臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(4月4日掲載・其のⅣ)

2011年04月11日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]


○  一際に星の瞬き美しき明かりの消えし地震の夜空に  (盛岡市) 佐藤忠行

 停電などで街並みの明かりが消えて初めて星空の美しさに気が付くということがある。
 したがって、私には、停電の原因が地震や津波にあったことを別にすれば、街並みや家の中が明るいのが良いか、星空が美しいのが良いかという点については、選択の余地が多分に在ると思われるのである。
 それはそれとして、私は、本作の作者が、この作品の初句を「一際に」としたことについては、大きな疑問を感じて居ります。
 通常「一際(ひときは)」という語は、それだけで一語の“副詞”であり、これ語幹とした語を“ナリ活用の形容動詞”として活用させ、「一際なり」「一際に」などとして用いたりすることは在り得ませんし、また、“ナリ活用の形容動詞から派生した副詞”としての「一際に」の存在を、正しい日本語として認めている辞書は存在しません。
 したがって、五音が必要な短歌の初句に、これに「に」を付け加えて「一際に」という形で用いることは、“音数合わせ”の“ご都合主義”以外の何ものでもなく、短歌が世間の常識から隔絶して袋小路に入って行く原因の一つにもなるのではないでしょうか?
 選者の佐佐木幸綱氏は、常識的にはでたらめとも言うべきこうした語法ならぬ“誤法”を、日本語の正しく新しい語法として、積極的にお認めになろうとするお覚悟の下に、本作を首席にお選びになったのでありましょうか?

  〔返〕  一様に灯りが消えて手を伸ばし摑めるほどに澄みし星空   鳥羽省三
 似たような構造の語であっても、上記・佐藤忠行さん作中の「一際に」と、本返歌中の「一様に」とは全く異なります。
 何故ならば、「一様に」は、“ナリ活用の形容動詞”の連用形としても、“副詞”としても認められているのに対して、「一際に」は、“ナリ活用の形容動詞”の連用形としても“副詞”としても認められていないからである。


○  突然に激しく揺れてテーブルの下に潜りて恐怖に耐えおり  (奥州市) 大松澤武哉

 「恐怖に耐えおり」とまで述べる必要があったかどうかが問題である。
 〔返〕  突然に激しく揺れた仏壇の花瓶の倒れ位牌飛び出づ   鳥羽省三


○  新聞のこれまでになき大活字津波の驚異まざまざと知る  (福岡市) 石原喬子

 「新聞のこれまでになき大活字」に「津波の驚異」を「まざまざと知る」という形の災害体験も、確かに在り得ましょう。
 〔返〕  佑ちゃんが二軍に落ちた翌朝のスポーツ各紙の活字の巨大さ   鳥羽省三
  

○  丹精の田畑を津波が呑み行くをテレビ画面は冷徹に映す  (長浜市) 山田貞嗣

 米余り、減反政策が布かれていた今日、別の観点からすると、「丹精の田畑」であったかどうかが問題である。
 この点は、一人の農民が自作の「田畑」の耕作に「丹精」に取り組んだかどうか、といったレベルの問題として述べているのではなく、我が国の農業政策のレベルの問題として述べているのである。
 かと申しても、私は何方かのように、“天罰が当たった”とまでは申しませんが。
 〔返〕  丹精の新居流され残るのは三十五ヵ年割賦の借財   鳥羽省三


○  くりかへし壊滅といふことば聴く巨大地震を伝へるテレビ  (横浜市) 滝 妙子

 アナウンサーは「壊滅」という言葉を「くりかえし」「くりかえし」言い、画面には「壊滅」の様が「くりかえし」「くりかえし」映し出されて居りました。
 〔返〕  一局が「壊滅」と言えば他局また「壊滅」と言うこだまでしょうか?   鳥羽省三


○  現実にならねばよいがと不安なりチェルノブイリの石棺のひび  (山口県) 宮田ノブ子

 福島第一原発全体を大きな「石棺」の如くもので覆う、という案が浮上してとも聴いて居ります。
 そうしても尚かつ、その「石棺」の中では、ほとんど永久的に核分裂が盛んに行われている訳ですから、どうしようもありません。
 「現実にならねばよいがと不安なりチェルノブイリの石棺のひび」が、数年後の福島第一原発の現実ではない、と誰が言い得ましょうか?
 〔返〕  喪中とて投票場には行かざるも桜吹雪を浴びて涙す   鳥羽省三
      何故に桜は咲くか散るのみを急ぐが如し 今年の桜     々


○  きつと来る宝永級が江戸の生まれの祖母の語りし安政の地震  (須崎市) 森 美沢

 作中の四句目「祖母の語りし」の「し」が、“語り手自身が直接的に体験をした過去の出来事を回想して言う”時に使う助動詞「き」の連体形であることに留意して、本作の意図する内容を口語で記すと、「安政の地震の時に、江戸の生まれの祖母が『そのうちに、宝永級の地震がきっと来る』と語った(のを私は直接聴いた)」ということになりましょう。
 だが、過去の助動詞「き」は、昨今ではこうした原則的な形でばかり使われるとは限りませんから、前述中の「(のを私は直接聴いた)」の部分は無視して宜しいかも知れません。
 それにしても、推敲不足の目立つ作品である。
 あれも言いたい、これも言いたいでは、三十一音の範囲内に収まり切りません。 
 このような形では、到底、短歌とは言えません。
 そのうえ、格別な内在律も感じられませんから、韻律の悪さが命取りとも思われます。
 〔返〕 「きつと来む。宝永級がと恐れつ」と江戸期生まれの祖母の日記に   鳥羽省三   


○  打つ鐘が響きわたりて慰霊堂を満たす人々居住まひ正す  (国分寺市) 古川公毅

 本作も亦、東北関東大震災関連の作品でありましょうか?
 もしも、そうでなかったとしたならば、なかなかの出来栄えであるだけに真にタイミングの良くないご投稿であり、ご入選でもあろうかと思われます。
 〔返〕  弔鐘が堂内に満ち頭垂る死没者千余の合同葬儀   鳥羽省三


○  菜の花が揺れ子どもらが釣りをする回天訓練基地跡の今  (広島市) 西原眞理子 

 “上下”の一方に現在の平和な実景を置き、他方にそれとは正反対の過去の思い出の中の光景を置くのは、短歌表現の“黄金パターン”とでも申すべき常套手段でありましょう。
 それだけに、さうした作中の何処かに“作者独自の何か”が、それと無く置かれていなければ、優れた作品とは申せません。
 本作中の“作者独自の何か”とは、何でありましょうか?
 〔返〕  鎮魂歌空に響きて涙垂るチェルノブイリの石棺の景   鳥羽省三