臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(4月10日掲載・其のⅡ・決定版)

2011年04月18日 | 題詠blog短歌
[馬場あき子選]


○  津波退きしがれきの山に雪つもるこれが東北というがごとくに  (東京都) 久保田仁

 “瓦礫”は漢字で正しく記して初めて意味の解る言葉となるのであって、「がれき」などと“ひながな書き”しても、何のことか解りません。
 場合にもよりますが、本作の場合は手抜きとしか言えません。
 また、詠い出しの「津波退きし」も音数合わせみたいな感じがしますから、一首全体、推敲の余地の残された凡作と思われます。
 馬場あき子先生ともあろうお方が、どうしてこんな下手な作品を首席にお据えになったのでありましょうか? 
 〔返〕  瓦礫なす浄土ケ浜に雪積もる地獄の果を見るが如くも   鳥羽省三


○  地震の中で赤ちゃん産んだお母さん温かいシチュー届けてあげたい  (富山市) 松田わこ

 “スープの冷めない距離”という言葉もありますから、それはご無理な願望でありましょう。
 〔返〕  ぶたさんの貯金箱に貯めていたお金を現地に送ってあげてね   鳥羽省三


○  生きてゆかねばならぬから原発の爆発の日も米を研ぎおり  (福島市) 美原凍子

 近頃は“無洗米”と称して研ぐ必要のない「米」もありますよ。
 かなり高めではありますけど。
 〔返〕  原発の爆発の日はパンを食べその翌朝はご飯を食べた   鳥羽省三  


○  屋上に夜を明かし徒歩六時間帰宅せり君が言う津波地獄図  (仙台市) 伊藤 和

 「君が言う」とまで「言う」必要があったかどうかは分かりませんが、詰め込み過ぎた為に、かなり窮屈な表現になっていることは事実でありましょう。
 〔返〕  屋上に一夜明かして帰宅せりわずか一里を六時間掛け   鳥羽省三
      君が言ふ地獄図ならむ我が家への道に累々死体重なり     々


○  震度6強の実家に父母はいる呼び出し音十回・十一回応えぬ恐怖  (盛岡市) 菊池 陽

 大幅な字余りがある以上は、短歌と見做せません。
 「応えぬ恐怖」とまで言う必要はありません。
 先ずは定型。
 次に韻律。
 この二条件を満たしていないものを短歌と認めてはいけません。
 “新聞歌壇”の如き短歌の普及を図ることを目的とした場に於いては、特に厳格にしなければなりません。
 〔返〕  震度6強のボロ家に父母居りて電話幾たびすれど応へず   鳥羽省三


○  こんなにも悲しく響く東北弁聞きたることなし巨大地震は  (名古屋市) 山田 静

 加害者たる「巨大地震」が、被害者たる「東北弁」の予想外なる悲しい響きに吃驚仰天している、というご趣向かと思われる。
 尋常なる発想や表現では、到底選ばれることが出来ないと思っているのでありましょうが、いくら何でも、「巨大地震」が「こんなにも悲しく響く東北弁聞きたることなし」と驚いている、という趣向は無理でございませんか?
 〔返〕  「こんなにも高い所に上がっては出漁出来ぬ」と漁船は嘆く   鳥羽省三


○  大震災避難者の記事前にして妻はいかなご炊くを止めたり  (神戸市) 内藤三男

 作者の居住地の違いも無視できませんが、“永田和宏選”の首席・坂本捷子さん作と比較した時、本作の説得力の無さが余りにも目立つのである。
 〔返〕  いかなごの佃煮を炊きつつ思ふ彼の日の我らと今日の彼らと   鳥羽省三


○  避難所の人みな人を気遣ひぬ人とはかくも美しきかな  (小松市) 沢野唯志

 脳天気ですね。
 “新しき村運動”を凌ぐほどの脳天気さと思われる。
 ここまでの脳天気振りを発揮されると、自分が短歌に携わっている者の一員であることが恥ずかしくもなる。
 〔返〕  “気”はさらに見えませんけど“気遣い”ははっきり見える気遣い嬉し   鳥羽省三


○  立ち直るしかないねと言う被災者の深き目皺のひとすじの涙  (横浜市) 大建雄志郎

 「これでもか、これでもか」という感じで、趣向を変えて来るのであるが、所詮、厳粛なる事実の前の、果敢ない表現に過ぎません。
 〔返〕  独力で立ち直るしかありません原発以外は自然災害   鳥羽修三  

今週の朝日歌壇から(4月10日掲載・其のⅠ)

2011年04月17日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]


○  大地震の間なき余震のその夜をあはれ二時間眠りたるらし  (仙台市) 坂本捷子

 作者の居住地は、東日本大震災の被災地たる仙台市である。
 あの「大地震」の恐怖の記憶も醒めないままに、その後も絶え間なく続く「余震」の揺れに怯えながらも、「その夜」私は「あはれ二時間」も「眠りたるらし」と、かりそめの一睡から覚めた作者は、ついさっきまでの哀れな我が営みを振り返って、溜息を漏らしていらっしゃるのである。
 「あはれ」の語源は「ああ、われ」、「ああ、この哀れな私よ」と、溜息を漏らすことであるとか?
 そうした性格の語である「あはれ」の意味と働きを十分に活用させてお詠みになった佳作として観賞させていただきました。
 斎藤茂吉の著名な連作『死にたまふ母』の“其の一”の七首目に「たまゆらに眠りしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや」という作品がある。
 本作の作者・坂本捷子さんは、その存在を十分にご意識なさったうえで、本作をお詠みになられたものと思われます。
 だとすれば、本作は、3月28日の朝日朝刊の「短歌時評」で、田中槐氏がお述べになって居られた「データベースの先に自分の作品があることを自覚」したうえで、「かけがえのない私の経験」をお詠みになった作品と申せましょう。
 あの大震災から一ヶ月余りが過ぎた今になっても大地震とも言うべき余震が続き、福島第一原発事故の始末もつかないで、我が国は国際社会に醜態を曝すやら、同情をされるやらの状態である。
 その間、「朝日歌壇」には震災関係の作品が津波の如く寄せられると推測され、多くの入選作が掲載されている。
 しかし、その多くは、一通りの出来栄えを示しながらも、テレビ画面から切り取って来たようなステレオタイプの作品であり、あの厳粛なる事実の前には、いかなる表現も空しいと感じされるばかりなのである。
 その理由は、「それ、格好の材材を得た」とばかりに拙速に過ぎたこと。
 もう一点上げるならば、田中槐氏がお述べになっているところの「かけがえのない私の経験」をお詠みになって居られないか、もしくは「かけがえのない私の経験」を、自分の胸の中に収めてから、その十分なる醗酵を得てからの作品とは言えないことなどである。
 そうした中に在って、本作こそは醗酵の度合いはともかくとしても、「データベースの先に自分の作品があることを自覚」したうえで、「かけがえのない私の経験」を十分に詠み切った作品と申せましょう。
 本ブログには、“NHK短歌”や“朝日歌壇”の入選作の鑑賞記事の他に、“題詠blog2011”の投稿作の鑑賞記事も掲載しておりますが、その巧拙は別としても、それぞれ特色があって大変興味深い。
 概して申せば、“題詠blog2011”の投稿作の多くは、発想の点に於いては卓越したのも在るが、推敲の度合いや完成度の点に於いては“NHK短歌”や“朝日歌壇”の入選作と比較すると、かなり劣っているように感じられるのである。
 そこで申し上げますが、私は、本作のような「「データベースの先に自分の作品があることを自覚」したうえで、「かけがえのない私の経験」をお詠みになり、かつ、その完成度も高い作品を、“題詠blog2011”へのご投稿者の方々、特に年若い初心の方々にお読みいただきたいと思っているのである。
 老い先が短く根性の曲がった評者・鳥羽省三から、創作意図を故意に外したような読みを示されて、「この恨み、生涯忘れないぞ。覚えていろ。この死に損ないめ」などとの、「この作品を、こんな風に読むとは、鳥羽省三さんもまだまだ勉強が足りません。私の作品には、今後一切触れないで欲しい」などとの、恨みがましいコメントを、しかも匿名でお寄せになられるようでは、あなた方の歌詠みとしての、現在も未来もありません。
 そんな寝言を言う前に、このような優れた作品を一首でも多く読みましょう。

 〔返〕  小半時も眠りし哉やうたた寝の夢の中でも余震に揺られ   鳥羽省三
  また、この方の作品は、本日(4月17日)放送の“NHK短歌”でも拝見させていただきましたので、後日、鑑賞させていただきます。
 

○  遺体ある瓦礫に印の赤い布手を合わす母あり隣にも  (本宮市) 廣川秋男

 まだまだ推敲の余地のある作品と思われます。
 〔返〕  赤き布風に靡ける瓦礫あり両手合はせて老婦膝つく   鳥羽省三


○  挨拶はあれから変わり人に会えば言うなりご無事でしたか  (筑西市) 櫻井みふみ

 心なしか、「“ごっこ”をなさって居られるような感じ」と、恨みがましい気持ちにもなるのである。
 でも、被災地から遠く隔たった九州の方々のお気持ちも、私たちとは何ら変わりが無いとも思われます。
 〔返〕  「揺れましたね」との挨拶今朝もまた夜ごと夜毎の余震に揺られ   鳥羽省三


○  燃料がなくて車が動かないあきらめたまま今日もすぎゆく  (仙台市) 三角清造

 首都圏でのガソリン不足は、あれから半月余りで解消されましたが、被災地の仙台ではまだまだなのでありましょうか?
 でも、解消されたとは言え、いつの間にか高値になりましたね。
 近頃は、レギュラーが1リットル150円台ですよ。
 〔返〕  アルプスの清水並みの高さなるガソリン飲んで走るホンダ車   鳥羽省三


○  絹雲が煌めく星を隠す夜余震におびえ車中泊する  (茨城県) 河野久子

 夜空に「絹雲」が湧くのは、昔から地震の予兆とされているのでありましょうか?
 もし、そうだとすると、下の句の「余震におびえ車中泊する」という表現は、予定調和めいた表現となり、作品としては少し面白くなくなりましょう。
 それはそれとして、「星」も見えない「夜」に、「余震におびえ車中泊する」。
 茨城県でもそうなんですね。
 〔返〕 野良猫が互ひに呼ばう闇の夜に余震に怯え銭湯に行く   鳥羽省三  


○  ぶしつけな問いにも静かに答えるは父母を波にさらわれし人  (太田市) 川野公子

 悲しみの渦中に在る者に対して耳に逆らうような「ぶしつけな問い」掛けをする者が居る。
 それでも、「問い」掛けられた者は「静かに答える」ということは、通常でもよく在り得る場面なのかも知れません。
 願わくば、我が拙い文章が、そうした「ぶしつけな問い」掛けになりませんように。
 〔返〕  不躾と思ひながらも訪ねたし瓦礫重なる被災地の跡   鳥羽省三


○  三月の十日の新聞手に取れば切なきまでに震災前なり  (新座市) 中村偕子

 「切なきまでに震災前なり」という下の句の表現が「切なきまでに」宜しい。
 「切なきまで」の表現、「切なきまで」の一首として観賞させていただきました。
 〔返〕  波洗ふ浄土が浜を訪ねむと切なきまでに愚かなりけり   鳥羽省三


○  被災地に帰国して行く子も交り全校生徒が黙禱ささぐ  (アメリカ) 西岡徳江

 この作品に接しながら、アメリカさんは、何処まで面倒みてくれるのだろうか?
 「黙禱」を捧げてくれはするが、お金は出してまではくれないのだろうか?
 日本がこれまでに支払った、膨大な国連の分担金や政府開発援助(ODA)供与などはこれからも続けるのであろうか?
 などなどと、口にしながら顔を真っ赤にしなければならないようなことまで口にしたくなるような心境なのである。
 〔返〕  逸早く帰国を急ぐ研修生貰えるものはがっちり貰い    鳥羽省三
      逃げ足のさすがに速いアスリート白鵬関は重くて逃げず    々 
 

○  古きほど汚れたるほど誇れるを政治家は着る新品ナッパ服  (宗像市) 巻 桔梗

 「洒落を言っている場合ではありません!」と叱り飛ばしたくもなる場面ではありますが、被災地から遥か離れた九州の方であれば、やはりあの珍妙な服装をからかいたくもなりましょうか?
 忘れていけないことは、災害時に現地に居て直接人命救助や復興作業に従うことをしないような人たちにも、ああした服装をさせるように仕向けたのは、明治以来一貫して極右的政治家を国家のリーダーのように思って来た、愚かな国民大衆である、ということである。
 民主党内閣の閣僚だけが、センスも団扇も無くて、ああいう珍妙な服装をしているのではない、ということである。
 評者としては、「自民党の金城湯池の九州に居て何を言うか」とでも叫びたいところである。
 とは言え、ああした愚劣な習慣は、一日も早く止めさせなけれはなりません。
 あのセンスの無い服装だって、ただでさえ不足する国家予算から支給されるに違いないからである。
 〔返〕  土塗れ油塗れになるだけが仕事に非ず職務さまざま   鳥羽省三


○  絶対に天罰などであるものか幼子なくせし母の慟哭  (長浜市) 山田貞嗣

 石原都知事のもの言いは確かに不謹慎である。
 しかしながら、彼は前言をいとも容易く翻して立候補したにも関わらず、あれほどの絶対的な支持票を受けて見事当選したではありませんか。
 ということは、政治家には品格が必要でないということである?
 少なくても、現在の東京都には、そのような考えの下に都知事を選択した愚かな有権者が260万人余りもいるということでありましょうか?
 〔返〕  天罰は石原都知事に下らずに東京都民に下されるのか?   鳥羽省三

歌手・飛柿マチカさんの消息(noahさんからのコメントに寄せて)

2011年04月16日 | ビーズのつぶやき
 起き抜けに“コメント一覧”を開いたところ、“noah”さんと仰る方からの「幼馴染」というタイトルのコメントが、昨日の午後から保留状態のままになっていたのに気がついたので早速公開させていただきます。
 取り敢えずは、“noah”さんからのコメントを、原文のままに、此処に転載させていただき、その下に、“noah”さんが当該コメントを本ブログにお寄せになられた動機を為したと思われる拙文をも再録させていただき、併せてそれらについての私自身の感想を述べ、コメントの発信者“noah”さんへの謝辞とさせていただきます。

 
     「“noah”さんからのコメント」

 「幼馴染・・・ (noah)/2011-04-15 15:45:07/初めまして、/突然ですが・・・/あの飛柿マチカさんと仰るポップス系の女性歌手は・・・/小学校3年~4年生のときの、クラスメイトでした。/とっても、歌の上手い子でした。/お寿司屋さんの娘さんで、明朗活発な子でした。/中学、高校と、別々になってしまい、疎遠になってしまいましたが/大好きな友達でした。/池田市にまだ、実家があるのでしょうか?」


 「“noah”さんが、上掲コメントをお寄せになられた発端となったと思われる拙文」

○  今週の第一位はと言ったのちデデデデデデとひびく太鼓よ   夏実麦太朗

 今から30年以上も前のことを思い出しているのでありましょうか?
 司会者が「今週の第一位は」と叫んだ後、思わせ振りに数秒間の間を置き、そして再び「今週の第一位は“サン・トワ・マミー”を歌われた飛柿マチカさんでした」と叫ぶと、テレビ画面一杯に「太鼓」が「デデデデデデ」と鳴り響くのでありました。
 で、あの飛柿マチカさんと仰るポップス系の女性歌手は、一体、今頃、何処で何をして暮していらっしゃるのでありましょうか?
 数年前までは、クラブ歌手として、ジャズのスタンダードナンバーを歌って、人気を博していらっしゃるとお聴きして居りましたが、その後絶えて彼女に関する情報は耳にしません。
 彼女が“全日本歌謡選手権”という、その頃の人気番組の優勝者となったのは1970年代でありましょうか?
 同じ時期に、後年「雨雨降れ降れ、もっと降れ」と歌った、あの超有名女性歌手も亦、それと同じ番組の優勝者になったのでありました。
  〔返〕 「今週のブービー賞は菅改造内閣の与謝野大臣でした」と叫ぶ   鳥羽省三


     「上掲二項に関わる私の感想及び“noah”さんへのお礼の言葉」

 上掲の拙文を記したのは今年の1月15日のことでしたのに、その内容についてはすっかり忘れておりました。
 わずか三ヶ月前に綴った文章の内容をすっかり忘れてしまうのですから、今の私にとっては、当ブログの更新を毎日行うことが、自分自身の果てし無い“老い”や“呆け”との戦いみたいなものなのかも知れません。
 発端は、昨年行われた「題詠2010」のお題「079:第」への夏実麦太朗さんのご投稿作でありました。
 夏実麦太朗さんの作品自体は、作者ご自身が格別にお力を注いでお詠みになったとも思われないような、ごく軽めの作品のようにお見受けしたのでありましたが、私としては、その題材について思い当たることがあったので、鑑賞対象の作品とさせていただいたのでありました。
 作者の夏実麦太朗さんは、私と同世代の男性なのでありましょうか、「今週の第一位はと言ったのちデデデデデデとひびく太鼓よ」という当該作品の題材となっているのは、1970年代の日本テレビ系列の人気番組「全日本歌謡選手権」のことかと思われました。
 「全日本歌謡選手権」とは、新人歌手発掘の為の“オーディション番組”の一つであり、見事十人勝ち抜きに成功し、その後、歌手としてデビューして名を成した人の名前を列挙すると、「五木ひろし(出場当時の芸名は三谷謙)・天童よしみ・八代亜紀・中条きよし・真木ひでと(GSのオックスの野口ヒデト)・山本譲二」などの有名歌手の名が上げられるし、十人勝ち抜きこそならなかったが、「井沢八郎・南こうせつ・青山ミチ・ウイリー沖山・林家パー子・芦屋小雁・石野真子・片平なぎさ」などの有名人も数多くの出場者の一人であったのであります。
 拙文中の「今週の第一位は“サン・トワ・マミー”を歌われた飛柿マチカさんでした」という表現中の「飛柿マチカさん」も亦、見事十人勝ち抜きに成功した歌い手の一人でありましたが、このフレーズは、「今週の第一位は“リンゴ追分”を歌われた天道よしみさんでした」とか「今週の第一位は“ヨコハマたそがれ”を歌われた山本譲二さんでした」などとする手もあり、いろいろ迷いましたが、私は、その時その場の思いつきで、“天童よしみさん”や“山本譲二さん”を捨てて“飛柿マチカさん”を選んだ次第でありました。
 その時、その場の思いつきとは言え、後年名を成した有名歌手を選ばずに、敢えて無名に近い“飛柿マチカさん”を選んだ理由はそれなりに在るはずであり、それらの一端を上げると、私の記憶の中では、彼女が十人勝ち抜きに成功した時期が、後の国民的大歌手・八代亜紀さんが十人勝ち抜きに成功した時期と重なっていたこと、彼女の歌った曲目が、その番組の一般的な傾向とは大きく異なったジャズ・ポップス系であったこと。
 更にもう一つ言えば、八代亜紀さんとほぼ同世代と思われる彼女のイメージが、“全身これ演歌歌手”“ザ・芸能人”といった感じの八代亜紀さんとは明らかに異なり、やや影を帯びていて、決して華やかと言えるような顔では無いが何処かにバタ臭さも感じさせるような顔、もう少し言わせていただければ、そのバタ臭さの中に普通の主婦としても十分にやって行けるような可能性をも覗かせないでもないようなイメージ、ご結婚なさってご主人との間に出来た娘さん二人を大阪教育大学付属池田小学校に入学させて、ご自身はプラダのハンドバックの中にハイカラなスリッパ一足と化粧道具を入れて、一週間に三度もPTAマダムの会合にご出席なさっていても、少しも不思議でないようなイメージだったからでありましょうか?
 合格後一年ぐらい経過した頃、同じ番組のゲストとして、八代亜紀さんと一緒に彼女が出演していたことが、私の微かな記憶の中にあります。
 その頃の八代亜紀さんは、プロの演歌歌手として、その後の大活躍を予見させるような順調な歩みを見せていただけに、私は、彼女・飛柿マチカさんのその後の活躍振りに大いに期待しておりました。
 しかし乍ら、司会者の長沢純さんの質問に答えて、「八代亜紀さんとは違って、今の私は、クラブ歌手としてそれなりに充実した歌手活動をしています」などと答え、私をがっかりさせたようにも記憶しております。
 彼女についての記憶はそれまでであり、その後の彼女の消息については、私には皆目見当がつきませんでした。
 それなのに、夏実麦太朗さんのあの作品に接した瞬間、私の頭の中に彼女の記憶が突如甦ったのは、真に不思議なこととも申せましょう。
 そうそう、たった今、気がついたことですが、夏実麦太朗さん作の短歌の題材となったのは、私が本稿で採り上げている「全日本歌謡選手権」ではなく、同傾向の番組ながら、それより若い世代を出場対象とした「スター誕生!」、或いは、私の知らない全く別の番組であったのかも知れません。
 いや、「今週の第一位はと言ったのちデデデデデデとひびく太鼓よ」という表現内容から判断すると、夏実麦太朗さんの作品は、明らかに「全日本歌謡選手権」とは異なるテレビ番組から取材したものに違いありません。
 だとしたら、私がこれまで記して来た文章は、私の記憶違いに基づいて書かれた“砂上の楼閣”の如き文章ということになりましょうが、それはそれとして、以後、夏実麦太朗さん作の短歌とは関わりのないような関わりのあるような形で、歌手・飛柿マチカさんの消息に関わる本稿をこのまま書き続けさせていただきます。
 “noah”さんからのコメントに拠りますと、「飛柿マチカさんと仰るポップス系の女性歌手」と“noah”さんとは「小学校3年~4年生のときの、クラスメイトでした」とのことであり、また、その当時の飛柿マチカさんは、「とっても、歌の上手い子」で「お寿司屋さんの娘さんで、明朗活発な子」でしたが、彼女と“noah”さんとは、「中学、高校と、別々になってしまい、疎遠になってしまいました」が、“noah”さんにとっての彼女は「大好きな友達でした」とのことでもあり、「池田市にまだ、実家があるのでしょうか?」とのことでもあります。
 インターネットの検索窓に「飛柿マチカ」と入力して、検索ボタンを押してみると、
彼女に関する情報が幾つか検索できます。
 その中でも特筆するべきことは、彼女が赤坂のクラブ「月世界」の専属歌手であったこと。
 また、テレビ東京系列の連続テレビドラマ『純愛山河・愛と誠』(池上季実子・夏夕介主演)に“デビ”という愛称のスケバンとしてレギュラー出演していたこと。
 ドーナツ版のシングルレコードを何枚か出したものの、あまり売れなかったように思われることなどである。
 だが、それらのいずれもが、「全日本歌謡選手権」に出場したから間も無くのことであり、最近の彼女に関する情報は、何ひとつ手に入らないのが実情である。
 ところで、今更こんなことを申すのも恥ずかしいのであるが、インターネットというものはなかなか興味深く、便利な通信手段である。
 一人の暇人が自分の管理するブログの中に書き流した、一首の短歌の鑑賞記事の中に、ほんの思いつきで、今となっては無名とも言うべき一人の女性歌手の名を書き記す。
 それは、ほんの気紛れの行為であり、書き記した当人にとっても、翌日になれば忘れてしまいそうにもなる行為に過ぎなかったのである。
 それなのにも関わらず、それから三ヶ月も過ぎた頃に、たまたまその記事を目にした一人の女性が、その無名の女性歌手が、かつての自分のクラスメイトであったことを思い出し、ブログの管理者に、その女性歌手と自分との関わりを説明したコメントを寄せるのである。
 かくして、ブログの管理者にとっては、消閑の道具の一つでしか無かったブログの記事が、俄然生きたものとして立ち上がり、意味のあるものとして立ち上がり、その命の輝きを増すのである。
 印刷媒体での作品発表とは異なった、インターネット媒体での作品発表の利点とは、こうした点に在るのではないでしょうか?
 インターネットの双方向性とは、こうした現象を指して謂うのではないでしょうか?
 “ノワ”さんとお読みするのでしょうか?
 “noah”さん、この度は大変ありがとうございました。
 フリーライターとは名ばかりで、その実情は、暇を持て余している年金生活者の一人でしかない私は、このブログの更新を毎日の生活の要として居りますが、グーグル社から寄せられる情報に拠ると、私のこの拙いブログにアクセスされる回数は、連日二千回余りに達し、読者と呼べるような方々も、五百人余りもいらっしゃるということであります。
 だが、その管理者たる私には、当記事の執筆者たる私には、何処の何方がどういうお気持ちで、私の書き殴った記事をお読みになって居られるのか、さっぱり見当がつきません。
 したがって、私の毎日のそうした営みは、まるで暗黒の曠野を独り歩きしているような空しく当ての無い行為に過ぎません。
 そうした折に、私が過去に書き流した記事に関しての真摯なるコメントに接することが出来たことは、何物にも替え難い楽しみであり、励ましともなりましょう。
 つきましては、今後とも何卒宜しくご愛読賜りたくお願い申し上げます。
 お暇がございましたら、またコメントをお寄せ下さい。

一首を切り裂く(005:姿・其のⅡ)

2011年04月15日 | 題詠blog短歌
(伊倉ほたる)
○  うらおもて半分ずつの本音持つ後ろ姿の猫はさみしい

 つい先日、散歩の途中、尻尾だけが真っ黒くそれ以外は真っ白い猫を目にしましたが、私は寡聞にして未だ、体の半分が白く、残り半分が黒い猫を目にしたことも耳にしたこともありません。
 ところで、本作の作者・伊倉ほたるさんは、大の猫好きの猫女であり、『猫友日めくりカレンダー』の四月号の表紙にも「裏路地の仔猫の目にも桜花 春のてのひら総てをつつむ」「降り注ぐ春の光にのびをして桜咲く道猫とおりゃんせ」「ふうわりと春に抱かれてまどろんだ仔猫の夢と綿毛の行方」の三首が掲載されているのである。
 したがって、作中の「うらおもて半分ずつの本音持つ」「猫」とは、実在する「猫」かも知れませんが、たとえそんな「猫」が実在したとしても、その「本音」は、裏腹な心を併せ持つ女性たるご自身の実存の「さみしさ」をご披瀝なさったもの、或いは、横縞なシャツを着たり縦縞のシャツを着たりしているご主人の趣味の悪さを「さみしさ」とお感じになられたもの、として享受するべき作品でありましょう。
 併せてもう一点申し上げると、本作の作者は、ご自身やご亭主の矛盾した生き方をも鑑みて、ただ単に「うらおもて半分ずつの本音持つ」「猫はさみしい」と仰って居られるのでは無く、それにもう一捻りを加えて、「うらおもて半分ずつの本音持つ」「猫」の「後ろ姿」を見せられた時は「さみしい」と仰って居られるのである。
 つまり、ご自分にしろご亭主殿にしろ「うらおもて半分ずつの」毛並みを持つ「猫」の如く、一身に白黒の「本音」を併せ持っていることに対しては、人間の本質というものはそうしたものであるから、その一面を見せたり見せられたりする時はそれほどの哀しみやさみしさは感じないが、それが「後ろ姿」となって、一挙にその両面を同時に見せたり、見せられたりした時は、とても哀しく「さみしい」と仰って居られるのである。
 わずか三十一音の中に、これだけの深い内容を込められて詠んだ作品は、あまり類例がありません。
 傑作中の傑作です。
 でも、傑作を傑作と理解し、評することの出来る鑑賞者の存在を無視してはいけません。
 有頂天になってはいけません。
 「千里の馬は常に在れども伯楽は常には在らず」とは、何の謂でありましょうか?

 〔返〕  おもてうら常ならず見せ読み人の評価為し得ぬ歌詠みならむ   鳥羽省三
      おもてうら翻しつつ舞ふ花の評価定めぬ歌詠みのあり        々
      路地裏の泥棒猫にも餌をやる底の知れないお人好しなり       々
 一時的な不調から完全に脱却されたのであれば、評者としても嬉しいのですが、なにしろ白く見えたり黒く見えたりのこの頃ですからね。
 本当に世話の焼けることです。


(藤田美香)
○  似たような後姿を追いかけて僕らは誰も見つけられない

 上句に「似たような後姿を追いかけて」とありますが、「追いかけ」られる「後姿」とは、いったい何方の「後姿」なのだろうか、などと思ったりしながら読みました。
 下句に「僕らは誰もみつけられない」とあり、それを手掛かりにして、その「後姿」のオーナーを推測してみますと、彼の名は、案外、作中の「僕ら」自身なのかも知れません。
 何故ならば、「僕ら」即ち“私たち”人間は、例外無く“私たち自身”の「後姿」を「見つけ」ることも掴まえることも出来ませんから。
 自分の首根っこをぐいっと掴まえて駐在所に突き出したという男の話は、今までただの一度も聞いたことがありませんからね。
 それとは別に、「僕ら」が「似たような後姿を追いかけて」いるという点についてですが、これは、私たち人間は誰しも、人生の真実乃至は理想、或いは幸福な生活を追求しているということの比喩であり、また、追求される“人生の真実乃至は理想、或いは幸福な生活”の内容は、例外無く「似たような」ものであるということの比喩でもありましょう。
 “平明な言葉の運びの中に人生の真実を述べた佳作”として観賞させていただきました。
 〔返〕  「掴まえた!」と思ったけど夢だった僕らは昨日を逮捕出来ない   鳥羽省三


(ちょろ玉)
○  君のその後ろ姿に叫びたい 「好きだよ、でも」に続く言葉を

 「君のその後ろ姿に叫びたい」と言い、その「叫びたい」内容の種明かしをするかの如く見せかけて「『好きだよ』」と言うのであるが、それで終わらずに、「『好きだよ、でも』に続く言葉を」と肩透かしを食らわすところが、いかにも悪戯好きな“ちょろ玉”さんらしいところである。
 本作の如き短歌を称して、世の人々は“ポップアート的短歌”と言うのでありましょうか?
 〔返〕  僕のあの後ろ姿を掴まえたいデモに出掛けて捕まる前の   鳥羽省三


(たたんか)
○  べつものと知ってかすかに揺れている 姿三四郎と三四郎

 夏目漱石の小説『三四郎』の主人公と富田常雄の小説『姿三四郎』の主人公とを同一視することは、いかにも在りそうな話である。
 かく申す評者も亦、青春の一時期まで両者を混同して居りましたが、でも、「べつものと知って」からは、格別に「揺れ」たりしないで、高校生相手に、「同じ名前でも、一方は夏目漱石作の純文学の主人公。他方は富田常雄作の大衆小説の主人公。悩みの質が違うんだよ。悩みの質が」などと喚いて居りました。
 〔返〕  蟹股と猿股とも亦ちがうよね股ずれ防止にサルマタを穿く   鳥羽省三


(青野ことり)
○  姿勢よく一時間半待ちました わたしに落ち度はあったのですか

 「姿勢よく一時間半待ちました」からといっても、“青い鳥”は必ずしも向うから飛んで来るとは限りません。
 したがって、「わたしに落ち度はあったのですか」などと開き直られても困ります。
 でも、貴女にも確かに「落ち度」がありました。
 その「落ち度」とは、「姿勢」を正して長時間待ち続けていれば、必ず幸福になれると信じているような、社会常識に欠けている点である。
 〔返〕  姿勢よく一時間半待ちました雪だるまのごとクリスマスイブに   鳥羽省三


(千束)
○  姿勢良く前を見つめて踏み出せばしあわせになれると信じていました

 こちらも亦、初歩的な社会常識に欠けていらっしゃる方の作品である。
 「姿勢良く前を見つめて踏み出せばしあわせになれる」んだったら、某独裁主義国軍の兵士たちは、みんな「しあわせになれる」はずですよ。
 折も折、今春、近所の幼稚園に入園したばかりの園児たちが、男女仲良く手をつないで「姿勢良く前をみつめて」桜吹雪を浴びながら行進して行くのを見たばかりです。
 私は、「この子らの未来が『しあわせ』でありますように」と祈るような気持ちで見ているだけでした。
 〔返〕  千束の稲を束ねて稲架に掛く百姓の父いつも前向き   鳥羽省三


(周凍)
○  かすみてふ春のころもにしのぶれど目もあやなるは花の寝姿

 逆もまた真なり。
 〔返〕  霞てふ春の衣にしのぶれば目には見えずも花の寝姿   鳥羽省三


(船坂圭之介)
○  自我の無き孤立を盾と降る星の下へ残余の姿晒しつ

 「自我」を張っての「孤立」にも困らせられますが。
 〔返〕  自我の無き孤立に楯の備へ無く矢玉鉄砲弾無惨に浴びつ   鳥羽省三


(空音)
○  防御服白く膨らみ鶏舎へと向かう姿は鶏に似て

 地震騒ぎに話題性をすっかり失ってしまいましたが。
 〔返〕  防御服胸の辺りの膨らみて牛舎へ向ふ乙女なるらむ   鳥羽省三


(南葦太)
○  君もまた直視できない姿だろう 自意識の肥満体と化して

 「自意識の肥満体」とは誰のこと?
 〔返〕  我らまた明日を直視できぬかも放射能降る祖国となりて   鳥羽省三


(安藤三弥)
○  見慣れてる姿は遠いシルエット ほんとは君の指も知らない

 大変失礼ではありますが、「見慣れてる姿は遠いシルエット」で「ほんとは君の指も知らない」のだとしたら、本作の作者・安藤三弥さんは、「君」のストーカーに過ぎない、ということになりませんか?
 でも、ごく軽度の、しかも悪質でない、清らかなストーカーと思われますから、これからお二人の仲が急速に深まり、地震騒ぎの収まった頃には、目黒の雅叙園で目出度くゴールインといった運びになることも十分に考えられましょう。
 〔返〕 知ってたのいつも何げに見てたけど私のことを好きだってこと   鳥羽省三


(月夜野兎)
○  本当の姿を見せる勇気なく いつも気丈なオンナ演じる

 「本当の姿を見せる勇気なく」「いつも気丈なオンナ演じる」とは、意外にも、本作の作者・月夜野兎さんは、気弱な年増なんでしょうか?
 〔返〕  本当の俺の気持ちを見せないで いつも紳士を装っていた   鳥羽省三


(水絵)
○  霞かと思えば黄砂の桜道 歩く遍路の姿おぼろに

 “西国三十三箇所巡り”の「桜道」と言えば、二番札所の和歌山市の“紀三井寺”でありましょうか。
 あの付近の今年の染井吉野の開花期は三月末日頃から四月初め頃かと思われますが、その時分にも、某国からの迷惑プレゼントの「黄砂」が桜並木の巡礼道に降り敷いていたのでありましょうか?
 だとしたら、桜吹雪に加えて「黄砂」が降り注ぎ、「歩く遍路の姿」が「あぼろに」霞んで見えたのでありましょう。
 〔返〕  断わりも無しに漢字を使うなと責める国から黄砂の見舞い   鳥羽省三


(みち。)
○  吐き出した嘘が纏わりついてきて最初の姿を思い出せない

 一つの「嘘」に百の「嘘が纏わりついてきて」、吐いた当人も吐かれた被害者も「最初の姿を思い出せない」状態になることは、よく在る話である。
 〔返〕  吐き出した嘘が百余の胞子出しそれに百余の嘘絡み付く   鳥羽省三


(子帆)
○  メルヘンはてめぇてめぇと叫んでる人をひつじの姿に変える

 「ひつじ」と言えば、気弱で無知で迷ってばかりの、どちらかと言うと善良な人間の比喩として使われるのが通常であるが、本作の場合は「てめぇてめぇと叫んでる人をひつじの姿に変える」とあるので驚きました。
 で、「てめぇてめぇと叫んでる人」とは、もしかしたら、あの筋の方々を指して言うのかと思って納得致しました。
 つまり、本作の趣旨は、「メルヘン」の世界を舞台として、あの筋の方々を真人間に変えようとするストーリーの教導訓話でありましょう。
 〔返〕  酒を飲みうめぇうめぇと叫んでる人を羊に変えたいもんだ   鳥羽省三


(不動哲平)
○  斜めにはもう歩けない 最涯の地下通路にて姿勢をただす

 本作の趣旨は、詰まるところ「人間という者は、堕ちるところまで堕ちると自然に真人間に帰ろうとするものである」といったことでありましょう。
 作中の「最涯の地下通路」とは、“堕ちるところまで堕ちた”地点を指し、「斜めにはもう歩けない」とは、“堕ちるところまで堕ちた”結果としての“蠢き”乃至は“悩み”であり、「姿勢をただす」とは、真人間に帰ろうとして蠢き悩んだ結果としての到達点でありましょう。
 〔返〕  斜めには進みたくない角も在り子らの将棋は我が儘将棋   鳥羽省三


(豆田 麦)
○  だだこねるその姿さえいとしくてゆるむ口元むりやり締める

 短歌の世界では“孫誉め歌”は禁色の一つとされているようでありますが、それも一つの因習でしかありません。
 悪い作品を悪いと言い、良い作品を良いと言うことが許されるならば、可愛い孫を可愛いと言うことも許されるはずでありましょう。
 豆田麦さん、どうぞ宜しく孫バカ丸出しのお婆ちゃんになって、優れた“孫誉め歌”を沢山沢山お詠み下さい。
 〔返〕  おならするそのお尻さえ愛しくておむつを剥いで嗅いでみました   鳥羽省三
 お爺ちゃんのおならは、ただ単に臭く汚らしいだけですけどね。


(尾崎弘子)
○  高い木の姿が人の形して不思議なり古い杜の夕べは

 発想そのものはなかなか宜しいのであるが、推敲不足の目立つ作品と思われます。
 〔返〕  亡き祖父の影に似てゐる樹も在りてゆかしき杜の夕べなりけり   鳥羽省三


(砂乃)
○  反り返る姿勢を保つザリガニは私に怒っているわけじゃない

 煮干に騙されて釣り上げられた時の「ざりがに」の表情は、砂乃さんや私に対して、本当に怒っているような感じですからね。
 本当のところは分かりませんよ。
 「この糞ばばー、この鋏でその素っ首をちょん切ってやる」などと言っているのかも知れませんよ。
 「ザリガニ」には、女性の年齢や美醜の判別は不可能と思われますからね。
 〔返〕 反り返る姿勢を保ちしコマネチも今は皺苦茶ババアなるらむ   鳥羽省三


(かきくえば)
○  朝焼けに姿勢をただし苦笑い君の眠るラブホテルを出る

 同じ「ラブホテル」での情事にしても、お相手になった女性への愛情と敬意を持つことが大切である。
 それなのに何ごとですか。
 「朝空けに姿勢をただし」しかも「苦笑い」をして職場に直行するとは。
 一体あなたは、職場が大切なんですか、彼女が大切なんですか。
 職場はあなたにあんな丸裸なサービスをしてくれませんよ。
 〔返〕  時節柄職場が大事と嘯いて彼女を置いてラブホテル出る   鳥羽省三


(新野みどり)
○  真っ直ぐな姿勢で街を歩こうと決意固めて三日月を見る

 その内容は何であれ、「決意固めて三日月を見る」とは、戦国の尼子の武将・山中鹿之介のような悲愴さを込めてのことでありましょう。
 ところで、新野みどりさんには、わざわざ「三日月」を見てまで「決意」を固めなれればならない理由が何かお有りなんですよ。
 山中鹿之介の場合は、主家たる尼子家の再興を掛けてのことですから仕方がありませんが、新野みどりさんの場合は、たかだか「真っ直ぐな姿勢で街を歩こう」と思うだけのことですよ?
 察するに、貴女の恋人は、火付け強盗の容疑者として、日本全国に指名手配中なんでしょう。
 ならば、貴女のお気持ちは解ります。
 解ります。
 〔返〕  偏頭痛起してるから真っ直ぐに街の通りを歩けないんです   鳥羽省三


(壬生キヨム)
○  新聞を読んでないのに開いてる彼氏の姿も嫌いではない

 そんな「彼氏」を好きになる女性も確かにいらっしゃるんですね。
 〔返〕  値上げ後に煙草を吹かすようになり財務省から表彰された   鳥羽省三


(佐田やよい)
○  地下鉄の窓に四月の違和感が私のような姿で映る

 全く同感である。
 一年十二ヶ月の中で、バスに乗ってても、電車に乗ってても、歩いてても、一番多く「違和感」を感じるのは、私にとっても他の何方にとっても「四月」なんですね。
 それに、「地下鉄」に乗ってる時に、ただ暗いだけの「窓」に自分の「姿」が映ってるのを見てると、それが自分で無いようなあるような「違和感」を感じることも確かなことであります。
 桜の散り際でありましょうか?
 本作の作者・佐田やよいさんは、半蔵門駅から渋谷方面行きの「地下鉄」を乗っていて、「窓」に映る自分の「姿」を発見し、その「姿」が自分で無いようなあるような「違和感」を感じたのでありましょう。
 一仕事終わって、ようやく春を迎えたと言うのに、千鳥が渕の桜は瞬く間に散ってしまった。
 そこで、その後の楽しみや生きて行く目標までも失ってしまったような虚脱感に陥っているのでありましょう。
 〔返〕  URの1DKの壁にある茶色の滲みよ前住者の滲み   鳥羽省三
 

(長月ミカ)
○  何があれ姿勢良ければそれでよし心も胸も張って進まん

 何処かのお国の女性兵士みたいですね。
 BGMはスーザですか?
 〔返〕  何であれ月給良ければそれでよしこの際職種は選んでられない   鳥羽省三


(陸王)
○  友引の夜は欠かさずテレマーク姿勢を入れて終える一日

 「友引の夜」には、会社帰りに友だちと一緒に行き付けのスナックに繰り出して泥酔するまで焼酎を浴び、終電車に乗り遅れてタクシーでのご帰宅とは相成るのである。
 それで、家の前でタクシーから下車される際に、「今夜も無事にご帰還!」とばかりに「欠かさずテレマーク姿勢を入れて」ご帰宅なさるのでありましょう。
 本作の魅力は、何もかも解らない点にあるのである。
 〔返〕  友引の日にはやらない葬式でやるのは棟上げ結婚式か   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  八度目の恋の相手は姿美千子 倉田誠に娶られ泣きつ 

 最初は原節子、そして十八回目の現在は藤原紀香。
 吾が「八度目の恋の相手」の「姿美千子」を横取りしたのは、「倉田誠」という名の新撰組ならぬ巨人軍の二線級投手でありました。
 〔返〕  離婚してまたまた燃える紀香さん宝籤級の可能性かも   鳥羽省三

一首を切り裂く(005:姿・其のⅠ)

2011年04月14日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  世も末と思はぬでもなし愛猫の空に腹向け眠る姿に

 「愛猫の空に腹向け眠る姿」に「世も末と思はぬでもなし」などとまで仰るのは、またまた鬚彦さんらしいサービスである。
 こうしたサービス精神の遺憾無き発揮こそが、インテリ短歌の何よりの醍醐味でありましょう。
 ご自身をピエロにしないインテリは真のインテリではありません。
 教養の香り高き髭彦の御作に期待するところ多い鳥羽省三で御座います。
 〔返〕  完走の未だ二十余 世も末と思わぬでなし題詠短歌   鳥羽省三
 

(佐藤紀子)
○  塀の下のほんの少しのへこみより兎スルリと姿現はす

 干支シリーズの一首ではありましょうが、「塀の下のほんの少しのへこみより兎スルリと姿現はす」とは、「兎」という生き物の本質をついた作品である。
 さすがは超ベテランの佐藤紀子さんである。
 〔返〕  金網の隙間を拡げ潜り込み鼬が兎を食べちゃいました   鳥羽省三


(夏実麦太朗)
○  闇に立つ観音菩薩立像に姿勢の悪い何体かあり

 「観音菩薩立像」とは理想的女性像を形象した芸術作品であり、観音信仰の対象となる偶像でもありましょう。
 その「観音菩薩立像に姿勢の悪い何体かあり」とは、それはいけません。
 そんな「観音菩薩立像」に非ざる「観音菩薩立像」は、仏教信仰の妨げとなり、身体の正しい発育の妨げともなりますから、即刻、焼却処分に処しましょう。
 〔返〕  山門の仁王様像に威厳無し褌だらり口元にやり   鳥羽省三


(アンタレス)
○  ちらと見し吾がはだか身の崩れしに姿見を返す老いの悲しさ

 「ちらと見し」の「し」及び「崩れしに」の「し」が、原則的には、“自己の体験した過去の出来事を回想”して言う時に使う助動詞「き」の連体形であることを忘れてはいけません。
 家具の大正堂に出掛けて、手に取った「姿見」に映った「吾がはだか身」を「ちらと見」たところ、その「はだか身」が往年の面影も無く、すっかり「崩れ」切ってしまっていたのに驚くやら愕然とするやらして、「こんなだらしない現在の『吾がはだか身』を、よくも映してくれたな!」とばかりに、即刻、売り場の係員さんに返して、我が「老いの悲しさ」を嘆いたのは、本作創作時点のことでありましょう。
 だとしたら、本作は“時制の不一致”の見本みたいな作品でありましょう。
 原則通りの使い方でないにしても、過去の助動詞「き」を無闇矢鱈に使ってはいけません。
 また、“家具の大正堂の売り場”のような公衆の面前で「吾がはだか身」を曝したりしたら、その美醜に関係無く“公然猥褻罪”に抵触しますから、これ亦いけません。
 〔返〕  モーテルの姿見に映る裸身に愕然とせしは昨夜のことか   鳥羽省三
 アンタレスさん、たまには笑ってやって下さい。
 不倫の場面でもご想像なさり、ロマンチックなご気分にお浸り下さい。


(鮎美)
○  姿見を割れども我の割れざるを理解してゐるゆゑ割らずをり

 こちらの女性も亦、愕然となさった方とお見受けする。
 でも、「姿見を割れども我の割れざるを理解してゐるゆゑ割らずをり」とは、その責任が何処の何方に在るのかを分かっていらっしゃるのでありましょう。
 「二十歳を過ぎたら、ご自身のご容姿の責任を、母親に求めたり、『姿見』に求めたりしてはいけない」ということを、この方はご存じなのでありましょう。
 ところで、本作の作者は“鮎美”さんですから、本当は、お名前道通りで“容姿端麗”な女性でありましょう。
 かくも容姿端麗にして、尚且つ美貌を追求する。
 女性の執念というものは、かくも飽く無きものでありましょうか?
 いかがでありましょうか?
 〔返〕  姿身を割って尚且つ割らざるは容姿に対する女の執念   鳥羽省三


(遠野アリス)
○  姿見に映るじぶんに幻滅する それでも好きなストールを巻くする

 こちらの女性は“愕然”のみならず、「姿見に映るじぶんに幻滅」さえ感じたのであるが、「それでも」諦めきれずに「好きなストールを巻く」などと、無駄な抵抗を試みているのである。
 “遠野アリス”さんと仰るからには、本作の作者は、ご自身の容姿端麗さに、人並み以上のご自信とご期待を持たれていらっしゃったはずである。
 でも、考えてもみなさい。
 イギリスの数学者にして作家チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、ルイス・キャロルの筆名で『不思議の国のアリス』を書いたのは、十九世紀の半ば過ぎのことですよ。
 そして、今は二十一世紀。
 あなた様がご自慢の美貌とて、古びて来て、皺くちゃになるはずではございませんか?
 〔返〕  アリスとて食っちゃ寝してては太るはずかつての美貌は遠野の彼方   鳥羽省三 
      未だ尚ファンタジーの世界に生き居るやアリスとふ名の女性の我執     々


(笹木真優子)
○  「こんなんじゃあの人の傍に居られない」「あんたのせいだ」姿見を打つ

 “たんたん短歌”風な作品ながら、説得力のある一首である。 
 でも、「『あんたのせいだ』」と「姿見を打つ」の間を“一字空き”にするか、中間に引用を受ける助詞「と」を入れた方が宜しいかも知れません。
 〔返〕  「こんなんじゃ連れて歩けない!」「あんただってそうよ。メタボはあんたでしょう!」   鳥羽省三


(龍翔)
○  姿見を赦してやろう 本当の私を決して映さないなら

 「本当の私を決して映さないなら」がなかなか微妙な表現である。
 「姿見」が山本山紛いの龍翔さんを、「決して映さない」と誓うなら、今度だけは、特別の計らいとして「赦してやろう」という訳なのでありましょうが、“財団法人・日本相撲協会”の方々も、せめて龍翔さんぐらいの寛大な心で以って、山本山らを許してやって欲しいものである。
 〔返〕  彼らから相撲取ったらただの豚 豚と違って肉も売れない   鳥羽省三


(南雲流水)
○  姿見の向こう側が本当でいつも真逆に伝えてしまう

 話者の立ち位置、つまり視点が問題である。
 本作の話者の立ち位置は“神の座”とも言うべき微妙不可思議な位置であって、その位置に立つ話者には、「姿見」に映る何方かの姿と、その「向こう側」の何方かの姿が同時に見えるのでありましょう。
 ところで、私たち日本人、特に日本人の女性は「姿見」の「向こう側」に立ち、その「姿見」に映った姿を、「いつも」「いつも」自分自身の真の姿と誤解して、喜んだり悲しんだりしているのであるが、本作の作者が仰る通り、「姿見の向こう側が本当で」「姿見」は「いつも」私たち「姿見」の前に立つ者に「真逆に伝えてしまう」のであるから、一喜一憂することは無駄なことと思われます。
 その点からすると、ガリレオ・ガリレイの子孫たるイタリア国民は、決してそんなことが無いということである。
 〔返〕  右の手をチョキの形にしてたのにチョキの形は左手だった   鳥羽省三


(新井蜜)
○  姿見をのぞけば青き夕暮れをセーラー服が沈みゆきたり

 何か怪しげな場面である。
 察するに、本作の作者・新井蜜さんは、インターネット上の援交サイトで知り合った女高生と、ある春の日の午後に、千駄ヶ谷界隈のホテルに連れ込んだのでありましょうか?
 発覚すれば、何事かの罪名を伴うその一時が終わった「青き夕暮れ」に、その哀れな女高生は、再び「セーラー服」を身に纏い、三万円の現金が入った鞄を手にしながら、当該ホテルの部屋から廊下へと出て行くのであるが、未だ惰眠を貪っている新井蜜さんの目には、「姿見」に映っているその女高生の姿が見えないのである。
 本作も亦、「神の座」に立つ話者の語った哀れな話でありましょう。
 〔返〕  寝乱れたシーツの滲みも映し出し姿見厳し冷酷無情   鳥羽省三
 

(梳田碧)
○  姿見はこちらですけどお客さまおまえにそれはぜったい似合わん

 本作は、渋谷界隈のブティックのカリスマ女店員のお立場で詠まれた作品でありましょう。
 彼女らカリスマ女店員の方々は、お店の“売り上げ倍増計画”及びご自身の“所得三倍増計画”に基づいて、真っ赤に彩られたその唇からは「いらっしゃいませ、こんにちは。よくお似合いでございますよ。」といった甘い言葉を漏らしながらも、その本音では、「蒲田辺りの店で、もう十日も過ぎた頃に買えば、五分の一以下の値段で買えるのに、十万円も払う馬鹿女がよく居るもんだ。『おまえにはそれはぜったい似合わん』、止めとけ、止めとけ」と思っているのである。
 本作の作者・梳田碧さんのお勤めになって居られるブティックの店名は何と言うのでありましょうか?
 また、カリスマ女店員としての彼女の源氏名は何と言うお名前でありましょうか?
 〔返〕  こんにちは。みどりと言う名で出ています。ひらがな名前の“みどり”ですけど。   鳥羽省三


(富田林薫)
○  姿見のなかのわたしは嘘つきだ嘲るような薄いくちびる

 一人の若い女性の体内には、自分が美しいと信じる心と、自分を美しいと信じたい心と、更には、自分を美しいと信じたいが信じきれない心などが、色々様々に同居しているのである。
 本作中野「嘲るような薄いくちびる」とは、“自分を美しいと信じたいが信じきれない心”が増さった時に感じたお気持ちをリアルに表現なさったのでありましょうか?
 〔返〕  姿見に映る私は美しいけれど心で疑って居る   鳥羽省三      


(那緒)
○  姿見がとらえたぎこちない笑みが駅ビル3階ジャケットを買う

 本作も亦、“神の視座”にお立ちになってお詠みになった作品でありましょう。
 宇都宮駅の「駅ビル」の5階の高級紳士服店・ライオンの売り場の「姿見」の前で、つい先ほど「ぎこちない笑み」を浮かべた居た一男性が、同じビルの「3階」に在る“ユニクロ”で、2,980円の「ジャケットを買う」ご様子を、神の視座にお立ちになった、本作の作者・那緒さんの目は素早く捉えたのでありましょう。
 〔返〕  二桁も違うスーツを買う筈が中国製のユニクロになる   鳥羽省三


(村木美月)
○  背中から蒸発してるもやもやの正体を知る姿見の中

 「背中から蒸発してるもやもや」とは、福島第一原発の原子炉から「蒸発してる」放射能で無いとすれば、男性から愛を求めて止まない情念でありましょうか?
 ご自宅の姿見の前にお立ちになり、「姿見の中」に映るご自身の姿をご覧になることに拠って、初めて、その「もやもやの正体を知る」ことが出来た、本作の作者・村木美月さんは、これ以降、また一段と新しい境地にお立ちになられ、新基軸の作品を沢山お詠みになられることでありましょう。
 評者も亦、大いに期待して居ります。
 〔返〕  背中から蒸発してるもやもやは未だ乾かぬ下着の蒸れか   鳥羽省三


(紫苑)
○  姿見にかかる端布(はぎれ)は佳き日々の名残か祖母は百歳(ももとせ)を生く

 横書きで記載される短歌での振りがなは、作品を徒に長く見せ、作品の価値を損なう点が無視出来ませんから、可能な限り施さないようにするべきかと思われます。
 本作に於ける「(はぎれ)」「(ももとせ)」との措置も無用かと存じます。
 私の作品の読者ならは、「端布」は必ず「はぎれ」と読んで下さる筈だ。
 「百歳」は必ず「ももとせ」と読んで下さる筈だ。
 大変失礼ながら、本作中の「端布」を「はぬの」と読んだり、「百歳」を「ひゃくさい」と読んだりするような馬鹿者には私の作品を読んで欲しく無い、といった確固たる信念に基づいてご投稿なされるべきかと思われます。
 〔返〕  姿見を覆へる布は昨年の白寿祝ひの袱紗の絹か   鳥羽省三


(萱野芙蓉)
○  ではごめんあそばせ、逃げの体勢が基本姿勢でありますゆゑに

 何処かの国の政治家みたいである。
 そう言えば、赤穂浪士の一人に、萱野姓の方がいらっしゃったような気がします。
 敵前逃亡を図った彼は、本作の作者・萱野芙蓉さんの十数代前の親類縁者でありましょうか?
 だとしたら、血は争えないものである。
 〔返〕  「ではごめん下さいませ」と地震など揺らない国で暮らしましょうか   鳥羽省三
 

(吾妻誠一)
○  焼き焦がれ紅く肌染め重なるか 浜焼き鯖の姿寿司食う

 福井県人にとっては“焼き魚”と言えば「浜焼き鯖」を指すくらいの郷土色豊かな食べ物である。
 そして、近年では、その「浜焼き鯖」をアレンジした「浜焼き鯖の姿寿司」が、福井県小浜市辺りの板長の手に拠って考え出され、都内などのデパートで行われる“日本全国旨い物市”といった催しの花形として、全国的なブームを呼んでいるのである。
 作中の上句「焼き焦がれ紅く肌染め重なるか」は、脂がたっぷりと乗った小浜産の鯖を一匹そっくり竹串に刺し、炭火で豪快に焼き上げた「浜焼き鯖」をネタとした、小浜名物「浜焼き鯖の姿寿司」をそのまま活写した表現である。
 その昔、「御食国」と呼ばれた若狭には、まだまだ美味しい物が沢山ありますよ。
 〔返〕  焼き鯖の匂ひ恋しき半夏生若狭に行かむ小浜を訪はむ   鳥羽省三


(津野)
○  改札は後ろ姿を排出す肩の向こうの家路夕焼け

 この作品も亦、“神の座”からの観察に基づいてお詠みになられた作品でありましょう。
 本作の作者・津野さんは、今しも私鉄・東急池上線の小さな「改札」から「排出」されたようにして屋外に出られ、「肩の向こう」に見える、かなり下り坂になっている「家路」の彼方の「夕焼け」を一望しながら、一人静かに足をお運びになって居られるのである。
 評者は、仮に“神の座”と言って済ませましたが、不思議なるは、本作の話者の立ち位置である。
 神の如き彼の目には、津野さんを「排出」した「改札」が真正面に見え、併せて、「排出」された津野さんの後姿が見えるのである。
 そして、「肩の向こうの家路夕焼け」と言う時の話者の立ち位置は、明らかに津野さんの後方であり、津野さんの「肩」の高さよりも少し高い位置に在ると思われるのである。
 私たち歌詠みの人に優れた立ち位置は、私たち歌詠みは、かかる「神の座」に立ち位置を占めて、上下左右、東西南北の風景を自由自在に眺め得ることである。
 また、私たち歌詠みの座から見えるものは、単に空間だけではありません。
 私たち歌詠みの目を以ってすれば、空間同様に、時間も亦、自由自在に見えるのである。
 かかる“神の座”に立ち位置を占めることを許された、私たち歌詠みこそは、真の意味の“選良”と申せましょうか?
 〔返〕  また一人続いて一人と吐き出して改札機械は肛門のごと   鳥羽省三


(みずき)
○  容姿から零れる華よ三月の壁に懸かりて仄か...

 「容姿から零れ」て、「三月の壁に懸かりて仄か」な「華」とは、お茶会にお召しになられた桜模様のお着物でありましょうか?
 本作の作者のみずきさんは、その華やかなお着物に包まれて宗匠のお淹れになられたお抹茶をお喫みになられた、今日の午後の“花見のお茶会”でのご自分のご様子を反芻なさって、今しも恍惚・上気なさって居られるのでありましょうか。
 でも、お年がお年ですから、あまりいい気分に浸っても居られませんよ。
 私の乏しい経験からしても、人間という者は、特にご年輩の女性という者は、こうして恍惚としていらっしゃる折に、ついうっかりお下を濡らしてしまうことが多いからで御座います。
 〔返〕  お花から帰りし孫の振り袖よ匂へる如く衣桁に掛かり   鳥羽省三


(紗都子)
○  だれにでも揺るがぬ軸があるというヨガの講師の姿勢うつくし

 名手・高松紗都子さんの御作ではあるが、誤読に陥り易い作品である。
 即ち、「だれにでも揺るがぬ軸があるという」という格言めいた言葉は、作中の「姿勢うつくし」き「ヨガの講師」がお話になられた言葉でありましょうか?
 それとも、作者・紗都子さんは、整体の教科書などをお読みになって知った「だれにでも揺るがぬ軸があるという」という言葉を思い出しながら、「ヨガの講師の姿勢うつくし」き様を目前にして居られるのでありましょうか?
 でも、この曖昧さは、決して本作のマイナス点ではありません。
 こうした曖昧さがあればこそ、この一首の内容は、折りからの落下のように揺曳として、より魅力的になっているのである。
 少し褒め過ぎでありましょうか?
 〔返〕  何方にも“時分の華”は在ると言ふ海老様の鼻折られちまった   鳥羽省三


(黒崎聡美)
○  立ち読みをしているきみがそこにいてうしろ姿をしばし見つめる
(のわ)
○  その姿いつでも私の斜め前シャーペン下敷きなんでも観察

 ストーカー紛いと申しましょうか、或いは“視姦”紛いと申しましょうか?
 異性の姿を眺めるという内容の作品が二首続きましたので、比較しながら論評致しましょう。
 完成度からすれば、黒崎聡美さんの作品が優り、題材の目新しさからすれば、のわさんの作品が優っている。
 「立ち読みをしているきみがそこにいて」、その「きみ」に密かに憧れている私は、とは「うしろ姿をしばし見つめる」、有り触れた情景ではあるが、「しばし見つめる」者が女性であるだけに、その気持ちを思うととても切ない。
 かく申す私などは、「立ち読みをしている」私を「見つめる」女性を意識して、さも思案あり気に、頬杖を突いたりしてみたのであるが、本棚の隙間から「見つめて」いるのは、万引き防止の監視員ばかりでがっかりしたことがありました。
 “のわ”さんも亦、女性でありましょうか?
 だとしたら、同じ講義に出ている憧れの男性の「斜め」後ろの席が“のわ”さんの指定席であり、毎週一時間ずつ、気弱な“のわ”さんはこの指定席にお座りになられ、「シャーペン」「下敷き」など何でも、相手の男性の所有物を眺めることを唯一の楽しみとなさって居られるのでありましょうか?
 私事ながら、学生時代の私も、ある時、斜め後ろの席の女性にそんな気配を感じたものですから、ある時、わざと買ったばかりの手袋の片っ方を彼女の目の前に落としてみたのですが、その女性は勿論、同じ教室の何方もそれを拾ってはくれませんでした。
 そこで私は、今更時分で拾う訳にも行かず、その冬は手袋を片っ方を左手に嵌めて過ごしました。
 その冬の寒かったこと、寒かったこと、東京オリンピックが行われた年の冬の記憶ではありますが、寒い思いをして過ごした冬の記憶は、今でもまだ私の右手に凍みついているような気がします。
 〔返〕  立ち読みをしても手袋落としても女性は誰も見ててくれない   鳥羽省三 

 
(矢野理々座)
○  残酷な調理法だね姿焼きまだしもマシか踊り食いより

 言われてみれば、その通りである。
 〔返〕  恥ずかしいお名前だよね本多顕彰ならまだしも池田亀鑑は   鳥羽省三


(芳立)         〈寄名所恋、真姿の池〉 
○  しろたへの胡粉と紅に病みながらなに真姿の池に禊がぬ 
            ※胡粉【はふに】、紅【べに】、真姿【ますがた】、禊がぬ

 先ず、何よりも“※印し”の後の“註”乃至は“ふりがな”が邪魔である。
 そのうえに、「禊がぬ」には、“ふりがな”も意味の説明もありません。
 こうした小細工をしてまでお詠みになりたかった作品の意味を解る人はなかなかいらっしゃいませんよ。
 多くの方々に読んで貰えない投稿にどんな意味が在るのでしょうか?
 それはそれとして、作中の「真姿の池」とは、“お鷹の道・真姿の池湧水群”と称して、東京都国分寺市にある“歌枕”の地であり、平安初期の美女・玉造小町がお百度参りをしようとした名水の地でもあり、現在は“全国名水百選”に数えられているのである。
 一首の意は、「貴女は顔中を胡粉塗れにし、唇を紅で真っ赤に染めて、その副作用でお苦しみになって居られる。それなのに何で、あの『真姿の池』にお百度参りをして、病気で苦しんでいるお顔を、あの清らかな水に映したり、洗ったりなさらないんですか」といったところでありましょう。
 こうした虚仮脅かしの作品は感心しません。
 〔返〕  玉台に座ってないで降りて来い自分を茶化した歌でも詠みな   鳥羽省三


(音波)
○  そのまんま春が来そうな休日に後ろ姿の猫を見ている

 「そのまんま」東さんは、東京都知事選挙で次点ながら見事落選しましたが、作中の「そのまんま春」さんは「来そうな」感じですか?
 そんな感じの「休日に後ろ姿の猫を見ている」とは、かなりの暇人ではありませんか?
 今度の日曜日には、府中の競馬場にお出掛けになりませんか。
 穴馬ながら「ソノマンマハル」は、必ずや来ると思いますよ。
 一発当てて、一千万円ぐらい寄付しませんか?
 〔返〕  3枠はソノマンマハル一頭で先行逃げ切り短距離タイプ   鳥羽省三


(牛 隆佑)
○  生き急ぐあなたを乗せてびょうびょうと地球は前傾姿勢で走る

 「地球は前傾姿勢で走る」というのが面白い。
 「生き急ぐあなた」が私たち日本人ならば、この「地球」は確かに「前傾姿勢」で走っているような感じですね。
 〔返〕  原発も宇宙開発も止めにして生活レベルを半減しよう   鳥羽省三


(コバライチ*キコ)
○  ばらばらの姿も楽し長閑なる寄居の寺の五百羅漢の

 作中の「寄居の寺の五百羅漢」とは、埼玉県寄居町の古刹・少林寺(曹洞宗)の境内に在る「五百羅漢」像を指して言うのでありましょう。
 作中に「ばらばらの姿も楽し」とある通り、「寄居の寺の五百羅漢」の最大の魅力は、その一体一体が極めて個性的な表情をしていることである。
 ある像は笑い、ある象は泣き、その仕草や表情が全て異なっている点にあるのである。
 この日曜日に、あなたも恋人と一緒にお出掛けになりませんか。
 境内の桜も未だ散らないと思いますよ。
 〔返〕  コバライチキコさんと共に手を合わせ寄居の寺の五百羅漢拝む   鳥羽省三


(花夢)
○  恋人に褒められたから嬉しくて姿勢をすこし猫背になおす

 通常の女性ならば、「猫背」の「姿勢」を「なおす」のでありましょうが、本作の作者・花夢さんは、未だ花の独身で「姿勢」の宜しいコチコチ娘でありますから、「恋人に褒められたから嬉しくて」「姿勢をすこし猫背になおす」と仰るのである。
 花夢さんは、それでも尚且つ魅力的な女性でありますから、「恋人」は必ずや手を出し足を出し、何々を出すに違いありません。
 〔返〕  恋人に褒められたから嬉しくてモーテル代を全部出したの   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
○  あと三分待たせてみやう珍しく緊張してゐる後姿を

 こちらの女性も、少々年増ながらも絶世の美女なのである。
 デイトの現場に一時間も前に到着してるのに、若年の恋人が「珍しく緊張してゐる後姿を」見たいからとて、「あと三分待たせてみやう」と仰るのは、ご自身の魅力の全てを十分以上に知り尽くしている熟年女性の確固たる自信に基づいたお言葉なのである。
 〔返〕  過剰なる自信を持つのはいけません若いツバメは身を翻す   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(花山多佳子選・4月10日分)

2011年04月12日 | 題詠blog短歌
 新年度から入選作が9首になった。
 NHK短歌は、今や、多くの人々から注目され、短歌芸術発展普及の為の指標の一つとして期待されているとも言える。
 そうした性格を備えた短歌発表の場が、広く門戸を開放されることは必要なことではある。
 だが、そうは言っても、入選作を多くすれば多くするほど良い、というものではない。
 入選作が12首であった昨年度までは、明らかに数字合わせと思われるような作品が1、2首見受けられ、首を傾げざるを得ない場面もあったので、入選作を3首減らして9首としたのは、極めて妥当な措置であったと思われる。
 また、昨年度までは、選者と司会者以外に、毎回ゲストと呼ばれる人物が登場して、入選作についての批評や感想などを述べていたのであるが、わずか25分間という限られた時間の中では、彼らゲストが活躍出来る場面は極めて少なく、一種の飾り物的な存在に過ぎなかったから、これを廃止したのも必要にして妥当な措置であったと思われる。
 一週目の選者・来嶋靖生氏に続いて、二週目の選者は花山多佳子氏であるが、お二人共に、極めて妥当と思われるご選定をなさり、極めて適切なご選評をお述べになって居られた。
 お二方共に、お顔や表情にしても、話し方にしても、その内容にしても、この方々ならば安心して任せられる、と思われるように極めて安定していらっしゃたのである。
 それにつけても、大変申し上げ難いことではあるが、公共放送の歌壇の選者となれば、そうした要素も決して無視してはならないものと、私には思われるのである。
 旧年度から新年度に掛けて、いろいろと改革された“NHK短歌”であるが、その中でも、最も改革という名に相応しい“改革”は、選者を一新したことではないでしょうか?
 市松人形の萎びたようなお顔の選者、何の魂胆があってなのか、幼児紛いの投稿作を敢えて選ぶ選者、あのお二方のお顔を拝んだり、お声をお聴きしなくてももよくなっただけでも、今回の改革は、私にとっては極めて有意義な改革であったと言える。
 以上、申し上げたい事を申し上げたいように申し上げましたが、これは一私人の考えであり、忌憚の無い意見でありますから、この内容に関わるような批判的なコメントは、一切お受け致しません。
 ご不満をお持ちの方が居られましたら、広い世の中には、こんな事をずけずけと言って平気で居られる奴も居たのか、と思って、お諦め下さい。
 それともう一点。
 この機会に、重ねて申し上げますが、昨今ばかりでは無く、中世以降のサロン化した歌壇に於いては、「短歌批評の要諦は、当該作品の優れた要素だけを採り上げて称揚する事。批評の対象としなければならない作品に、優れた要素が何一つとして無い場合は、その作品そのものを無視して、何ら触れない事。批判めいたことは一切言わない事」である、などという、凡そ愚にもつかない迷信が横行していて、当ブログに寄せられる匿名の方からのコメントの中の上質なコメントの多くは、「それが歌壇の、短歌人のエチケットだ」とばかりに、その迷信の美質を懇切丁寧に、懇々とご説明なさったものである。
 大抵の者ならば、こうした懇切丁寧なコメントに接した場合は、その発信者が例え匿名の方であったにしても、「大変ありがとうございます。これからはあなた様のご意見を大いに参考にさせていただきます」などと記してお茶を濁すだろうと思われるのであるが、私・鳥羽省三に於いては、そんな無駄な措置は一切せずに、発見次第直ちに“削除”させていただきますからご承知置き下さい。
 重ね重ね申し上げますが、私は、素晴らしい作品の素晴らしい点は、大いに称揚させていただき、素晴らしくない作品の素晴らしくない要素については、遠慮しながらも少しく述べさせていただくつもりなのですから、悪しからず。



[特選一席]

○  茶柱の立つが如くに望まれる筑波嶺からのスカイツリーは  (土浦市) 田正紀

 我が国が世界に誇るべき科学技術及び建築技術の粋を結集した建てた「スカイツリー」をして「茶柱の立つが如くに望まれる」とは、何とご大層な直喩であり、何と素晴らしい眺望ではありませんか。
 「筑波嶺」と言えば、万葉の昔に我が国随一の高峰・富士の高嶺と“背比べ”をして、彼を一蹴した、という輝かしいこ経歴をお持ちの尊い御山で御座います。
 したがって、その高嶺に立って一望すれば、あの東京の下町中の下町とも言うべき押上の地に、小便臭くもちょこんと立っている東京「スカイツリー」如きは、「茶柱」も「茶柱」、100g500円以下のお番茶を笠間焼きの急須で淹れて、橘吉の5客3000円程度のお茶碗に注いだ時に出る「茶柱」程度の、けち臭く憐れな「茶柱」であったに違いありません。
 雄大な展望にして卓越した直喩。
 小生如きが、こと改めて称揚するのは失礼千万とも言われるほどの傑作と思われます。
 〔返〕  筑波嶺と肩並べようとは猪口才な下がれ下郎めスカイツリーよ   鳥羽省三



[同二席]

○  陽炎に掴まるごとく幼子は立ち上がりたり麦の大地に  (長野県松川町) 鋤柄郁夫

 何と驚いたことに、作中の「幼子」は「掴まる」相手にも事欠いて、あのゆらゆら揺曳して止まない「陽炎に掴まるごとく」して「立ち上がり」、季節柄、青く若々しく生い茂る「麦の大地」に、見事に立ったということである。
 「陽炎」がゆらゆらと漂い、青い「麦」が今を盛りと生い茂る「大地」に「幼子」を立たしめた若々しいイメージは大変素晴らしく力強い。
 これ亦、傑作中の傑作でありましょうか。
 〔返〕  青痣も未だ消えざる幼子が麦の大地にすつくと立てり   鳥羽省三



[同三席]

○  夕闇の播州平野に高炉二基黒々と立つ昭和は遠し  (明石市) 上野克巳

 作中の「夕闇の播州平野に」「黒々と立つ」「二基」の「高炉」とは、兵庫県加古川市金沢町に在る、神戸製鋼所加古川製鉄所の「高炉」を指しているのでありましょうか?
 加古川製鉄所の「高炉」と言えば、大気汚染問題などで世間からいろいろと取り沙汰されながらも、戦後日本の経済発展の推進役の一つとして働き、今となっては遠い「昭和」のシンボル的存在であったことは事実である。
 したがって、「昭和は遠し」と歌う、本作の作者の感慨には無理からぬものが在ると思われる、とは、一応の評言であり、本論はこれからである。
 それは本作の魅力の一つでもありましょうが、本作の曖昧な点は、「夕闇の播州平野に」「黒々と立つ」「高炉二基」に対する、作者・上野克巳さんの心の在り方が、今ひとつ明らかでないことである。
 本作中で、作者ご自身の主観的な感情をお述べになられた言葉は「昭和は通し」だけである。
 だが、その「昭和は通し」は、単なる「昭和は遠くて懐かしい」というだけの「昭和は通し」だけでは無く、その中身には、その「二基」の「高炉」に因って齎される大気汚染に対するマイナス評価や、その「二基」の「高炉」を、郷土「播州平野」の誇りとして、祖国・日本の復興のシンボルとして仰いだ過去の思い出など、さまざまな感情が含まれているものと思われるのである。
 詠い出しに「夕闇の」とあり、四句目に「黒々と立つ」とあるが、それらの語句は、ただ単に、郷土「播州平野」に「立つ」「二基」の「高炉」の立っている時刻や、その色彩を客観的に説明しただけのものではないだろう、とするのが、評者の意見である。
 もう一点、申し述べると、作中に「播州平野」という地名が出て来た以上は、本作と宮本百合子の小説『播州平野』との関わりも、私には無視出来ない。
  〔返〕  公害の発生源と言はれつつ播州平野を睥睨せしか     鳥羽省三
       因習のごと黒々と立つ高炉二基を見上げて吾は生い来ぬ    々



[入選]


○  風落ちて雪になるらむ静けさに常より早く厨に立つ妻  (仙台市) 勝 美彰

 「風落ちて雪になるらむ静けさ」の中を「常よりも早く厨に立つ妻」のお淑やかさと風流心。
 そして、屋外の様子を「風落ちて雪になるらむ」と感じつつも、その「静けさ」の中で、「常より早く厨に立つ妻」の気配や思いを馳せ、それでも未だ尚且つ寝床に居る夫・勝美彰さん。
 夫婦二人だけの家庭の理想郷は此処に在り、と申しましょうか?
 何とも言えないような興趣が感じられる佳作である。
 本作の作者・勝美彰さんのお住いは仙台市である。
 仙台市と言えば、今回の大震災の被災地である。 
 “嵐の前の静けさ”と申しましょうか、あの惨禍の直前に、かくも静かで趣き深い夫婦の営みが確かに在ったのである。
 それに引き比べ、今日は晴天。
 只今、平成23年4月12日の午前8時07分、我が連れ合いの翔子は、未だ寝床の中なのである。
 8時10分、只今、地震が揺り、我が家はかなり揺れて居ります。
 源右衛門製の和食器・百数十枚及びヘレンドの洋食器数十枚を含めた我らの生活資材の全ては、我らの命と共に壊滅に帰するのでありましょうか?

 〔返〕  風も無く快晴の朝地震揺り妻の翔子も慌てて起床   鳥羽省三
 勝美彰さん作と比較して、我が返歌の、何と興趣に欠け、何と品格に欠けることでありましょうか。
 地震の揺れの中での即興の作とは言え、自分の拙さが悔やまれます。
 只今、8時23分、地震の揺れは今し方、漸く治まりました。
 翔子の話に拠ると、震源地は千葉県とのこと。


○  いつよりか仏間に過ごす時の増ゆ机に捉まり「よいしょ」と立ちぬ  (能代市) 佐々木克子

 「いつよりか」に何とも言えないような味わいが在る。
 「何時の頃からかは、当人である私自身も分からないが、自分でも気がつかない何時の頃からか、私には、ご先祖様方をお祀りした『仏間』で『過ごす』時間が増えたのである。どうしてなのかしら」といった感じなのである。
 これから、お炊事でもなさるおつもりなのか、その「仏間」で「過ごす」一時が過ぎ、本作の作者・佐々木克子さんは、傍らに在る経「机に捉まり」立ち上がろうとした。
 その立ち上がろうとした瞬間に、彼女は思わず「よいしょ」と掛け声を掛けて立ち上がったのである。
 「仏間」で「過ごす」一時を切り上げて立ち上がろうとする時に、思わず「よいしょ」と掛け声を掛けることになった時期についても、今の彼女には皆目見当が付かないのである。
 〔返〕  秋田杉材木の町のお婆ちゃん佐々木克子は「よいしょ」と立った   鳥羽省三


○  抜糸終え車椅子より立つ吾を鏡は見てる手は貸さねども  (豊島区) 佐藤糸子

 「そんなにじろじろ見なくてもいいよ。私はただ歯槽膿漏にやられた奥歯を抜いただけだよ。人相は少し悪くなったかも知れないが、私は何一つ悪いことはしてないんだよ。そんなにじろじろ見つめるなよ。お前は、『抜歯』を『終え』この『車椅子』から立ち上がろうとしても、なかなか立ち上がれないで居る私に、何一つ「手」を貸そうともしないでさ。全く失礼しちゃうよ。身体が不自由なんだから、それに年なんだから、『車椅子』に乗ったままで『抜歯』をしても仕方が無いでしょう。『鏡』の馬鹿、情な無し」といった感じなのである。
 〔返〕  豊島区の大年増なる糸子さん従姉弟でもない鏡にぶつくさ   鳥羽省三


○  神妙に二人廊下に立ちながら肘であなたに責められていた  (松本市)  牧野内英詞

 “わたし”と「あなた」は、立たされ坊主だったんですね。
 しかも、その原因は“わたし”にあったから、「神妙に二人廊下に立ちながら」も、“わたし”は「あなた」に「肘」で「責められていた」のであった。
 〔返〕  好いて居たあなたと一緒に立たされた何時間でも立ってたかった   鳥羽省三


○  立つたまま凍りてをりし大根を寒の夕暮れ抜きて帰りぬ  (岐阜市) 後藤 進

 凍みた「大根」は食べても美味しくなかったでしょう。
 味噌汁の具材にでもすれば、少しは食べられたでありましょうが。
 〔返〕  立ったまま凍りつきそな男根を寒の霜夜に抜いてしまった   鳥羽省三   

○  道端に托鉢僧のごとく立つ灰皿持ちて煙草吸う人  (徳島市) 新井忠代

 居りますよ、居りますよ。
 私の目にする範囲で言えば、小田急線新百合ヶ丘駅の隣りの三井住友銀行の脇の「道端」に、「煙草」を「吸う」男女が、いつもいつも10人前後居ますよ。
 でも、彼らは、本作中の「煙草吸う人」とは異なって、「灰皿」など持っていないから、「托鉢僧のごとく」とは言えません。
 せいぜい褒めても、「道端」の垣根に右足を上げて小便をしている肺癌志願の野良犬のような感じですよ。
 〔返〕  道端で煙草を吹かすあいつらは高額納税志願者である   鳥羽省三