臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週のNHK短歌から(9月15日放送・永田和宏選)

2013年09月30日 | 今週のNHK短歌から
[一席]
(杉並区・荒川流美)
〇  板の間の隙間に詰まる君が爪小さき欠片を楊枝に拾ふ

 同じ「欠片」でも大まかな「欠片」は手掴みで拾って何したのであるが、それだけでは満足しなかったので、その後、「小さき欠片を楊枝に拾ふ」という運びになったのでありましょう。
 ところで本作の場合は、作中主体(=作者)が、今、自分自身が厳然として行っている事柄を描写しているだけであり、自分がしている事の意味も、それを行っている時の自分の心理状態も説明していないのであるから、それ以上の事は、鑑賞者の鑑賞能力に委ねられているのである。
 という事は、先に私が示した「同じ『欠片』でも・・・・・云々」は、鑑賞者たる私の勝手な憶測を述べたまでの事であり、それが正しいかどうかの判断は、本文の読者の判断に委ねられているのである。
 しかしながら、本質的に勝手な憶測を述べる事で成り立つはずの本作の鑑賞を、憶測すらしないままで、私が勝手に中止してしまったら、私は、鑑賞者としての責任を果たせないことになり、何時如何なる時に、その責任を追及されて詰め腹を切らせられる事態が生じるかも知れません。
 其処で、今しばらくの間は、曲解を恐れずに勝手ながら手前勝手な憶測をこのまま述べ続けさせていただきます。
 先ず、先に私が述べた「何した」について考えてみると、本作の作中主体は、真実「何をした」のでありましょうか?
 本作の作中主体は、「板の間の隙間に詰まる君」の「爪」の「小さき欠片を楊枝」で拾い集めて「何をしようとしている」のでありましょうか?
 通常、エロ小説などの描写場面で、作者が「何した」と書く場合は、「セックスをした」とか「接吻をした」とか「愛撫をした」とかに決まっていますが、本作の作中主体の場合の「何した」は、その類の「何した」とは明らかに異なっていて、「たまの休みに、ご亭主が暇潰しに爪切りをした後、そこいらじゅうに散らばっている爪の欠片を片づけもしまいまま、再びごろ寝を始めてしまったので、件のご亭主の配偶者としての作中主体が、その後始末をしているだけの事」なのである。
 と言う事は、本作の「創作意図」乃至「目的」が、「当ブログの読者諸氏の大多数がご期待なさって居られるような、隠微な出来事の大胆な描写にあるのではない」という事になる。
 でも、それだからと言って、当ブログの読者諸氏は、あんまり愕然としないで下さい。
 ところで、本作の作者は、東京都杉並区にお住いの荒川流美さん。
 察するに、荒川流美さんの生まれ在所は、元々、あの寅さんの生まれ在所と同じ「葛飾区柴又」では無かろうか、と、本文の執筆者の私は、たまたまならぬ、またまた勝手な憶測をしてしまうのである。
 〔返〕  荒川で産湯を遣った流美さんが杉並区にて爪拾いする   鳥羽省三


[二席]
(三郷市・川原晴恵子)
〇  じりじりと爪噛む女性がうつされるウインブルトンのファミリーボックス

 「ウインブルトンのファミリーボックス]と仰るからには、本作の題材となったのは、テニスの四大国際大会の一つである、あのウィンブルドン選手権が行われる芝生のテニスコートの内部の出来事では無く、その観客席での出来事でありましょう。
 その点を弁えたうえで、本作の題材となった光景について述べると、凡そ次の通りである。
 即ち、「彼のウィンブルドン選手権が行われている芝生のコートを見下ろすファミリーボックスの中に居て、今しも、一人の女性が爪を噛んでいるのである。ところが、その女性の何気無い仕草が、一台のテレビカメラに拠って「じりじりと」余す所無く映し出され、彼の爪を噛む女性の仕草は、世界各国、一億人以上のテニスファンの目前に曝されようとしているのである」となる。
 テレビカメラってなんて意地悪な文明の利器でありましょうか!
 本作に接して、私・鳥羽省三は、文明の利器たるテレビカメラに対して激しい怒りを感じると共に、一方ならぬ嫌悪の情をも覚えました。
 ところで、詠い出しの五音として置かれた副詞「じりじりと」は、直後の連文節「爪噛む」を修飾すると共に、その後の「(女性が)うつされる」をも修飾するのでありましょうか?
 だとすれば、本作の作者は、なかなか効率の良い言葉遣いをしている事になりましょうが、私が思うに、「じりじりと」という副詞は、切迫した事態を強調して述べる場合に使うべき副詞であるので、「ウインブルトンのファミリーボックス」に居て、テニスゲームを見ている女性客が「爪」を噛んでいる様子を述べる場合に、その何気無い仕草を修飾しようとして「じりじりと」という副詞を使うのは、やや不適当かと思われるのである。
 作者の川原晴恵子さんに於かれましては、如何でありましょうか?
 三歩退いて熟慮してみるに、件の女性が「爪」を「噛む」のは、芝生のコート内で展開されているテニスの試合の去就が気になり、「じりじりと」焦っているので、その代償行為としてなのかも知れません。
 〔返〕  じりじりと夏が焼け行く匂ひしてテニスコートは爆破寸前   鳥羽省三


[三席]
(岡山市・安藤兼子)
〇  爪無きこと選びし蛙の吸盤がぺたぺた登る散水の先

 あの田圃の「蛙」は、「爪」が無い状態で生きて行く事を敢えて自ら選択してまで、この世に「蛙」として現れ出でたのでありましょうか?
 また、不肖・鳥羽省三の連れ合いのS子は、この出来の悪い私と生活を共にする事を敢えて選択してまで、この世の中に一人の女性として現れ出でたのでありましょうか?
 本作に接して、私・鳥羽省三は、そんな事まで考えてしまったのであり、その結果として、先刻から、愕然たる思いに捉えられているのである。
 それにしても、「爪無きこと」を敢えて選んでこの世に蛙として現出した、その蛙が、爪の代わりとして自ら選んだ生活道具であり手段である「吸盤」を用いて、「ぺたぺた」と音を立てて、庭に置かれている「散水」ホースの「先」まで登って行く光景は、あまりにも傷ましく哀れな光景である。
 私の連れ合いのS子は、特価販売の味噌「料亭の味」を入手しようとして、この残暑の盛りに、片道約二キロメートルの距離に在るスーパーまで、徒歩で出掛けたのである。
 「この頃、運動不足で少し体重が増えたみたいだから、体重を減らす為のトレーニングみたいな気分で歩くのだから、気にしないでね」と彼女が言ったから、私は、彼女が徒歩で買い物に出掛けることを気にしない事にしたのではあったが、「爪無きこと選びし蛙」と同様に、彼女の歩行での買い物も、私にとってはなかなか哀れではある。
 〔返〕  ぺたぺたと音を立ててるサンダルの音に気付けばS子の帰宅   鳥羽省三


[入選]
(仙台市・小野寺寿子)
〇  爪の字を瓜と違えて書きし短歌(うた)瓜がよろしと入選したり

 本作を読んだとしたら、「そんな事って本当にあるのかしらん?わたし、信じらんない!」と、今年、中一の孫娘ならきっと言うに違いない。
 〔返〕  「爪に爪無く瓜に爪有り」とふいにしへの教へ有り難き哉   鳥羽省三


(日高市・横田武志)
〇  鷹爪ちぎって入れれば夏の味麻婆豆腐は親爺のレシピ

 この広い世間には、「たんたん短歌」や「かんたん短歌」が在るので、それと同様に「簡単レシピ」も在るはずであり、それがいつの間にか「親爺のレシピ」になってしまっていた、という訳でありましょう。
 世の親爺族とすれば、何時如何なる時に、女房族から放っぽり出されるかも知れないから、「簡単レシピ」ぐらいは身に付けて置かなければならない、という訳なのでありましょう。
 〔返〕 レタスの葉指で千切って湯で解いた味噌に放てばレタスの味噌汁   鳥羽省三
 先日、NHK総合テレビの昼の番組を観ていて知ったことですが、高原野菜の本場の野辺山高原の農家の主婦は、「レタスの味噌汁」という簡単レシピをお手の物としているそうです。
 その日の夕飯時に、早速、我が家でも「レタスの味噌汁」を作ってみたのでしたが、パリパリしていて案外美味しかったんですよ。


(横浜市・水野真由美)
〇  「待つ」という時間の甘さふくませて爪にゆっくり塗る茜色

 本作の作者の方は、「水野真由美」という、いかにもお美しそうなお名前からして、水商売に従事なさっておられるのかも知れません。
 それにしても、「『待つ』という時間の甘さ」との五七句の、何という巧みで美しくロマンチックな表現であることよ!
 その「甘さ」を「ふくませて」、「爪」を「ゆっくり」「茜色」に染めてご出勤なさったならば、どんなに志操堅固な男性でもイチコロになってしまうに違いありません。
 〔返〕 横浜で真由美という名で出ています阿仁の酒場じゃお熊でしたの   鳥羽省三
 上掲返歌中の「阿仁」とは、秋田県は県北の辺陬の地の名称であり、「阿仁のマタギ」と言えば、「知る人ぞ知る」といった存在であり、彼の地には、一昨年ぐらいまでは「熊牧場」と称する私設の観光施設が存在していたのでありましたが、その後の、その施設の帰趨は私には判りません。
 ところで、その僻陬の地の阿仁にも酒場らしきものが何軒か存在し、その昔、その施設に寝起きして居て、懐に大枚の紙幣を入れて通って来る「阿仁のマタギ」諸氏のお相手を仕る社交嬢たちは、己が醜名を「お熊」だとか「お鹿」だとか等と、戯れに名乗っていたとの事。
 その真偽の程は、私にも判然としません。


(横浜市・横森幸夫)
〇  残業で時どき遅刻の夜学生爪の中まで機械油染みて

 本作に接した瞬間、それまで私の胸底に眠っていた一つの記憶が突如蘇って来ました。
 それは、今から半世紀以上前の出来事でありますが、その年の「歌会始の儀」の入選作の一つとして、確か「夜学ぶ我が子らはみな火の匂ひ鉄の匂ひをさせて集ひ来」といった内容の作品が選ばれ、翌日の朝日新聞に掲載されていた、という記憶である。
 しかしながら、そのままの形では「歌会始の儀」の入選作品として相応しい作品とも思えませんから、その原型を、私が此処に正しく記すことは出来ません。
 その作品の作者の方は、東京都内の夜間高校にご勤務なさって居られる教師の方であったようにも記憶しておりますが、そちらの方も確かな記憶とは申せません。
 つきましては、当ブログの読者の方の中で、件の作品及びその作者に就いて、何らかの事をご存じの方が居られましたら、何卒、このブログのコメント欄を通じて、私にご教示賜りたくお願い申し上げます。
 〔返〕  馬場さんも三枝さんも勤めてた夜間高校いまに何処に   鳥羽省三
      吾もまた夜間高校に勤めてたその頃短歌に興味が無かった


(桜井市・中嶋隆男)
〇  縁側で独り爪切る姿あり我が亡きあとの君の姿か

 作中の「縁側で独り爪切る姿」は、本作の作者の幻視、或いは幻想だったのでありましょうか?
 だとすれば、私は、本作を「縁側で独り爪切る姿見ゆ汝が亡き後のまぼろしに見ゆ」などと改作したいという思いにも捉えられるのである。
 何故ならば、「縁側で独り爪切る姿あり」と詠んだ後、それに続けて「我が亡きあとの君の姿か」とまで詠んでしまうと、其処に駄目押し的な表現、即ち、二重表現的な思いが残ってしまうからである。
 〔返〕 縁側で爪切る我の姿見ゆ我が亡き後のまぼろしに見ゆ   鳥羽省三  

(広島市・大多和義)
〇  白墨のかけら抓みて書きにしか「姉様江」とふ被爆伝言

 「被爆伝言」の場合にしろ、他の場合にしろ、今は亡き肉親の書き残した文字や文章に接して、「我が肉親は、件の文字を記すに当たって、一体全体、如何なる思念に捉われていたのであろうか?」などと思うことは、よくあることである。
 まして、本作の場合は、広島市の「広島平和記念資料館」に展示されている「白墨」で記された「姉様江」という悲愴な文字を見てのことであるから尚更の事である。 
 「姉様江」の「江」が泣かせます。
 〔返〕  五指をみな傷付け破りて記せしか「敵は鳥羽」との血文字ありにき   鳥羽省三
      江どのへ 我が屍を乗り越えて秀忠殿に尽くすべきなり   


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