臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

「歌会始の儀」の御歌を読む(其の一)

2010年01月14日 | ビーズのつぶやき
 新春恒例の「歌会始の儀」が正月十四日午前、皇居宮殿の「松の間」で行われた。
 今年のお題は「光」。
 厳粛なる皇室行事について、一介のフリーライターでしかない私ごときが云々することは厳に慎むべきことではありましょう。
 しかし、それが皇室の新春恒例の行事である事と同様に、ものに触れて感興を起こし、それをブログに記す事が、昨今の私の習慣であり職務でもあるので、私たち日本国民の統合の象徴たる天皇陛下及び皇室の方々に失礼の無いように十二分に注意しながら、慎重に筆を運ばせていただきます。
 なお、本文に於ける敬語表現については、朝日新聞などの全国紙のそれに準じた扱いをさせていただきます。

 天皇陛下の御歌
    ○ 木漏れ日の光を受けて落ち葉敷く小道の真中草青みたり

 「宮内庁によると、天皇陛下は昨年の新緑の季節に、吹き上げ御苑内の小道を散策していた時に見た情景を詠んだ」(1月14日付け・朝日新聞夕刊)のだそうだ。
 私が、ここで、殊更に、この記事を引用したのは、私の知り得ない情報を知り得たので、それを読者の方々にご披露すると共に、これ以降の記事の中で、私が規範とすべき敬語表現の程度を確認するためでもある。
 この記事には、「天皇陛下は昨年の新緑の季節に、吹き上げ御苑内の小道を散策していた時に見た情景を詠んだ」とある。
 この記事の文頭に「宮内庁によると」とあるから、天皇陛下から直接お聴きして書かれたものでは無く、その情報源は、あくまでも「宮内庁」の公式発表であろうかと思われるが、「天皇陛下は昨年の新緑の季節に、吹き上げ御苑内の小道を散策していた時に見た情景を詠んだ」という叙述中の「詠んだ」の主語は、文頭の「天皇陛下」である。
 したがって、私が今後、この文章を書き進めるに当たって、その内容が、天皇陛下の直接行為について説明しなければならないような場合には、「天皇陛下はお詠みになられた」とか「天皇陛下はお詠みになった」というような書き方では無く、「天皇陛下は(中略)詠んだ」といったような書き方をしても良さそうである。
 この点は、朝日新聞以外の各紙に於いても、同様な扱いをしているので、要するに、現代の日本社会に於いては、天皇陛下の直接行為を描写したり、説明したりする場合でも、格別な敬語表現で以って行う必要は無いものと理解される。
 このことが確認されたので、私の筆の重い運びもかなり軽くなったので、そろそろ本題に入ろうかと思う。
 天皇陛下を初めとした皇室の方々の「歌会始の儀」の<御歌>及び<詠進歌>は、短歌と申すよりは和歌と申した方がより正確でありましょう。
 いや、文芸作品と申すよりは、今年一年の我が国及び世界の平和を祈念し、我々日本国民の生活の平穏を祈念されての、厳粛なるお言葉であると申した方がより適切でございましょうか。
 それを敢えて、何かに例えて申すならば、「家屋新築の為の上棟式に際して、斎戒沐浴し、威儀を正した神主が、上天に向かって高らかに申す祝詞や寿詞」に類する、「尊くかつ有り難いお言葉」であるとも申せましょう。
 それは、短歌誌や新聞などに掲載された歌人の作品などとは明らかに目的を異にして詠まれ、性格を異にして存在するものでありましょう。
 従って、ここでは、その巧拙について論評することは止め、この一首に込められた、天皇陛下の広く温かい御心を拝受しておくことに致しましょう。


 皇后さまの詠進歌
    ○ 君とゆく道の果たての遠白く夕暮れてなほ光あるらし

 この詠進歌もまた、前述の天皇陛下の<御歌>と同じように、通常の短歌などとは目的も性格も異にしてお詠みになられたものであると思われ、その点については、この後の、皇室の方々の詠進歌についても全く同様ではありますが、その点についての注釈は、これ以降省略させていただきます。
 この一首は、ご夫君の天皇陛下の御歌にご唱和してお詠みになられたものであり、天皇陛下とご一緒に皇居内をご散策されたことから取材なさったものと思われる。
 初句に「君とゆく」とあるが、この場合の「君」とは、申すまでも無く<一天万乗の君>即ち、天皇陛下を指すところの「君」でありましょう。
 しかし、最近の皇室のご事情や、マスコミで伝えられている、天皇陛下と皇后陛下との睦ましく温かい御仲などを拝察するとき、評者はふと、本作中の「君」を「あなた」の意として解釈したくなる。
 そして、そうした異例の解釈の余地を残したところに、この作品の素晴らしさが在るとも思うのである。
 初句に続いての「道の果たての遠白く夕暮れてなほ光あるらし」という語句の運びは、ご観察眼の行き届いた素晴らしい表現であり、淀むことを知らない調べでもある。
 写生に徹しながら写生のレベルを超え、<象徴>の域にまで達している。
 「夕暮れてなほ光あるらし」などと、超絶不況下の生活に苦しんでいる、私たち国民に対する、温かく優しいお気持ちを示されたお歌でありながらも、御仲睦ましきご夫君に対する敬愛の情をも示され、かつ、ご自身の理想境を象徴的にお詠みになっても居られるのである。
 失礼を省みずに申すならば、「皇室の方々の作品、召人や選者の方々の作品、一般入選者の方々の作品をも含めて、当日ご披露に及んだ全詠進歌の中で最も優れた作品が、この皇后様の御作である」とは、我が連れ合いの弁である。
 「あなたの弁舌は、大相撲解説者の元・北の富士さんと同じように、どんな場面でも、否定することから説き起こす」とは、私の弁舌に対する、我が連れ合いの評価ではあるが、この場面に於いては、我が連れ合いの弁に対して、私は格別な異論を称えるつもりは無い。


 皇太子さまの詠進歌
    ○ 雲の上に太陽の光はいできたり富士の山はだ赤く照らせり

 日嗣の皇子の御作に相応しく、日本の象徴たる富士山のご来光をお詠みになられたお歌である。
 「歌会始の儀」の詠進歌に相応しく、日本一の「富士山」での<初日の出>を題材とされながら、その作中に「雲」の一字をお添えになられたのは、未だ本復でいらっしゃらない、お妃殿下のお気持ちや、不況下の生活に苦しむ私たち国民の気持ちを慮ってのことでありましょうか?
 新年に臨まれてのご自身のご抱負を述べられ、併せて、私たち国民の進むべき方向をお示しになられた、めでたくありがたいお言葉として受け取らせて頂きます。 
 ところで、このような温かくおめでたい詠進歌を、「歌会始の儀」の当日の講師の方が、「雲の上に太陽の光はいできたり富士の山はだ赤く染めたり」と朗詠されたのは、如何なる理由が在ってのことでありましょうか?


 皇太子妃雅子さまの詠進歌
    ○ 池の面に立つさざ波は冬の日の光をうけて明かくきらめく

 日嗣の皇子のお妃様の御作に相応しく、明るい中にも、慎ましやかなお心を込めてお詠みになられた詠進歌として拝読させていただきました。
 しかし、「池の面に立つさざ波は」という、一、二句の表現に、必ずしもご本復でいらっしゃらないようなご気分と心理とを感じ取らせていただきましたが、それは失礼というものでありましょうか?
 ご夫君の皇太子様が、富士山上に輝く日の光をお詠みになっていらっしゃるから、お妃様は、東宮御所内の池の面にきらめく日の光をお詠みになられたのであろう。
 ご夫妻のご連携が見事である。


 秋篠宮さまの詠進歌
    ○ イグアスの蛍は数多光りつつ散り交ふ影は星の如くに

 皇室外交の一翼を担われ、南米をご旅行なさった時の<お歌>でありましょうか。 
 ご壮健で、ご活発で、御仲宜しくて、なによりと存じ上げます。
 一首の内容についても、調べについても、格別申し上げるべきことはありません。


 秋篠宮妃紀子さまの詠進歌
    ○ 早春の光さやけく木々の間に咲きそめにけるかたかごの花

 ご健康でご聡明な三人のお子様にも恵まれ、殿下との御仲も人も羨む睦ましさで、何よりもお目出度く存じます。
 ご夫君の秋篠宮様が、外つ国の、<星>の如くに光る<蛍>をお詠みになられたことから、お妃様は、我が国の<花>をお詠みになられたのでありましょう。
 これまた、チームワークの佳さ。
 「歌会始の儀」の当日、講師の方々が本作を高々と朗詠された折、作者の紀子さまが、いつもの如く、細い御目を更に細められ、極度な緊張を示されて居られた。
 そのご様子をテレビで視ていた我が愚妻が、「プレッシャーを感じられていらっしゃるのか、お妃様はやはり緊張していらっしゃる。このプレッシャーと緊張とは、この場限りのものでは無く、これまでもこれからも、一生続くものでありましょう。もしそうならば、私にもあの時、『どうか』との有り難いお話がございましたが、堅くご辞退申し上げました。私のあの時のとっさの判断は、やはり正解でした」などとの戯け言を口にしていた。
 そこで私は、「彼方と此方の身分の違いも弁えずに、かかる厳粛な日に、かかる戯け言を口にするとは、失礼千万なヤツだ」と、即座に叱り飛ばしてやりました。
 新春から愚痴を溢すようではあるが、愚か者をパートナーにしていると、人に言えないような苦労もいろいろと多いのである。


 常陸宮さまの詠進歌
    ○ 父君に夜露の中をみ供してみ園生を行けば蛍光りぬ

 これまでの六名の方々の御作とは、その内容が明らかに異なる。
 新年の喜びを詠い、我々日本国民を激励し、その進むべき方向を指し示すといった内容のお歌ではないのである。
 皇室の方々と申しても、現帝の弟君というお立場ともなると、こうした内容のお歌を、「歌会始の儀」に際しての詠進歌として出詠されるのでありましょうか。
 私は、この方が未だご幼名の<義宮>としてお呼ばれになり、<火星ちゃん>という愛すべきニックネームを奉られていらっしゃた頃から、新聞やラジオなどの報道を通じて存じ上げているつもりである。
 しかし、この方のその後の足取りは必ずしも順調では無いようにも漏れ承っている。
 江戸末期までの皇室には、皇太子以外の男児の中の何方かが、僧門の人となって、ご両親などの皇室の祖先の方々の成仏と平穏とを祈願するという習慣が在ったかのように聞いている。
 本作の作者・常陸宮様は僧門の人ではありませんが、私が本作を拝見した瞬間に思ったことは、過去の皇室でのそうした習慣のことであった。
 他の方々が、<めでた尽くし>の御作をお詠みになっていらっしゃる中にあって、ひとり常陸宮様だけが、今は亡き父君・昭和天皇との思い出、しかも暗闇の中での<思い出>をお詠みになった居られることに、私は一抹の寂しさを感じた。
 
 
 常陸宮妃華子さまの詠進歌
    ○ 大記録なししイチローのその知らせ希望の光を子らにあたへむ

 題材が変わっていて、興味深い<お歌>であるとは申せましょう。
 型破りの詠進歌として、高く評価される向きもございましょう。
 米国のメジャーリーグでの「イチロー」選手の「大記録」達成は、確かに、「希望の光を子らにあたへむ」とも思われましょう。
 しかし今、「歌会始の儀」という場で、それについてお詠みになられるご理由は、一体、何処にお在りなのでしょうか?
 しかも、本作と本作の作者のご夫君の常陸宮様の詠進歌とは、何一つの関わりも感じられないのである。
 ご夫君が「山」と言えば、ご妻女が「川」と応えてご唱和しなければならない、という時代でも無いでしょうが、しかし、場面が場面である。
 私は、常陸宮妃殿下の御作について、格別非難しようなどという不遜なことを考えている訳ではない。
 あまりにも異例な詠進歌を目前にして、ただただ驚嘆し、愕然としているだけである。


 三笠宮妃百合子さまの詠進歌
    ○ 雪はれし富良野の宿の朝の窓ダイヤモンドダストのきらめき光る

 四句目の「ダイヤモンドダストの」は大幅な字余り句である。
 「歌会始の儀」は、昔ながらの朗詠という方法で作品を披露し、観賞する場であるから、この作品のように大幅な字余り句を抱えた作品は、その場に相応しからぬ作品とも言えましょうか。
 それにも関わらず、この作品をこのままの形で「歌会始の儀」の詠進歌となさったのは、作者の三笠宮妃百合子様の、格別なご見識と、格別なご自信に基づかれてのことであろうかと拝察される。
 私見ではあるが、「ダイヤモンドダスト」という語は、この作品の核心を成す語であり、かつ、第四句が大幅な字余りの句であっても、朗詠や音読の支障にはならないであろうと判断される。
 ではあるが、この一首を詠進歌として出詠される時には、かなりのご覚悟を必要とされたものと拝察される。
 そして、その思い切ったご詠進に、私は大いなる意義を感じる者である。
 
  
 高円宮妃久子さまの詠進歌
    ○ 北極の空に色づくオーロラの光の舞ふを背の宮と見し

 「歌会始の儀」の詠進歌として、現在の皇室の鎮めにもなろうとも思われるお二人の女性が、共にカタカナ語を含んだ作品をお詠みになられたことは、少なからぬ意味のあることである。
 先にも説明したように、皇族の方々の「歌会始の儀」の詠進歌は、通常の短歌とは異なった性格の作品であり、通常の短歌とは異なった目的に基づいてお詠みになられた作品ではある。
 とは申せ、通常の短歌と同様に、語句の選択や表現には、それなりの創意工夫が為されなければならない。
 私は、本作の作者の高円宮妃久子様や、前作の作者の三笠宮妃百合子様は、こうしたカタカナ語を含んだ作品を詠進歌とすることによって、創意工夫への第一歩を踏み出そうとなさって居られるのであろうと拝察している。
 同じカタカナ語を使用する場合であっても、「ダイヤモンドダスト」や「オーロラ」というカタカナ語を使用するのと、「イチロー」というカタカナ語を使用するのとでは、大きな違いが在ると思われるのである、とまで申したら、それは言い過ぎでありましょうか?

 
 高円宮家長女承子さまの詠進歌
    ○ 黄金に光り輝く並木道笑顔の友の吐く息白く

 歌い出しの語、「黄金」に<わうごん>という<振り仮名>が施されている。
 この<振り仮名>在るを以って、本作が文語短歌であることが証明されましょう。


 高円宮家次女典子さまの詠進歌
    ○ 葉の上にぽつりと残る雨粒に雲間より差す光ひとすぢ

 作品中の語「ひとすぢ」にご注意を。
 本作が口語短歌ならば、この「ひとすぢ」は「ひとすじ」となっていなければならないからである。
 ことほど然様に、「歌会始の儀」の詠進歌として、皇族の方々がお詠みになられる御作は、全て文語作品なのである。
 ご都合に応じて、文語表現の良さをちゃっかり拝借するなどという下品な事は、どなたもやって居られない。


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