[永田和宏選]
○ 喚ぶ声か振り返りつつその母は足どり重く地震(ない)の地離る (福岡県) 城島和子
地震後の被災地の風景をテレビ画面で見たのでありましょう。
被災地から遠い福岡県に在っても、誰に向って「喚ぶ」のか判らない声のする彼方を「振り返りつつ」、「足どり」も「重く」「地震」に見舞われて壊滅した故郷を離れようとしている一人の「母」の姿に身をつまされたのでありましょうか?
それはそれとして、詠い出しの「喚ぶ声か」という疑問形の表現に対する評価は大きく分かれると思われます。
「これ在るが故に本作は切迫感に欠けた作品になった」などと申し上げたら、「酷評に過ぎる」と叱られましょうか?
〔返〕 その母は何方の母か喚ぶ声余りに多く聞き分けならず 鳥羽省三
その母は何処に行かむ後ろ髪引かるる如く被災地を去る 々
浜風に髪乱しつつ喚ぶ声聞き分けむとす 余震なほ寄す 々
○ 大津波押し寄せしのち瓦礫なる町を飛び交う烏の映る (稲敷市) 坂元善典
テレビ画面で、評者も見た場面である。
一面の「瓦礫」と化して人一人居ない「町」に、何を啄ばもうとするのか「烏」が「飛び交う」風景を、テレビカメラは無情にも映し出すのである。
評者はついうっかり「テレビカメラは無情にも映し出す」などと余計なことを言ってしまいましたが、本作の表現について申せば、そんな余計なことを言わず、ただ単に「烏の映る」としたことが、本作を印象深い作品とした要件となったのである。
〔返〕 烏らは何を啄ばみ飛び交うか津波の記憶啄ばみ飛ぶか 鳥羽省三
はらわたのはみ出た魚を啄ばんで鴉が三羽浜辺に居たね 々 きょときょとと目線定めず砂を食む私のような鴉も居たね 々
軽トラの運転席にしがみ付き呑まれて行った男も居たね 々
軽トラの運転席で手を振って呑まれて行った感じもしたね 々
泥酔を覚ます間も無く大波に呑まれた漁夫も居たのだろうか 々
「お父さん、津波」と口に出し掛けてそのまま呑まれた妻も居たのか 々
○ 3・11「千年に一度」の地異の来てもうそれ以上戻れはしない (松戸市) 猪野富子
「千年に一度」とは、何処の地震学者が言ったのだろうか?
どのマスコミが言ったのだろうか?
「『千年に一度』が、私たちの生きている間にもう一度無い」とは、誰が保証してくれるのだろうか?
「東海大地震は、三年に一度ぐらいの極めて小規模なものであってくれればいい」と、今の私は、エゴイスティックにも願っているのである。
いずれにしろ、私たち日本人は、進むもならず「戻れもしない」大津波の前に立たされているのである。
終わってしまった“東北関東大震災”や“大津波”の事を指して述べているのではありません。
現在の事、これからの事を指して述べているのである。
〔返〕 退くも進むもならぬ大津波ただ茫然と流されて行く 鳥羽省三
東電の利益重視の発想が放射能をばら撒いたのか 々
「原発は真実クリーンなシステムか?」証明するため津波は寄せる 々
○ ケータイはつながらないのに充電の残量気になる余震の夜に (山形市) 渋間悦子
魔法の手箱のようにして普及して行った「ケータイ」すらも、今度ばかりは馬脚を現したような格好なのである。
「ケータイ」にしろ、パソコンにしろ、営利会社の通信網に頼り、その電源を東電などの配電会社の従来からの配電システムに頼り切っている限りは、いかなる通信機器も魔法の道具には成り得ないのである。
「余震の夜に」「つながらない」「ケータイ」の「残量」が「気になる」とは、いかにも山形県人女性らしい真面目さであり、可愛らしさである。
〔返〕 渋間から街覗き居し停電の夜にもみそか彼をぞ思ふ 鳥羽省三
○ 原発が峡二分せし枯木灘家族葬あり如月の昼 (和歌山市) 山口雅史
本作の作者・山口雅史さんは、今回の原発事故について直接述べても居られないし、放射能漏れに対する恐れをも述べて居られません。
しかし乍ら、「原発が峡二分せし枯木灘家族葬あり如月の昼」という、一首全体の表現で以って、それらのことを間接的に表現なさって居られるのである。
それにしても、あの「枯木灘」の「峡」を「原発」が「二分せし」とは切ない。
その背後には、膨大な利権が絡み、有象無象の輩が暗躍したのでありましょうか?
その「枯木灘」の民家で、「如月の昼」に「家族葬あり」とは、これは亦、しみじみとして趣き深く、長くて暗くて切ない歴史を感じさせる佳作である。
〔返〕 家族葬 切なく温き営みに如月の空曇りしならむ 鳥羽省三
家族葬 人の葬りそれで佳し有象無象の花輪は無用 々
家族葬 縁濃き者が集ひ来て一夜を明かし語るのも佳し 々
家族葬 お布施や戒名抜きにして真実涙を流すのも佳し 々
○ めぐり来る季節に遠く想うなり湖底の故郷のいくたびの春 (城陽市) 山仲 勉
3月28日付けの朝日新聞の朝刊の「短歌時評」欄に、田中槐氏は『今、何を、どううたうか』というタイトルで次のように語って居られる。
「短歌現代」三月号の歌壇時評で、吉川宏志が<類型>について書いていた。
<類型><類想><既視感>というものは、たしかに短歌においてまず批判される。だが「万葉集」の時代から、<類型>のなかで歌はつくられてきた。吉川宏志のように「<類型>になるか、秀歌になるかの差は、おそらく紙一重なのであ」り、「<類型>をことさらに恐れる必要はなくて、似たような表現の中に、何かわずかでも、自分の経験や体感がにじみ出ていれば、それで十分だ」という部分に異論はない。
<類型>が嫌われるのは、それが<類型>であることに無防備であるからではないだろうか。短歌は、膨大なデータベースの上に成り立っている。相聞歌であれ挽歌であれ、山のような「似たような歌」で溢れているのだ。もちろんそのすべてを参照することなど不可能ではあるが、多くの歌人はそのデータベースの先に作品があることを自覚している。「かけがえのない私」の「かけがえのない経験」など、そうそう起こりえないを知っている。すべて先人の手垢がついているのだ。
そこが自覚できるかどうかで、<類型>は変わるのではないか。
三月十一日の東日本大震災で、わたしも生まれて初めての恐怖を感じた。まさに「かけがえのない私の経験」だった。直接被災したかどうかにかかわらず、多くの人がそう感じているだろう。だが、今、その「かけがえのなさ」をうたうべきだとは思えないのだ。
阪神大震災のあとのように、これから新聞歌壇、総合誌、結社誌には震災を歌った作品が溢れるのだろう。それを悪いことだとは思わない。体験を歌にすることで恐怖心を昇華させたり、慰謝できる力が短歌にはある。しかしそれらの多くが、ただの<類型>作品の群れになることは、短歌にとり最上とは思えない。今、何を、どううたうか。こんな時こそ、考えたい。
以上で引用は終わりますが、無断引用、大変失礼に存じ上げます。
上掲の田中槐氏の“時評”は、私にとっては、殆んど異論を差し挟む必要が無いほどの卓見と思われる。
タイトルからも判断される通り、、田中槐氏が、東北関東大震災の余震が覚めやらぬ今、世界全体が東電の福島第一原発から噴き出す放射能の恐怖に怯えている今、敢えて、朝日新聞という大舞台を選び、こうした“時評”をお書きになられた目的の主たるものは、上掲の“時評”の最終段落を言いたいが為と思われる。
ならば、私が、田中槐氏の優れた文章を無断転載する場面を、震災についてお詠みになられた作品ではない、山仲勉さん作の鑑賞文を記すべき場面としたのは、私自身の判断ミスとするべきでありましょう。
だが、私は、敢えてこのスペースを選んで、上掲の田中槐氏の優れた“時評”を転載させていただいたのである。
山仲勉さん作は、確かに、田中槐氏の仰る「これから新聞歌壇、総合誌、結社誌」に「溢れるのだろう」「震災を歌った作品」ではない。
しかし乍ら、本作は、先輩歌人たちの短歌作品のみならず、詩歌全般、或いは歌謡曲の詞や小説なども含めた文芸全般を見渡して、<類型><類想>に満ち、<既視感>に満ちている作品であることは否めなく、本作の作者・山仲勉さんにとっても、「かけがえのない私の経験」をお詠みになった作品とは、思われないからである。
本作を、作者ご自身が、<類型>であることに十分に知っていて、それに対する批判などを防備してお詠みになられた作品と、私には到底思われないのである。
選者・永田和宏氏が、この時点で、敢えて、震災を題材にした作品以外の作品を入選作となされることは大変宜しい。
だが、震災を題材にした作品以外の作品の質が問題なのである。
〔返〕 中学の男便所もさながらに水の干上がり湖底顕はる 鳥羽省三
葛の湯の浴槽の形もそのままに水の枯れ果て湖底顕はる 々
○ わたくしがあなたの妻でありしこと梢をまどかな風がふきゆく (高槻市) 門田照子
実感を込めて実景をそのままスケッチしたのでありましょうが、「梢をまどかな風がふきゆく」という下句が、何故か謎めき暗示的である。
〔返〕 わたくしは貞淑なる妻なりき円かな家の主婦にありにき 鳥羽省三
○ 「お母さんはどこに仕舞ったのだろう」とやっぱりあなたはもういないんだ (瀬戸内市) 児山たつ子
一読した際に、詠い出しの部分を、「お母さんをどこに仕舞ったのだろう」と誤読してしまいました。
そして、「やっぱりあなたはもういないんだ」という後半部を読んだ後で、その誤読は“誤読ならざる正読”ではないかしら、と思うようにもなりました。
母一人子一人の三十男と結婚した女性が、姑の意地の悪さや口煩さに辟易して、新婚ほやほやの夫にその母親との別居を迫ったところ、それから間も無く、その女性に行き先を教えないままに母子共々行方をくらました、という話を耳にしたことがあったからである。
「やっぱりあなたは」の「やっぱり」とは、「あなた」が居なくなることを予想していたからこその「やっぱり」なのである。
〔返〕 「母さんは通帳何処に仕舞ったか?」夫に聞いても教えてくれない 鳥羽省三
○ 地下鉄の圧しくる風はまだ寒し北仙台駅ホームの三月 (仙台市) 坂本捷子
東北関東大震災の余震も治まらぬ中で、被災地の中心とも言うべき「北仙台駅」を題材にしながら大地震の気配すら感じさせない作風に、少なからぬ疑問を感じました。
本作の作者は、「地下鉄の圧しくる風はまだ寒し」という上句の叙述に、それと無く、地震に慄く作者ご自身の心理を表現したのでありましょうか?
それとも、本作は作者ご自身の旧作でありましょうか?
〔返〕 地下鉄のホームの風に慄いて仙台を去るふるさと捨てる 鳥羽省三
○ ねえちゃんは着てみていいよと言ったけど見ているだけにしたセーラー服 (富山市) 松田わこ
「見ているだけにしたセーラー服」ですか。
「まあ、わこちゃんはお利口さんですこと。」
〔返〕 いずれ着るセーラー服を殊更に頼んで着せてもらうこと無し 鳥羽省三
中学に入れば着られるセーラー服敢えて年寄る必要はない 々
○ 喚ぶ声か振り返りつつその母は足どり重く地震(ない)の地離る (福岡県) 城島和子
地震後の被災地の風景をテレビ画面で見たのでありましょう。
被災地から遠い福岡県に在っても、誰に向って「喚ぶ」のか判らない声のする彼方を「振り返りつつ」、「足どり」も「重く」「地震」に見舞われて壊滅した故郷を離れようとしている一人の「母」の姿に身をつまされたのでありましょうか?
それはそれとして、詠い出しの「喚ぶ声か」という疑問形の表現に対する評価は大きく分かれると思われます。
「これ在るが故に本作は切迫感に欠けた作品になった」などと申し上げたら、「酷評に過ぎる」と叱られましょうか?
〔返〕 その母は何方の母か喚ぶ声余りに多く聞き分けならず 鳥羽省三
その母は何処に行かむ後ろ髪引かるる如く被災地を去る 々
浜風に髪乱しつつ喚ぶ声聞き分けむとす 余震なほ寄す 々
○ 大津波押し寄せしのち瓦礫なる町を飛び交う烏の映る (稲敷市) 坂元善典
テレビ画面で、評者も見た場面である。
一面の「瓦礫」と化して人一人居ない「町」に、何を啄ばもうとするのか「烏」が「飛び交う」風景を、テレビカメラは無情にも映し出すのである。
評者はついうっかり「テレビカメラは無情にも映し出す」などと余計なことを言ってしまいましたが、本作の表現について申せば、そんな余計なことを言わず、ただ単に「烏の映る」としたことが、本作を印象深い作品とした要件となったのである。
〔返〕 烏らは何を啄ばみ飛び交うか津波の記憶啄ばみ飛ぶか 鳥羽省三
はらわたのはみ出た魚を啄ばんで鴉が三羽浜辺に居たね 々 きょときょとと目線定めず砂を食む私のような鴉も居たね 々
軽トラの運転席にしがみ付き呑まれて行った男も居たね 々
軽トラの運転席で手を振って呑まれて行った感じもしたね 々
泥酔を覚ます間も無く大波に呑まれた漁夫も居たのだろうか 々
「お父さん、津波」と口に出し掛けてそのまま呑まれた妻も居たのか 々
○ 3・11「千年に一度」の地異の来てもうそれ以上戻れはしない (松戸市) 猪野富子
「千年に一度」とは、何処の地震学者が言ったのだろうか?
どのマスコミが言ったのだろうか?
「『千年に一度』が、私たちの生きている間にもう一度無い」とは、誰が保証してくれるのだろうか?
「東海大地震は、三年に一度ぐらいの極めて小規模なものであってくれればいい」と、今の私は、エゴイスティックにも願っているのである。
いずれにしろ、私たち日本人は、進むもならず「戻れもしない」大津波の前に立たされているのである。
終わってしまった“東北関東大震災”や“大津波”の事を指して述べているのではありません。
現在の事、これからの事を指して述べているのである。
〔返〕 退くも進むもならぬ大津波ただ茫然と流されて行く 鳥羽省三
東電の利益重視の発想が放射能をばら撒いたのか 々
「原発は真実クリーンなシステムか?」証明するため津波は寄せる 々
○ ケータイはつながらないのに充電の残量気になる余震の夜に (山形市) 渋間悦子
魔法の手箱のようにして普及して行った「ケータイ」すらも、今度ばかりは馬脚を現したような格好なのである。
「ケータイ」にしろ、パソコンにしろ、営利会社の通信網に頼り、その電源を東電などの配電会社の従来からの配電システムに頼り切っている限りは、いかなる通信機器も魔法の道具には成り得ないのである。
「余震の夜に」「つながらない」「ケータイ」の「残量」が「気になる」とは、いかにも山形県人女性らしい真面目さであり、可愛らしさである。
〔返〕 渋間から街覗き居し停電の夜にもみそか彼をぞ思ふ 鳥羽省三
○ 原発が峡二分せし枯木灘家族葬あり如月の昼 (和歌山市) 山口雅史
本作の作者・山口雅史さんは、今回の原発事故について直接述べても居られないし、放射能漏れに対する恐れをも述べて居られません。
しかし乍ら、「原発が峡二分せし枯木灘家族葬あり如月の昼」という、一首全体の表現で以って、それらのことを間接的に表現なさって居られるのである。
それにしても、あの「枯木灘」の「峡」を「原発」が「二分せし」とは切ない。
その背後には、膨大な利権が絡み、有象無象の輩が暗躍したのでありましょうか?
その「枯木灘」の民家で、「如月の昼」に「家族葬あり」とは、これは亦、しみじみとして趣き深く、長くて暗くて切ない歴史を感じさせる佳作である。
〔返〕 家族葬 切なく温き営みに如月の空曇りしならむ 鳥羽省三
家族葬 人の葬りそれで佳し有象無象の花輪は無用 々
家族葬 縁濃き者が集ひ来て一夜を明かし語るのも佳し 々
家族葬 お布施や戒名抜きにして真実涙を流すのも佳し 々
○ めぐり来る季節に遠く想うなり湖底の故郷のいくたびの春 (城陽市) 山仲 勉
3月28日付けの朝日新聞の朝刊の「短歌時評」欄に、田中槐氏は『今、何を、どううたうか』というタイトルで次のように語って居られる。
「短歌現代」三月号の歌壇時評で、吉川宏志が<類型>について書いていた。
<類型><類想><既視感>というものは、たしかに短歌においてまず批判される。だが「万葉集」の時代から、<類型>のなかで歌はつくられてきた。吉川宏志のように「<類型>になるか、秀歌になるかの差は、おそらく紙一重なのであ」り、「<類型>をことさらに恐れる必要はなくて、似たような表現の中に、何かわずかでも、自分の経験や体感がにじみ出ていれば、それで十分だ」という部分に異論はない。
<類型>が嫌われるのは、それが<類型>であることに無防備であるからではないだろうか。短歌は、膨大なデータベースの上に成り立っている。相聞歌であれ挽歌であれ、山のような「似たような歌」で溢れているのだ。もちろんそのすべてを参照することなど不可能ではあるが、多くの歌人はそのデータベースの先に作品があることを自覚している。「かけがえのない私」の「かけがえのない経験」など、そうそう起こりえないを知っている。すべて先人の手垢がついているのだ。
そこが自覚できるかどうかで、<類型>は変わるのではないか。
三月十一日の東日本大震災で、わたしも生まれて初めての恐怖を感じた。まさに「かけがえのない私の経験」だった。直接被災したかどうかにかかわらず、多くの人がそう感じているだろう。だが、今、その「かけがえのなさ」をうたうべきだとは思えないのだ。
阪神大震災のあとのように、これから新聞歌壇、総合誌、結社誌には震災を歌った作品が溢れるのだろう。それを悪いことだとは思わない。体験を歌にすることで恐怖心を昇華させたり、慰謝できる力が短歌にはある。しかしそれらの多くが、ただの<類型>作品の群れになることは、短歌にとり最上とは思えない。今、何を、どううたうか。こんな時こそ、考えたい。
以上で引用は終わりますが、無断引用、大変失礼に存じ上げます。
上掲の田中槐氏の“時評”は、私にとっては、殆んど異論を差し挟む必要が無いほどの卓見と思われる。
タイトルからも判断される通り、、田中槐氏が、東北関東大震災の余震が覚めやらぬ今、世界全体が東電の福島第一原発から噴き出す放射能の恐怖に怯えている今、敢えて、朝日新聞という大舞台を選び、こうした“時評”をお書きになられた目的の主たるものは、上掲の“時評”の最終段落を言いたいが為と思われる。
ならば、私が、田中槐氏の優れた文章を無断転載する場面を、震災についてお詠みになられた作品ではない、山仲勉さん作の鑑賞文を記すべき場面としたのは、私自身の判断ミスとするべきでありましょう。
だが、私は、敢えてこのスペースを選んで、上掲の田中槐氏の優れた“時評”を転載させていただいたのである。
山仲勉さん作は、確かに、田中槐氏の仰る「これから新聞歌壇、総合誌、結社誌」に「溢れるのだろう」「震災を歌った作品」ではない。
しかし乍ら、本作は、先輩歌人たちの短歌作品のみならず、詩歌全般、或いは歌謡曲の詞や小説なども含めた文芸全般を見渡して、<類型><類想>に満ち、<既視感>に満ちている作品であることは否めなく、本作の作者・山仲勉さんにとっても、「かけがえのない私の経験」をお詠みになった作品とは、思われないからである。
本作を、作者ご自身が、<類型>であることに十分に知っていて、それに対する批判などを防備してお詠みになられた作品と、私には到底思われないのである。
選者・永田和宏氏が、この時点で、敢えて、震災を題材にした作品以外の作品を入選作となされることは大変宜しい。
だが、震災を題材にした作品以外の作品の質が問題なのである。
〔返〕 中学の男便所もさながらに水の干上がり湖底顕はる 鳥羽省三
葛の湯の浴槽の形もそのままに水の枯れ果て湖底顕はる 々
○ わたくしがあなたの妻でありしこと梢をまどかな風がふきゆく (高槻市) 門田照子
実感を込めて実景をそのままスケッチしたのでありましょうが、「梢をまどかな風がふきゆく」という下句が、何故か謎めき暗示的である。
〔返〕 わたくしは貞淑なる妻なりき円かな家の主婦にありにき 鳥羽省三
○ 「お母さんはどこに仕舞ったのだろう」とやっぱりあなたはもういないんだ (瀬戸内市) 児山たつ子
一読した際に、詠い出しの部分を、「お母さんをどこに仕舞ったのだろう」と誤読してしまいました。
そして、「やっぱりあなたはもういないんだ」という後半部を読んだ後で、その誤読は“誤読ならざる正読”ではないかしら、と思うようにもなりました。
母一人子一人の三十男と結婚した女性が、姑の意地の悪さや口煩さに辟易して、新婚ほやほやの夫にその母親との別居を迫ったところ、それから間も無く、その女性に行き先を教えないままに母子共々行方をくらました、という話を耳にしたことがあったからである。
「やっぱりあなたは」の「やっぱり」とは、「あなた」が居なくなることを予想していたからこその「やっぱり」なのである。
〔返〕 「母さんは通帳何処に仕舞ったか?」夫に聞いても教えてくれない 鳥羽省三
○ 地下鉄の圧しくる風はまだ寒し北仙台駅ホームの三月 (仙台市) 坂本捷子
東北関東大震災の余震も治まらぬ中で、被災地の中心とも言うべき「北仙台駅」を題材にしながら大地震の気配すら感じさせない作風に、少なからぬ疑問を感じました。
本作の作者は、「地下鉄の圧しくる風はまだ寒し」という上句の叙述に、それと無く、地震に慄く作者ご自身の心理を表現したのでありましょうか?
それとも、本作は作者ご自身の旧作でありましょうか?
〔返〕 地下鉄のホームの風に慄いて仙台を去るふるさと捨てる 鳥羽省三
○ ねえちゃんは着てみていいよと言ったけど見ているだけにしたセーラー服 (富山市) 松田わこ
「見ているだけにしたセーラー服」ですか。
「まあ、わこちゃんはお利口さんですこと。」
〔返〕 いずれ着るセーラー服を殊更に頼んで着せてもらうこと無し 鳥羽省三
中学に入れば着られるセーラー服敢えて年寄る必要はない 々