臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週のNHK短歌から(12月1日放送・小島ゆかり選・決定版)

2014年01月03日 | 今週のNHK短歌から
[一席]

(徳島県北島町・重川敏子)
〇  無口な子今日は怒っている無口吹っ切るように鞦韆を漕ぐ

 「無口な子」の無口振りにもいろいろなスタイルがあって、「今日」の場合は、自分自身の「無口」を「吹っ切るように」して「鞦韆を漕」いでいるのであるから、自分自身の不甲斐なさを「怒っている」スタイルの「無口」であろう、と掲歌の作者・重川敏子さんは判断しているのでありましょう。
 「無口な子」にそれとなく注いでいる、作者・重川敏子さんの温かく優しい視線が感じられる佳作である。
 〔返〕  無口な子今日はぶらんこ漕ぐ気ない暗くなっても家に帰れぬ


[二席]

(文京区・市岡和恵)
〇  新しい靴が踏まれた総武線たぶん私は無理をしている

 「総武線」という、極めて特色のある路線の車内風景を活写すると共に、その沿線に住み、通勤にその路線を利用せざるを得ない、作者自身の遣る瀬無い心理状態をも描写した作品である。
 田園都市線や半蔵門線などの他の路線の乗客たちと比較すると、埼京線や総武線の乗客たちは、先を争って座席に掛けようとするし、混雑した列車の中で他の乗客の靴を踏んだりしても、決して謝ろうとしないのである。
 文京区内にお住いになられ、朝晩の通勤に「総武線」を利用している、掲歌の作者・市岡和恵さんは、なけなしの金を叩いて「新しい靴」を買ったのであるが、ある朝、あろうことか、その「新しい靴」を履いて「総武線」の乗客となってしまったのである。
 客観的に判断すると、その結果は予想通りであったのであるが、当日のご当人の気持ちからすれば意外なことに、なのかも知れませんが、彼女の「新しい靴」は、他の乗客たちの遠慮会釈の無い泥足の格好の餌食となってしまったのである。
 「たぶん私は無理をしている」とは、見るも無残な姿となってしまった「新しい靴」と、真っ赤に膨れ上がったおみ足を前にしての、作者の反省の弁でありましょうが、「遅かりし由良之助」とは、こうした場合に口にするセリフでありましょうか?
 〔返〕  貞操が幾つ在っても成田線振り向きざまにスカート切らる 

[三席]

(さくら市・大場公史)
〇  赤飯にたっぷり胡麻を振るように夕焼け空に無尽の鴉

 見立てが宜しくありません!
 「夕焼け空」に「無尽」に飛んでいる「鴉」を、「赤飯にたっぷり」振った「胡麻」に見立てるとは、何たる不作法でありましょうか!(なんちゃったりして・笑)
 〔返〕  焦げ飯に冷えたカレーを掛けたようプラツトホームに酔客の反吐


[入選]

(苫小牧市・秋山輝義)
〇  廃線となりたる跡に「幸福」駅と呼ばれし無人の駅舎残れり

 「幸福駅とは、北海道帯広市幸福町にあった日本国有鉄道・広尾線の駅であったが、広尾線の廃線に伴い昭和六十二年(1987)二月二日を以って廃駅となったのである。しかしながら、駅名の縁起の良さから乗車券や入場券などが観光客の羨望の的となり、廃止後も観光地として整備されている」といった説明が為されるのでありましょうが、北海道内にお住いの作者からすれば、往時の面影も虚しくして、その実態は「廃線となりたる跡に『幸福』駅と呼ばれし無人の駅舎残れり」といったことに成り果ててしまったのでありましょう。
 発想そのものは有り触れたものであるが、北海道民としての実感が込められている一首でありましょうか?
 〔返〕  廃線を面影求めて彷徨えば幸福駅は幻想の駅
 

(川口市・豊田トヨ子)
〇  兼題の無は面白く身近にも無鉄砲居て無頓着も居る
 
 掲歌に接した機会に、一つだけ勉強させていただきました。
 と言うのは、手元に置かれている辞書に拠ると、掲歌中の「兼題」とは、「《兼日の題の意から》歌会・句会などで、題を予め出しておいて作るもの。また、その題。⇔席題」という解説が為されているのであり、この言葉自体は、私もとっくの昔から知ってはいたのでありましたが、最近、各地で行われている歌会の場に於いては、当日に主宰者側から示される「兼題」を、敢えて「兼題」と呼ぼうとしないで、「お題」などという、「格式ばった」と言うか、「乙女チックな」と言うか、妙に不潔で不健康な言い方をしているのであり、私は、その度ごとに、その場に居た堪れないような思いに捉われていたのでありました。
 そういう訳で、私は今日から「兼題」という言葉を人前で誰に遠慮することも無く、使ってみようと決意した次第でありました。
 「兼題」という言葉を私に思い出させ、私に使わせる決意をさせて下さった、埼玉県川口市の豊田トヨ子さん、この度は真に有り難うございます。
 一期一会ならぬ「一語一会」の御恩、私は決して忘れはしません。
 感謝感激に浸っているのはこれくらいにして、そろそろ本題に戻りましょうか。
 本日の「兼題」とされている「無」の一字は、「兼題」として面白いか面白くないかは別として、私たちの身の周りには、「無頓着・無節操・無気力・無感動・無責任・無器量・無定見」といった、接頭語として「無」の一字を戴いた人物や事象がごまんと在るのである。
 しかしながら、掲歌の作者の謂う「無鉄砲」な人物は、非常に少なくなってしまったのか、或いは皆無になってしまったのでありましょうか?
 一見すると、昨今の安倍総理大臣閣下の一連の行為などは「無鉄砲」極まりない行為のようにも思われますが、彼の行為は「無鉄砲」と言うよりも、むしろ「無節操・無責任・無定見」極まりない行為と言うべきでありましょう。
 かくして、私たちの身の周りから「無鉄砲」な人物が消え失せてしまいましたが、「無鉄砲」な行為をする人物は、夏目漱石の昔物語の中にしか存在しないのでありましょうか?
 〔返〕  無鉄砲なら許せるが無節操馬鹿丸出しの江田新党か


(川越市・小野長辰)
〇  学校は行きたくないし行きたいしごちやごちやだよと言ふ一年生

 「ごちやごちやだよ」とは、まさしく至言である。
 昨今の一年生(のみならず、教師も亦)の心境は、「学校は行きたくないし行きたいし」「先生は好きでもあるし嫌いでもあるし」「ごちやごちやだよ」なのである。
 その「ごちやごちや」したところの内容を細やかに分析して、対応するのが校長の職務なのであるが、世に謂う「校長」の殆どは「無節操・無責任・無気力・無器量・無頓着・無定見」極まりない輩であるから、彼らに期待して居ては、事態は何一つ解決しないのである。
 〔返〕  恰好は付けたくないし付けたいし卒業式の校長訓話


(千葉市・熊谷貢)
〇  連れ歩く母はもう無し街路樹の日向づたひに落葉ふむ音

 「老老介護」の場面を回想しての一首でありましょうか?
 作中の「落葉ふむ音」は、作者自身の「落葉を踏む音」というよりも、幻影の中の「母」の「落葉を踏む音」なのかも知れません。
 〔返〕  吾を牽くクロも亡くなりもう三月 日向伝いに杖突き歩む


(福岡県篠栗町・末松博明)
〇  ファミレスの真後ろの席の老人は「詮無いこと」と繰り返すなり

 今更悔やんでも詮無いことでありましょう。
 独り暮らしの老耄になってしまったことも、退職金を使い果たしてしまったことも、道を歩いていて若い女の子のぶつかりでもしようものなら、「この糞じじい!いい年して、ふらふらすんなよ!」と叱り飛ばされてしまうことさえも、家に帰っても灯り一つ点っていないことさえも。
 〔返〕  市営バスの後ろの席の女高生「メール来ない!」と呟いている


(小城市・野中暁)
〇  みんなからちょっぴり離れていたいだけ用なきトイレにゆっくりと行く

 「お茶する」という言い方は在っても、「トイレする」という言い方は在りません。
 だけれども、「みんなからちょっぴり離れていたいだけ」の時には、「用なきトイレにゆっくりと行く」ことも有り得ましょうから、「お茶する」という言い方と共に「トイレする」という言い方も在って欲しいものである。
 〔返〕  小田急のバスの吊革にぶら下がりウルトラCをやらかす祖母よ


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