渡っている時、徐々に端へと押していきました。柔心はまさに水の中に落ちそうになったその瞬間、くるっと向きを変えて殿様の身体をすり抜けて反対側に回ったのです。そして彼を押した拍子にバランスを崩し、逆に落ちそうになっていた殿様を掴み、「気をつけなければなりませんぞ」と言ったので、殿様はひどく恥ずかしい思いをしました。
話はこれだけでは終わりません。後日、他の家来がもし相手が敵だったら、助けた時に殺されていただろうと柔心を非難しました。すると彼は、自分も同じことを考えたので、殿様を掴んだ際に袖に小柄を突き刺しておいて、相手が殿様でなければ刺し殺せたということを明らかにしたと答えたのです。

(2)寛永年間(1624-1644)、越前福井の八幡宮の祭りで武芸大会が行われました。見分役の柳生但馬守(宗矩)に、ある高名な柔術家が試合を挑みましたが、但馬守はそれを断ります。それでも柔術家は諦めず、突然但馬守を引き倒そうとしました。ところが但馬守はたちまち柔術家を掴んでひっくり返し、ものすごい力で地面に投げつけてしまいました。

(3)40年程前、寺田五右衛門が江戸・本郷近くの水道橋を通っている時、水戸徳川家の行列と行き会いました。先払いの家来たちが五右衛門を跪かせようとしますが、彼は自分のような身分の武士は、大名の駕籠がもっと近づいてからでなければ、その必要はないとはねつけます。それでも跪かせようとした先払いたちは五右衛門を何度も投げ倒そうとしましたが、逆に全員地面に叩きつけられてしまいました。加勢にかけつけた家来たちをも投げ飛ばして彼らの十手を奪った五右衛門は大名屋敷まで走り、「拙者はこれこれの身分の武士で、もし跪けば自分の殿様の威厳にかかわります。こちらの殿様の家来を投げねばならなかったことは誠に申し訳ありませんでしたが、自分の威厳を保つためには、どうしてもそうしなければなりませんでした」と言って、家来たちから取り上げた十手を返したのです。感心した水戸公は五右衛門に自分に仕えるよう勧めましたが、彼は現在の殿様の下に留まると、その申し出を断りました。

(4)扱心流の犬上郡兵衛は、ある日茶屋で有名力士の小野川と出会い、酒を酌み交わします。しきりに力自慢をする小野川に、郡兵衛は「どんなに頑強な筋肉を持ち、声も身体も大きな相撲取りでも、この老人(郡兵衛)を負かすことはできないだろう」と言いました。怒った小野川は、「では、試してみよう」と郡兵衛を庭へ連れ出して掴みかかります。そして「さあ、逃げられるか」と言ったのです。それに対して郡兵衛が「もちろんだとも。お主がもっとしっかりと捕まえていないとね」と答えたので、小野川はさらに固く掴んで同じ質問をしました。すると郡兵衛も同じ答えを返します。それを3度繰り返した時、郡兵衛が「もう、これ以上はできないかね」と言ったので、小野川はほんの少し握りを緩めて、より強く絞めようとしました。するとその瞬間、彼は地面に投げ飛ばされてしまいました。小野川はもう1度試みますが結果は同じで、驚いて郡兵衛の弟子になったということです。

これらの話のうち、(2)はやや異質な感じがしますが(ただし、柳生但馬守と柳生新陰流は、起倒<乱>流の誕生に深く関わっています)、その他は敵がどんなに力が強かろうと、人数が多かろうと、一瞬のうちに倒してしまう柔術の達人の凄技ぶりをよく物語っています。

論文は最後に、天神真楊流と起倒流を学んだ嘉納治五郎が、その他の流派をも広く研究して柔道を作り上げたことを述べ、その高名な門弟として西郷四郎、山田(富田)常次郎、山下義韶、横山作次郎の講道館四天王を挙げています。

また警視庁においても、主催した武術大会で治五郎の門弟たちが見せた強さに着目し、それまで警察官たちが学んでいた古い流派の柔術を、柔道に切り替えたことを誇らしげに語っているのです。

ここで注意しておきたいのは、講道館柔道をこれまで論じてきた柔術とは別物と扱っているわけではないということです。
最終章のタイトルも、「最近の柔術の進歩」と、講道館柔道の誕生を柔術の発展の延長線上にあるものと位置づけ、「この流派」とあくまで柔術の新興流派として書いているのです。

明治21(1888)年当時では、講道館柔道に対する世間の認識とはこのようなものであり、ハーンが自らのエッセイの題名を「柔術」としたのも、まさに、彼が治五郎の柔道を「嘉納流(講道館流)柔術」と見なしていたからでしょう。

ところで、前にも書きましたように、ハーンは治五郎とリンゼーによるこの論文を参考にしたと考えられています(「柔術」の注釈には、「嘉納氏は数年前、『アジア協会紀要』に、柔術の歴史に関する、きわめて興味ぶかい記事を寄稿されました」との記述があります)。
それにもかかわらず、日本の伝説や昔話を数多く紹介している彼が、なぜ本論文に取り上げられた興味深い柔術家たちのエピソードにまったく触れていないのでしょうか?

それは、彼が本当に書きたかったことが、柔術の技の不思議さや凄さではなく、もっと別なもの、その背後にある日本独自の精神や文化についてであったからです。


【参考文献】
綿谷雪、山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
トマス・リンゼー、嘉納治五郎著、小野勝敏訳「柔術─武器を使わないさむらいの武術」
 『岐阜経済大学論集』9月号(16巻3号)岐阜経済大学学会、1982年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年