臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(005:姿・其のⅠ)

2011年04月14日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  世も末と思はぬでもなし愛猫の空に腹向け眠る姿に

 「愛猫の空に腹向け眠る姿」に「世も末と思はぬでもなし」などとまで仰るのは、またまた鬚彦さんらしいサービスである。
 こうしたサービス精神の遺憾無き発揮こそが、インテリ短歌の何よりの醍醐味でありましょう。
 ご自身をピエロにしないインテリは真のインテリではありません。
 教養の香り高き髭彦の御作に期待するところ多い鳥羽省三で御座います。
 〔返〕  完走の未だ二十余 世も末と思わぬでなし題詠短歌   鳥羽省三
 

(佐藤紀子)
○  塀の下のほんの少しのへこみより兎スルリと姿現はす

 干支シリーズの一首ではありましょうが、「塀の下のほんの少しのへこみより兎スルリと姿現はす」とは、「兎」という生き物の本質をついた作品である。
 さすがは超ベテランの佐藤紀子さんである。
 〔返〕  金網の隙間を拡げ潜り込み鼬が兎を食べちゃいました   鳥羽省三


(夏実麦太朗)
○  闇に立つ観音菩薩立像に姿勢の悪い何体かあり

 「観音菩薩立像」とは理想的女性像を形象した芸術作品であり、観音信仰の対象となる偶像でもありましょう。
 その「観音菩薩立像に姿勢の悪い何体かあり」とは、それはいけません。
 そんな「観音菩薩立像」に非ざる「観音菩薩立像」は、仏教信仰の妨げとなり、身体の正しい発育の妨げともなりますから、即刻、焼却処分に処しましょう。
 〔返〕  山門の仁王様像に威厳無し褌だらり口元にやり   鳥羽省三


(アンタレス)
○  ちらと見し吾がはだか身の崩れしに姿見を返す老いの悲しさ

 「ちらと見し」の「し」及び「崩れしに」の「し」が、原則的には、“自己の体験した過去の出来事を回想”して言う時に使う助動詞「き」の連体形であることを忘れてはいけません。
 家具の大正堂に出掛けて、手に取った「姿見」に映った「吾がはだか身」を「ちらと見」たところ、その「はだか身」が往年の面影も無く、すっかり「崩れ」切ってしまっていたのに驚くやら愕然とするやらして、「こんなだらしない現在の『吾がはだか身』を、よくも映してくれたな!」とばかりに、即刻、売り場の係員さんに返して、我が「老いの悲しさ」を嘆いたのは、本作創作時点のことでありましょう。
 だとしたら、本作は“時制の不一致”の見本みたいな作品でありましょう。
 原則通りの使い方でないにしても、過去の助動詞「き」を無闇矢鱈に使ってはいけません。
 また、“家具の大正堂の売り場”のような公衆の面前で「吾がはだか身」を曝したりしたら、その美醜に関係無く“公然猥褻罪”に抵触しますから、これ亦いけません。
 〔返〕  モーテルの姿見に映る裸身に愕然とせしは昨夜のことか   鳥羽省三
 アンタレスさん、たまには笑ってやって下さい。
 不倫の場面でもご想像なさり、ロマンチックなご気分にお浸り下さい。


(鮎美)
○  姿見を割れども我の割れざるを理解してゐるゆゑ割らずをり

 こちらの女性も亦、愕然となさった方とお見受けする。
 でも、「姿見を割れども我の割れざるを理解してゐるゆゑ割らずをり」とは、その責任が何処の何方に在るのかを分かっていらっしゃるのでありましょう。
 「二十歳を過ぎたら、ご自身のご容姿の責任を、母親に求めたり、『姿見』に求めたりしてはいけない」ということを、この方はご存じなのでありましょう。
 ところで、本作の作者は“鮎美”さんですから、本当は、お名前道通りで“容姿端麗”な女性でありましょう。
 かくも容姿端麗にして、尚且つ美貌を追求する。
 女性の執念というものは、かくも飽く無きものでありましょうか?
 いかがでありましょうか?
 〔返〕  姿身を割って尚且つ割らざるは容姿に対する女の執念   鳥羽省三


(遠野アリス)
○  姿見に映るじぶんに幻滅する それでも好きなストールを巻くする

 こちらの女性は“愕然”のみならず、「姿見に映るじぶんに幻滅」さえ感じたのであるが、「それでも」諦めきれずに「好きなストールを巻く」などと、無駄な抵抗を試みているのである。
 “遠野アリス”さんと仰るからには、本作の作者は、ご自身の容姿端麗さに、人並み以上のご自信とご期待を持たれていらっしゃったはずである。
 でも、考えてもみなさい。
 イギリスの数学者にして作家チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、ルイス・キャロルの筆名で『不思議の国のアリス』を書いたのは、十九世紀の半ば過ぎのことですよ。
 そして、今は二十一世紀。
 あなた様がご自慢の美貌とて、古びて来て、皺くちゃになるはずではございませんか?
 〔返〕  アリスとて食っちゃ寝してては太るはずかつての美貌は遠野の彼方   鳥羽省三 
      未だ尚ファンタジーの世界に生き居るやアリスとふ名の女性の我執     々


(笹木真優子)
○  「こんなんじゃあの人の傍に居られない」「あんたのせいだ」姿見を打つ

 “たんたん短歌”風な作品ながら、説得力のある一首である。 
 でも、「『あんたのせいだ』」と「姿見を打つ」の間を“一字空き”にするか、中間に引用を受ける助詞「と」を入れた方が宜しいかも知れません。
 〔返〕  「こんなんじゃ連れて歩けない!」「あんただってそうよ。メタボはあんたでしょう!」   鳥羽省三


(龍翔)
○  姿見を赦してやろう 本当の私を決して映さないなら

 「本当の私を決して映さないなら」がなかなか微妙な表現である。
 「姿見」が山本山紛いの龍翔さんを、「決して映さない」と誓うなら、今度だけは、特別の計らいとして「赦してやろう」という訳なのでありましょうが、“財団法人・日本相撲協会”の方々も、せめて龍翔さんぐらいの寛大な心で以って、山本山らを許してやって欲しいものである。
 〔返〕  彼らから相撲取ったらただの豚 豚と違って肉も売れない   鳥羽省三


(南雲流水)
○  姿見の向こう側が本当でいつも真逆に伝えてしまう

 話者の立ち位置、つまり視点が問題である。
 本作の話者の立ち位置は“神の座”とも言うべき微妙不可思議な位置であって、その位置に立つ話者には、「姿見」に映る何方かの姿と、その「向こう側」の何方かの姿が同時に見えるのでありましょう。
 ところで、私たち日本人、特に日本人の女性は「姿見」の「向こう側」に立ち、その「姿見」に映った姿を、「いつも」「いつも」自分自身の真の姿と誤解して、喜んだり悲しんだりしているのであるが、本作の作者が仰る通り、「姿見の向こう側が本当で」「姿見」は「いつも」私たち「姿見」の前に立つ者に「真逆に伝えてしまう」のであるから、一喜一憂することは無駄なことと思われます。
 その点からすると、ガリレオ・ガリレイの子孫たるイタリア国民は、決してそんなことが無いということである。
 〔返〕  右の手をチョキの形にしてたのにチョキの形は左手だった   鳥羽省三


(新井蜜)
○  姿見をのぞけば青き夕暮れをセーラー服が沈みゆきたり

 何か怪しげな場面である。
 察するに、本作の作者・新井蜜さんは、インターネット上の援交サイトで知り合った女高生と、ある春の日の午後に、千駄ヶ谷界隈のホテルに連れ込んだのでありましょうか?
 発覚すれば、何事かの罪名を伴うその一時が終わった「青き夕暮れ」に、その哀れな女高生は、再び「セーラー服」を身に纏い、三万円の現金が入った鞄を手にしながら、当該ホテルの部屋から廊下へと出て行くのであるが、未だ惰眠を貪っている新井蜜さんの目には、「姿見」に映っているその女高生の姿が見えないのである。
 本作も亦、「神の座」に立つ話者の語った哀れな話でありましょう。
 〔返〕  寝乱れたシーツの滲みも映し出し姿見厳し冷酷無情   鳥羽省三
 

(梳田碧)
○  姿見はこちらですけどお客さまおまえにそれはぜったい似合わん

 本作は、渋谷界隈のブティックのカリスマ女店員のお立場で詠まれた作品でありましょう。
 彼女らカリスマ女店員の方々は、お店の“売り上げ倍増計画”及びご自身の“所得三倍増計画”に基づいて、真っ赤に彩られたその唇からは「いらっしゃいませ、こんにちは。よくお似合いでございますよ。」といった甘い言葉を漏らしながらも、その本音では、「蒲田辺りの店で、もう十日も過ぎた頃に買えば、五分の一以下の値段で買えるのに、十万円も払う馬鹿女がよく居るもんだ。『おまえにはそれはぜったい似合わん』、止めとけ、止めとけ」と思っているのである。
 本作の作者・梳田碧さんのお勤めになって居られるブティックの店名は何と言うのでありましょうか?
 また、カリスマ女店員としての彼女の源氏名は何と言うお名前でありましょうか?
 〔返〕  こんにちは。みどりと言う名で出ています。ひらがな名前の“みどり”ですけど。   鳥羽省三


(富田林薫)
○  姿見のなかのわたしは嘘つきだ嘲るような薄いくちびる

 一人の若い女性の体内には、自分が美しいと信じる心と、自分を美しいと信じたい心と、更には、自分を美しいと信じたいが信じきれない心などが、色々様々に同居しているのである。
 本作中野「嘲るような薄いくちびる」とは、“自分を美しいと信じたいが信じきれない心”が増さった時に感じたお気持ちをリアルに表現なさったのでありましょうか?
 〔返〕  姿見に映る私は美しいけれど心で疑って居る   鳥羽省三      


(那緒)
○  姿見がとらえたぎこちない笑みが駅ビル3階ジャケットを買う

 本作も亦、“神の視座”にお立ちになってお詠みになった作品でありましょう。
 宇都宮駅の「駅ビル」の5階の高級紳士服店・ライオンの売り場の「姿見」の前で、つい先ほど「ぎこちない笑み」を浮かべた居た一男性が、同じビルの「3階」に在る“ユニクロ”で、2,980円の「ジャケットを買う」ご様子を、神の視座にお立ちになった、本作の作者・那緒さんの目は素早く捉えたのでありましょう。
 〔返〕  二桁も違うスーツを買う筈が中国製のユニクロになる   鳥羽省三


(村木美月)
○  背中から蒸発してるもやもやの正体を知る姿見の中

 「背中から蒸発してるもやもや」とは、福島第一原発の原子炉から「蒸発してる」放射能で無いとすれば、男性から愛を求めて止まない情念でありましょうか?
 ご自宅の姿見の前にお立ちになり、「姿見の中」に映るご自身の姿をご覧になることに拠って、初めて、その「もやもやの正体を知る」ことが出来た、本作の作者・村木美月さんは、これ以降、また一段と新しい境地にお立ちになられ、新基軸の作品を沢山お詠みになられることでありましょう。
 評者も亦、大いに期待して居ります。
 〔返〕  背中から蒸発してるもやもやは未だ乾かぬ下着の蒸れか   鳥羽省三


(紫苑)
○  姿見にかかる端布(はぎれ)は佳き日々の名残か祖母は百歳(ももとせ)を生く

 横書きで記載される短歌での振りがなは、作品を徒に長く見せ、作品の価値を損なう点が無視出来ませんから、可能な限り施さないようにするべきかと思われます。
 本作に於ける「(はぎれ)」「(ももとせ)」との措置も無用かと存じます。
 私の作品の読者ならは、「端布」は必ず「はぎれ」と読んで下さる筈だ。
 「百歳」は必ず「ももとせ」と読んで下さる筈だ。
 大変失礼ながら、本作中の「端布」を「はぬの」と読んだり、「百歳」を「ひゃくさい」と読んだりするような馬鹿者には私の作品を読んで欲しく無い、といった確固たる信念に基づいてご投稿なされるべきかと思われます。
 〔返〕  姿見を覆へる布は昨年の白寿祝ひの袱紗の絹か   鳥羽省三


(萱野芙蓉)
○  ではごめんあそばせ、逃げの体勢が基本姿勢でありますゆゑに

 何処かの国の政治家みたいである。
 そう言えば、赤穂浪士の一人に、萱野姓の方がいらっしゃったような気がします。
 敵前逃亡を図った彼は、本作の作者・萱野芙蓉さんの十数代前の親類縁者でありましょうか?
 だとしたら、血は争えないものである。
 〔返〕  「ではごめん下さいませ」と地震など揺らない国で暮らしましょうか   鳥羽省三
 

(吾妻誠一)
○  焼き焦がれ紅く肌染め重なるか 浜焼き鯖の姿寿司食う

 福井県人にとっては“焼き魚”と言えば「浜焼き鯖」を指すくらいの郷土色豊かな食べ物である。
 そして、近年では、その「浜焼き鯖」をアレンジした「浜焼き鯖の姿寿司」が、福井県小浜市辺りの板長の手に拠って考え出され、都内などのデパートで行われる“日本全国旨い物市”といった催しの花形として、全国的なブームを呼んでいるのである。
 作中の上句「焼き焦がれ紅く肌染め重なるか」は、脂がたっぷりと乗った小浜産の鯖を一匹そっくり竹串に刺し、炭火で豪快に焼き上げた「浜焼き鯖」をネタとした、小浜名物「浜焼き鯖の姿寿司」をそのまま活写した表現である。
 その昔、「御食国」と呼ばれた若狭には、まだまだ美味しい物が沢山ありますよ。
 〔返〕  焼き鯖の匂ひ恋しき半夏生若狭に行かむ小浜を訪はむ   鳥羽省三


(津野)
○  改札は後ろ姿を排出す肩の向こうの家路夕焼け

 この作品も亦、“神の座”からの観察に基づいてお詠みになられた作品でありましょう。
 本作の作者・津野さんは、今しも私鉄・東急池上線の小さな「改札」から「排出」されたようにして屋外に出られ、「肩の向こう」に見える、かなり下り坂になっている「家路」の彼方の「夕焼け」を一望しながら、一人静かに足をお運びになって居られるのである。
 評者は、仮に“神の座”と言って済ませましたが、不思議なるは、本作の話者の立ち位置である。
 神の如き彼の目には、津野さんを「排出」した「改札」が真正面に見え、併せて、「排出」された津野さんの後姿が見えるのである。
 そして、「肩の向こうの家路夕焼け」と言う時の話者の立ち位置は、明らかに津野さんの後方であり、津野さんの「肩」の高さよりも少し高い位置に在ると思われるのである。
 私たち歌詠みの人に優れた立ち位置は、私たち歌詠みは、かかる「神の座」に立ち位置を占めて、上下左右、東西南北の風景を自由自在に眺め得ることである。
 また、私たち歌詠みの座から見えるものは、単に空間だけではありません。
 私たち歌詠みの目を以ってすれば、空間同様に、時間も亦、自由自在に見えるのである。
 かかる“神の座”に立ち位置を占めることを許された、私たち歌詠みこそは、真の意味の“選良”と申せましょうか?
 〔返〕  また一人続いて一人と吐き出して改札機械は肛門のごと   鳥羽省三


(みずき)
○  容姿から零れる華よ三月の壁に懸かりて仄か...

 「容姿から零れ」て、「三月の壁に懸かりて仄か」な「華」とは、お茶会にお召しになられた桜模様のお着物でありましょうか?
 本作の作者のみずきさんは、その華やかなお着物に包まれて宗匠のお淹れになられたお抹茶をお喫みになられた、今日の午後の“花見のお茶会”でのご自分のご様子を反芻なさって、今しも恍惚・上気なさって居られるのでありましょうか。
 でも、お年がお年ですから、あまりいい気分に浸っても居られませんよ。
 私の乏しい経験からしても、人間という者は、特にご年輩の女性という者は、こうして恍惚としていらっしゃる折に、ついうっかりお下を濡らしてしまうことが多いからで御座います。
 〔返〕  お花から帰りし孫の振り袖よ匂へる如く衣桁に掛かり   鳥羽省三


(紗都子)
○  だれにでも揺るがぬ軸があるというヨガの講師の姿勢うつくし

 名手・高松紗都子さんの御作ではあるが、誤読に陥り易い作品である。
 即ち、「だれにでも揺るがぬ軸があるという」という格言めいた言葉は、作中の「姿勢うつくし」き「ヨガの講師」がお話になられた言葉でありましょうか?
 それとも、作者・紗都子さんは、整体の教科書などをお読みになって知った「だれにでも揺るがぬ軸があるという」という言葉を思い出しながら、「ヨガの講師の姿勢うつくし」き様を目前にして居られるのでありましょうか?
 でも、この曖昧さは、決して本作のマイナス点ではありません。
 こうした曖昧さがあればこそ、この一首の内容は、折りからの落下のように揺曳として、より魅力的になっているのである。
 少し褒め過ぎでありましょうか?
 〔返〕  何方にも“時分の華”は在ると言ふ海老様の鼻折られちまった   鳥羽省三


(黒崎聡美)
○  立ち読みをしているきみがそこにいてうしろ姿をしばし見つめる
(のわ)
○  その姿いつでも私の斜め前シャーペン下敷きなんでも観察

 ストーカー紛いと申しましょうか、或いは“視姦”紛いと申しましょうか?
 異性の姿を眺めるという内容の作品が二首続きましたので、比較しながら論評致しましょう。
 完成度からすれば、黒崎聡美さんの作品が優り、題材の目新しさからすれば、のわさんの作品が優っている。
 「立ち読みをしているきみがそこにいて」、その「きみ」に密かに憧れている私は、とは「うしろ姿をしばし見つめる」、有り触れた情景ではあるが、「しばし見つめる」者が女性であるだけに、その気持ちを思うととても切ない。
 かく申す私などは、「立ち読みをしている」私を「見つめる」女性を意識して、さも思案あり気に、頬杖を突いたりしてみたのであるが、本棚の隙間から「見つめて」いるのは、万引き防止の監視員ばかりでがっかりしたことがありました。
 “のわ”さんも亦、女性でありましょうか?
 だとしたら、同じ講義に出ている憧れの男性の「斜め」後ろの席が“のわ”さんの指定席であり、毎週一時間ずつ、気弱な“のわ”さんはこの指定席にお座りになられ、「シャーペン」「下敷き」など何でも、相手の男性の所有物を眺めることを唯一の楽しみとなさって居られるのでありましょうか?
 私事ながら、学生時代の私も、ある時、斜め後ろの席の女性にそんな気配を感じたものですから、ある時、わざと買ったばかりの手袋の片っ方を彼女の目の前に落としてみたのですが、その女性は勿論、同じ教室の何方もそれを拾ってはくれませんでした。
 そこで私は、今更時分で拾う訳にも行かず、その冬は手袋を片っ方を左手に嵌めて過ごしました。
 その冬の寒かったこと、寒かったこと、東京オリンピックが行われた年の冬の記憶ではありますが、寒い思いをして過ごした冬の記憶は、今でもまだ私の右手に凍みついているような気がします。
 〔返〕  立ち読みをしても手袋落としても女性は誰も見ててくれない   鳥羽省三 

 
(矢野理々座)
○  残酷な調理法だね姿焼きまだしもマシか踊り食いより

 言われてみれば、その通りである。
 〔返〕  恥ずかしいお名前だよね本多顕彰ならまだしも池田亀鑑は   鳥羽省三


(芳立)         〈寄名所恋、真姿の池〉 
○  しろたへの胡粉と紅に病みながらなに真姿の池に禊がぬ 
            ※胡粉【はふに】、紅【べに】、真姿【ますがた】、禊がぬ

 先ず、何よりも“※印し”の後の“註”乃至は“ふりがな”が邪魔である。
 そのうえに、「禊がぬ」には、“ふりがな”も意味の説明もありません。
 こうした小細工をしてまでお詠みになりたかった作品の意味を解る人はなかなかいらっしゃいませんよ。
 多くの方々に読んで貰えない投稿にどんな意味が在るのでしょうか?
 それはそれとして、作中の「真姿の池」とは、“お鷹の道・真姿の池湧水群”と称して、東京都国分寺市にある“歌枕”の地であり、平安初期の美女・玉造小町がお百度参りをしようとした名水の地でもあり、現在は“全国名水百選”に数えられているのである。
 一首の意は、「貴女は顔中を胡粉塗れにし、唇を紅で真っ赤に染めて、その副作用でお苦しみになって居られる。それなのに何で、あの『真姿の池』にお百度参りをして、病気で苦しんでいるお顔を、あの清らかな水に映したり、洗ったりなさらないんですか」といったところでありましょう。
 こうした虚仮脅かしの作品は感心しません。
 〔返〕  玉台に座ってないで降りて来い自分を茶化した歌でも詠みな   鳥羽省三


(音波)
○  そのまんま春が来そうな休日に後ろ姿の猫を見ている

 「そのまんま」東さんは、東京都知事選挙で次点ながら見事落選しましたが、作中の「そのまんま春」さんは「来そうな」感じですか?
 そんな感じの「休日に後ろ姿の猫を見ている」とは、かなりの暇人ではありませんか?
 今度の日曜日には、府中の競馬場にお出掛けになりませんか。
 穴馬ながら「ソノマンマハル」は、必ずや来ると思いますよ。
 一発当てて、一千万円ぐらい寄付しませんか?
 〔返〕  3枠はソノマンマハル一頭で先行逃げ切り短距離タイプ   鳥羽省三


(牛 隆佑)
○  生き急ぐあなたを乗せてびょうびょうと地球は前傾姿勢で走る

 「地球は前傾姿勢で走る」というのが面白い。
 「生き急ぐあなた」が私たち日本人ならば、この「地球」は確かに「前傾姿勢」で走っているような感じですね。
 〔返〕  原発も宇宙開発も止めにして生活レベルを半減しよう   鳥羽省三


(コバライチ*キコ)
○  ばらばらの姿も楽し長閑なる寄居の寺の五百羅漢の

 作中の「寄居の寺の五百羅漢」とは、埼玉県寄居町の古刹・少林寺(曹洞宗)の境内に在る「五百羅漢」像を指して言うのでありましょう。
 作中に「ばらばらの姿も楽し」とある通り、「寄居の寺の五百羅漢」の最大の魅力は、その一体一体が極めて個性的な表情をしていることである。
 ある像は笑い、ある象は泣き、その仕草や表情が全て異なっている点にあるのである。
 この日曜日に、あなたも恋人と一緒にお出掛けになりませんか。
 境内の桜も未だ散らないと思いますよ。
 〔返〕  コバライチキコさんと共に手を合わせ寄居の寺の五百羅漢拝む   鳥羽省三


(花夢)
○  恋人に褒められたから嬉しくて姿勢をすこし猫背になおす

 通常の女性ならば、「猫背」の「姿勢」を「なおす」のでありましょうが、本作の作者・花夢さんは、未だ花の独身で「姿勢」の宜しいコチコチ娘でありますから、「恋人に褒められたから嬉しくて」「姿勢をすこし猫背になおす」と仰るのである。
 花夢さんは、それでも尚且つ魅力的な女性でありますから、「恋人」は必ずや手を出し足を出し、何々を出すに違いありません。
 〔返〕  恋人に褒められたから嬉しくてモーテル代を全部出したの   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
○  あと三分待たせてみやう珍しく緊張してゐる後姿を

 こちらの女性も、少々年増ながらも絶世の美女なのである。
 デイトの現場に一時間も前に到着してるのに、若年の恋人が「珍しく緊張してゐる後姿を」見たいからとて、「あと三分待たせてみやう」と仰るのは、ご自身の魅力の全てを十分以上に知り尽くしている熟年女性の確固たる自信に基づいたお言葉なのである。
 〔返〕  過剰なる自信を持つのはいけません若いツバメは身を翻す   鳥羽省三