振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

日本海も大山も一望できた米子城跡

2018-06-06 15:03:14 | 旅行
宿を出た後に荒神谷遺跡、それから和鋼博物館を見学したが少し時間に余裕ができたので思い付きで米子城跡に寄った。

ホントは少し前にNHKのブラタモリで視た松江城に登ってみたかった。

番組によると松江城は最近まで築城の時期を証明できなかったが築城時に城の柱に打ちつけられていた祈祷札が最近になって近くの神社で発見され、その祈祷札の釘穴と柱の釘穴が完全に一致。祈祷札に書かれた年月日から1611年の築城が証明され、晴れて国宝に指定されたらしい。その釘穴を見たかったのだ。

話が横に逸れてしまったが松江城に立寄ると和鋼博物館を見る時間が足らなくなる恐れがあったので割愛して代わりに米子城となった次第だ。

車を城跡西側の湊山公園駐車場に停め、標高90メートルの湊山山頂にある本丸跡を目指して登った。15分くらいして息が切れ始めたころに本丸跡が見えた。



鉄門跡の石段を登って行くと天守台はすぐそこだ。



眺望が一気に広がり東の方角を望むと少し霞んでいるが大山の山並みが見える。



北方を眺めると市街地の向こうに弓ヶ浜、日本海、そしてその向こうに恐らく美保関と思われる陸地が見える。



西の方角には中海が広がっている。



天気が下り坂なのでスッキリと見えないが晴れた日なら眺望は素晴らしいだろう。



米子城は明治政府の廃城令で解体されるまで鳥取藩の池田氏の城で実際は家老が預かっていたそうだが米子から帰宅して疑問がわいてきた。

徳川幕府が1615年に一国一城令を出したのになぜ鳥取城と米子城の二つが存在したのか?

まず1615年時点の米子城主は米子藩6万石の加藤氏で一国の大名のであるから一国一城令による廃城の対象ではないと考えられる。しかし2年後の1617年に加藤氏は伊予大洲に転封され米子城は鳥取藩主池田光政の一族の預かりとなり、実質的には鳥取藩が二城支配したことになる。

一国とは8世紀に律令制で定められた国(因幡や伯耆)を指したり、一大名が所領するエリア(池田氏の因幡+伯耆のエリア)を指したり、大大名には例外もあって徳川幕府も都合良く使い分けたようだ(個人的推測です)。

長門と周防の2か国を所領する毛利藩は一国一城令が出るや周防岩国にあった城をあわてて解体したらしい。一国イコール一大名の領地、と考えたのだろう。

どんな政策も一律に推進することが難しいのはいつの時代も変わらないらしい。








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