ひろむしの知りたがり日記

好奇心の赴くまま
なんでも見たい!
知りたい!
考えたい!

雪の世田谷歴史散歩 <後編> 豪徳寺 ─ 大老井伊直弼も眠る招き猫の寺

2014年02月16日 | 日記
松陰神社を後にして、雪中行軍で豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺2-24-7)を目指します。
途中、国士舘大学に立ち寄ってしばし暖を取り、人心地がついたところで再び白銀の世界へ。ようやく目的地にたどり着きました。天候さえよければ快適な散歩コースなのでしょうが、降りしきる雪を衝いて進むとなると、ちょっとした冒険行です。
電車で行くなら、東急世田谷線の宮の坂駅が最寄りです。山号は大谿山<だいけいざん>。もとは文明12年(1480)に世田谷城主吉良政忠が、亡くなった叔母の菩提を弔うために創建した小庵で、彼女の法名「弘徳院殿久栄理椿大姉」にちなみ、弘徳院といいました。開山馬堂昌誉の宗派である臨済宗のお寺でしたが、天正12年(1584)に門菴宗関<もんなんそうかん>が住職となり、彼が属する曹洞宗に改宗されました。
寛永10年(1633)に世田谷領15ヵ村(のちに20ヵ村)が彦根藩に江戸屋敷賄料として与えられると、藩主井伊家の江戸における菩提寺となります。2代藩主直孝<なおたか>の没後、長女の亀姫(掃雲院<そううんいん>)によって伽藍の整備が進められ、大名家の菩提寺にふさわしい大寺に生まれ変わりました。この時、直孝の法名「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなんで、豪徳寺と改称されました。


両脇の木立も真っ白な雪に覆われた豪徳寺の参道


豪徳寺の山門には「碧雲関」と書かれた扁額が掲げられています

山門をくぐってまっすぐ進むと、大きな香炉の背後に延宝5年(1677)建立の仏殿(区指定文化財)が建っています。その前を左に折れた先には井伊家の墓所が広がっており、直孝をはじめ、江戸藩邸で亡くなった藩主やその家族の墓塔が並んでいます。
ここに墓がある人物の中で最も有名なのは、桜田門外の変で命を落とした13代藩主井伊直弼<なおすけ>でしょう。安政5年(1858)4月大老に就任、勅許を待たずに日米修好通商条約など安政5ヵ国条約に調印しました。また、13代将軍徳川家定<いえさだ>の後継者を慶福<よしとみ>(のちの家茂<いえもち>)に決定し、敵対する一橋慶喜<ひとつばしよしのぶ>(のちの15代将軍)を推すグループを一掃します。さらに安政の大獄で、前回取り上げた吉田松陰ら多数の犠牲者を出します。こんなことをやっていては、「井伊、許すまじ!」の声が高まるのは当然の成り行きで、ついに万延元年(1860)3月3日、上巳の祝儀のために登城する途中に、桜田門外の松平大隅守邸前で水戸の脱藩浪士たちの手にかかって暗殺されました。享年は46でした。


井伊直弼の墓。彼が殺害されたのも、本日のような雪の日でした

笠石に井伊家の家紋橘<たちばな>を配し、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と刻まれた墓碑は、昭和47年(1972)4月19日に都史跡に指定されています。
平成21年から22年にかけて井伊直弼ほか3基の墓の改修工事が行われましたが、この工事にともなう調査で、直弼の墓には石室・石槨がないことが判明しました。このことから、豪徳寺の墓には彼の遺骸が埋葬されていないかのような報道もなされましたが、東京工業大学が行った地中レーダーによる探査の結果、深さ2.2メートルあたりに0.8メートル四方ほどの埋葬主体が存在する可能性が高いことがわかっています。
井伊家墓所内には、直弼を守ろうと戦って命を落とした家臣のため、27回忌に際して建てられた「桜田殉難八士之碑」や、鉄砲足軽だった遠城謙道<おんじょうけんどう>の墓などもあります。遠城は慶応元年(1865)に出家し、以来明治34年(1901)に79歳で亡くなるまでの37年間、直弼の墓畔に暮らし、その掃苔に余生を捧げました。藩はその忠義に報いるため2人扶持を給し、直弼遺愛の茶室を住まいとして与えています。

 
白銀の雪に埋もれた境内はまるで別世界。寒さを忘れて見入ってしまいました

仏殿のそばには、猫観音を祀る招福堂があります。豪徳寺といえば招き猫の寺として有名ですが、井伊家との結びつきにまつわる伝説が残されています。
ある夏の昼さがり、井伊直孝は郎党5、6人を引き連れて遠乗りに出かけました。弘徳院の門前にさしかかると、一匹の猫がしきりに招いています。直孝たちが寺内に入ると一天にわかにかき曇って大雨となり、今までいた場所に雷が落ちました。危うく難を逃れた直孝はこれを奇縁とし、そののちも度々訪れて、ついには井伊家の菩提所になったというのです。直孝を寺に招き入れた住職の愛猫タマは、豪徳寺に福を招き、隆盛をもたらしたということで、招福観音として崇められるようになりました。
招福堂の向かって左脇には、大小さまざまな招き猫がびっしりと並べられており(「招福猫児<まねぎねこ>」といいます)、なかなか壮観です。ここで招き猫を買って、願いが叶った人がさらにご利益があるようにと返納したものだそうで、その数の多さに、「猫観音サマ、大活躍ですね!」と思わず喝采を贈りたくなります。
また、堂周辺の絵馬架けには、招き猫が観世音菩薩や干支の動物とともに描かれた絵馬が鈴なりに架けられており、見ているだけで楽しい気持ちになってきます。

 
招福堂脇に溢れかえらんばかりに並べられた招き猫の置物(上)と、開運招福の絵馬(下)

さて、豪徳寺の雪景色を心ゆくまで堪能した後は、彦根藩世田谷領を管理する代官所だった世田谷代官屋敷(郷土資料館を併設)を見学してから三軒茶屋に戻り、熱々のアンコウ鍋をいただくことになっています。それを励みに、もう一ふんばりです!
みなさんとはここでお別れしますが、この周辺には世田谷吉良氏が拠った城の遺構が残る世田谷城阯公園をはじめ、見るべきところがまだまだあります。いずれ機会を改め、ご案内することにいたしましょう。


【参考文献】
竹内秀雄著『東京史跡ガイド⑫ 世田谷区史跡散歩』学生社、1992年
街と暮らし社編『江戸・東京 歴史の散歩道5 渋谷区・世田谷区・中野区・杉並区』街と暮らし社、2003年
世田谷区立郷土資料館編『幕末維新 近代世田谷の夜明け』世田谷区立郷土資料館、2012年